第七十九話 選ばれなかった道
神代林檎ほどの人物が、一地方の商工会へ姿を現すことは本来ほとんどない。
彼の主戦場は、日本国内ではない。
海外企業との提携、巨大資本の再編、国境を越えた企業買収。神代一族の中でも、世界経済を盤上として動かすことを得意とする男だった。
だからこそ、地域経済を束ねる麻那とは普段ほとんど仕事が交わらない。
だが今回だけは事情が違った。
麻那のもとへ持ち込まれた案件には、表向きは見えない海外投資会社が複数関与していたのである。
国内企業同士の問題なら麻那だけで十分だった。
しかし、資本の流れを数段上から辿ると、その先には神代林檎の管轄と重なる企業群が姿を現した。
「これは私の案件でもある」
林檎はそう言って、自ら商工会へ足を運んだ。
神代一族は互いの領分へむやみに踏み込まない。
それでもなお林檎が動いたという事実だけで、この案件が一地方の商工会では収まらない規模へ発展しつつあることを、麻那は静かに理解していた。
神代林檎は、人に選択を強いることを好まない。
だからこそ、選択肢を整える。
人は、自分に見えているものの中からしか未来を選べない。ならば、何を見せ、何を見せないか。その判断を誤らない者が必要だと、林檎は考えていた。
それを傲慢だと言う者もいる。
他人の未来を勝手に決めていると非難する者もいる。
林檎は、そのどちらも否定しなかった。
すべての道を残そうとすれば、決断は遅れる。決断が遅れれば、本来なら守れたものまで失われる。
誰かが選ばなければならない。
ならば、自分が選ぶ。
少なくとも、自分には選んだ後の責任を引き受ける覚悟がある。
その日、神代商工会へ持ち込まれたのは、北陸地方にある老舗木材会社の事業承継問題だった。
創業百十六年。
地元の山で育った木材を扱い、酒蔵や神社の建築資材を供給してきた会社である。
従業員は八十七名。
規模だけを見れば、大企業とは呼べない。
しかし、その会社と取引する林業従事者、製材所、職人、運送会社まで含めれば、数百人の生活が関わっていた。
問題は、創業家の社長が倒れたことだった。
命に別状はない。
だが、経営へ復帰できる見込みは薄い。
後継者候補は三人いた。
一人目は、社長の長男。
大学を卒業してから会社へ入り、十五年間、父を支えてきた。
誰より会社を愛している。
だが、経営者としての能力には不安があった。
人を信じ過ぎる。
数字より感情を優先する。
社員からは慕われているが、取引先との交渉では何度も損をしていた。
二人目は、社長の次女。
東京の大手企業で海外事業を担当している。
経営能力だけを見れば、三人の中で最も高い。
しかし本人は地元へ戻ることを望んでいなかった。
三人目は、会社へ三十年以上勤める専務。
現場を知り、取引先からの信頼も厚い。
社員の多くは、専務が後継者になることを望んでいた。
ただし、創業家の人間ではない。
誰を選んでも、何かが残る。
誰を選んでも、何かを失う。
神代商工会の会議室で資料を読んでいた麻那は、三人全員から話を聞く必要があると考えた。
「まずは現地へ担当者を送りましょう。財務状況だけでなく、社員や取引先の意見も確認します」
麻那の提案に、梓鉉の弟も頷いた。
「後継者を決める前に、経営体制そのものを見直す必要があります」
萩は資料を眺めながら言った。
「会社だけを残しても、地域との繋がりが切れれば意味がない。職人たちの話も聞いた方がいいだろう」
その時。
会議室の奥で黙って資料を読んでいた林檎が、静かに口を開いた。
「三人とも、社長にはしません」
麻那が顔を上げた。
「では、誰を選ぶんですか」
「まだ決めていません」
「候補から外したのに?」
「候補であることと、選ぶ価値があることは別です」
林檎は資料を閉じた。
「現地を見てきます」
そう告げた翌朝。
林檎は一人で北陸へ向かった。
護衛はいない。
補佐役も同行していない。
神代一族の中でも、林檎は単独で動くことが多かった。
誰かを信用していないわけではない。
必要がないのだ。
現地の駅へ降りると、空は低い雲に覆われていた。
山から吹く風は冷たく、遠くには雪を残した峰が見える。
目的の会社は、駅から車で四十分ほど離れた山間の町にあった。
古い製材所に木材倉庫。
歴史を感じさせる事務所。
その周囲には、小さな住宅地が広がっている。
少し離れた山の麓には、会社が長年資材を奉納してきた神社もあった。
林檎は駅前で立ち止まった。
目を閉じる。
「双晴」
静かに名を呼ぶ。
風が止まった。
林檎の背後で、空間が僅かに歪む。
そこから二つの光が現れた。
一つは白。
一つは黒。
鳥のようにも見える。
巨大な眼のようにも見える。
形は一定ではない。
白い双晴は、人の営みを見る。
黒い双晴は、人には見えないものを見る。
二つの霊体は音もなく空へ昇った。
十メートル。
百メートル。
千メートル。
やがて人の目では捉えられない高さへ到達する。
林檎は目を開いた。
その瞬間。
町全体が、林檎の視界へ流れ込んだ。
道路。
住宅。
会社。
神社。
山。
川。
町を歩く人。
走る車。
製材所で働く職人。
すべてが同時に見える。
白い双晴は、地上の動きを捉える。
黒い双晴は、土地を流れる霊脈を見る。
人の感情。
残留する思念。
怪異の気配。
二つの視界が重なり、町全体が巨大な地図となって林檎の意識へ広がった。
神代一族の中には、双晴を「空を巡る偵察衛星」と呼ぶ者もいた。
遠くを見る。
高くから見る。
そして、人が隠したものを見る。
林檎は会社へ向かって歩き始めた。
その間も、双晴は町を巡る。
長男は製材所にいた。
社員と話し、現場の作業を手伝っている。
人望はある。
だが机の上には、未処理の契約書が積まれていた。
白い双晴が人の動きを見る。
黒い双晴が、長男の中にある焦りを見る。
父に認められたい。
会社を継ぎたい。
だが、自分に経営者の力があるのか分からない。
次女は、すでに東京から戻っていた。
実家には帰らず、駅前のホテルへ泊まっている。
窓際で電話をしながら、何度も東京へ戻る時間を確認していた。
会社を嫌っているわけではない。
家族を嫌っているわけでもない。
ただ、地元へ戻れば、自分が築いてきた人生を失うと思っている。
専務は銀行にいた。
会社への融資継続を求めて頭を下げている。
自分が社長になれば会社を守れる。
その自信はある。
しかし、創業家の会社を奪ったと思われることを恐れている。
三人とも会社を守ろうとしている。
だが、それぞれが別のものも守ろうとしていた。
長男は父からの承認。
次女は自分の人生。
専務は創業家への忠義。
誰も間違ってはいない。
だからこそ、選べない。
その時。
黒い双晴の視界が揺れた。
会社の地下。
木材倉庫の下。
黒いものが蠢いている。
人の迷い。
嫉妬。
不安。
後悔。
選ばれなかった未来。
それらが長い年月をかけて集まり、一つの形を作り始めていた。
林檎は足を止めた。
「なるほど」
これは、ただの事業承継問題ではない。
人々が選べずにいる時間そのものを餌にしている怪異がいる。
そして怪異は、人の迷いを増やしている。
決断を遅らせる。
選択肢を増やす。
失うものばかりを見せる。
誰も選べなくなる。
その間に怪異は育つ。
林檎は会社へ入った。
会議室には、長男、次女、専務が待っていた。
「神代林檎です」
簡単に名乗り、三人の向かいへ座る。
「今日は後継者を決めません」
長男が驚いた。
「では、何のために来たんですか」
「確認するためです」
「何を?」
「貴方たちが、本当に望んでいることを」
林檎は長男を見る。
「社長になりたいですか」
長男は迷わず答えた。
「会社を守りたいです」
「質問が違います」
林檎は繰り返す。
「社長になりたいですか」
長男は黙った。
しばらくして、小さく答える。
「……なりたいです」
「なぜ?」
「父に認めてほしいからです」
林檎は次女を見る。
「地元へ戻りたいですか」
「戻りません」
「会社が嫌いですか」
「違います」
「では、なぜ?」
次女は少し俯いた。
「ここへ戻ったら、私の人生がなくなるからです」
林檎は頷いた。
次に専務を見る。
「社長になりたいですか」
「必要であれば」
「それは答えではありません」
専務は黙った。
やがて、絞り出すように言った。
「怖いんです」
「何が?」
「創業家の会社を奪ったと思われることが」
林檎は三人を見た。
誰も嘘をついていない。
誰も会社を捨てようとしていない。
ただ、選べないだけだ。
「今日は終わりです」
林檎は立ち上がった。
長男も慌てて立つ。
「待ってください。結論は?」
「まだ出しません」
「いつ出すんですか」
林檎は扉を開いた。
「今夜です」
夕方。
町に雨が降り始めた。
林檎は一人で木材倉庫へ向かった。
双晴は空から町を見ている。
黒い双晴の視界では、倉庫の地下にいる怪異が急速に膨らんでいた。
三人が本音を口にしたことで、選択への恐怖が強くなったのだ。
倉庫の扉を開く。
湿った木の匂いがした。
積み上げられた木材の隙間には、深い闇が広がっている。
床を黒い影が這っていた。
やがて、声が聞こえた。
――選べ。
――すべてを選べ。
――何も捨てるな。
声は一つではない。
長男。
次女。
専務。
過去に会社で選択を迫られた人々。
何十年も積み重なった迷いが混ざっている。
ゆっくりと床が裂けるように割れ、その下から巨大な樹木のような怪異が姿を現す。
幹には無数の人の顔が浮かび、枝の先には、人の腕のようなものが生えていた。
選ばれなかった未来。
捨てられた可能性。
叶わなかった願い。
そのすべてを抱え込み、怪異は巨大になっていた。
「迷い喰らい」
林檎は怪異を見上げた。
古い怪異だった。
人が決断を迷うほど力を増す。
選ばない時間が長いほど、大きくなる。
怪異の枝が広がる。
――選べ。
――全部選べ。
――捨てるな。
林檎は動かなかった。
「無理です」
静かに言う。
「人は、すべてを選べない」
枝が一斉に林檎へ襲いかかる。
林檎は片手を上げた。
「双晴」
空から、白と黒の光が落ちた。
倉庫の屋根をすり抜け、林檎の左右へ降りる。
白い双晴が、怪異の全体を捉える。
黒い双晴が、その内側を覗く。
三百を超える枝。
八十七の顔。
地下四メートル。
核は一つ。
すべてが林檎の意識へ流れ込む。
怪異が次にどこを攻撃するのか。
どの枝が囮なのか。
どこに力を集めているのか。
林檎には、すべて見えていた。
巨大な枝が頭上から落ちる。
林檎は半歩だけ横へ動いた。
枝は床を砕いた。
横から別の枝が迫る。
振り返らずに避ける。
背後から伸びた腕を、黒い双晴が影の中へ引きずり込む。
白い双晴が怪異の動きを固定する。
林檎は歩き続けた。
武器は持っていない。
援護もない。
神降しさえ行わない。
それでも負ける理由はなかった。
相手の動きが見える。
核の位置が分かる。
弱点も分かる。
ならば、必要な道だけを選べばいい。
林檎は怪異の中心へ辿り着いた。
「お前は、人の迷いを増やした」
黒い核が脈打つ。
「けれど、迷うことは悪くない」
林檎は核へ手を伸ばした。
「選ぶのが怖いだけ」
怪異の枝が、一斉に林檎へ向かう。
白い双晴が光を放つ。
すべての枝が止まった。
「だから」
林檎は核へ触れた。
「誰かが決断して終わらせなければならない」
白と黒の光が重なる。
怪異の身体へ亀裂が走った。
枝が崩れる。
顔が消える。
声が遠ざかる。
最後に、怪異が尋ねた。
――選ばなかった道は、どうする。
林檎は答えた。
「私が覚えておくよ」
核が砕けた。
倉庫に静けさが戻った。
翌朝。
会議室には、再び三人が集まっていた。
林檎は一枚の資料を机へ置いた。
「専務が社長になります」
専務が息を呑む。
長男は立ち上がった。
「なぜですか。俺は十五年、この会社にいました」
「知っています」
「なら、どうして」
林檎は別の資料を長男へ渡した。
そこには、地元の木材を使った新しい住宅事業の計画が書かれていた。
「これは?」
「貴方が三年前に提案した事業です」
長男は驚いた。
「覚えていたんですか」
「はい」
「貴方は社長には向かない。でも、新しいものを作ることにはとても向いています」
長男は黙った。
「父親に認められるために、社長になる必要はないのです」
次に林檎は次女を見る。
「貴女は東京へ戻っていただいて構いません」
次女は驚いた。
「いいんですか」
「ただし、社外取締役として月に一度、経営へ参加してください」
「それならできます」
「自分の人生を捨てる必要はありません。会社を捨てる必要もない」
最後に専務を見る。
「創業家が株を持ち、貴方が経営を担います」
専務は震える声で尋ねた。
「本当に、私でいいのでしょうか」
「社員は貴方を選んでいます」
林檎は静かに言った。
「私は道を整えました。ですが、それを受け入れるかは、貴方が選んでください」
長い沈黙の後。
専務は深く頭を下げた。
「引き受けます」
会社は残る。そして社員も残る。
次女の人生も残る。
長男の夢も残る。
すべてが、最も良い形へ収まったように見えた。
その日の午後。
麻那から電話があった。
『解決したそうですね』
「はい」
『三人とも納得したんですか』
「しました」
『怪異もいたと聞きました』
「いました」
『一人で処理したんですか』
「はい」
電話の向こうで、麻那がため息を吐いた。
『応援を呼んでください』
「必要ありませんでした」
『林檎さん。全部を一人でやる必要はないんですよ』
林檎は少しだけ笑った。
「麻那さん」
『はい』
「貴女が、それを言うのですか」
麻那は黙った。
林檎は電話を切った。
会社を出て駅へ向かう途中。
後ろから長男が追いかけてきた。
「林檎さん」
振り返る。
長男は、一枚の紙を差し出した。
社長就任の辞退届だった。
「昨日、書きました」
林檎は受け取った。
紙の裏に、小さな文字がある。
――本当は、一度だけ、自分で会社を動かしてみたかった。
林檎はそれを読んだ。
「貴方には、方針を変えれば社長になれる可能性もありました」
長男が顔を上げる。
「そんな方針もあったんですか」
「はい」
「なら、どうして教えてくれなかったんです」
林檎は答えた。
「知れば、貴方は迷ったからです」
長男の表情が変わった。
「それは、勝手じゃないですか」
「はい」
林檎は否定しなかった。
「貴方が社長になる未来では、会社が残る可能性は五年」
「専務なら?」
「二十年」
「だから、俺には言わなかった?」
「そうです」
長男は黙った。
「俺の選択を、林檎さんが決めたんですね」
「そうです」
林檎は、また否定しなかった。
しばらくして。
林檎は辞退届を長男へ返した。
「ただし、新規事業が成功すれば、五年後にもう一度選ぶ機会が来るでしょう」
長男が林檎を見る。
「その時、私はいません」
林檎は言った。
「必要な情報は、自分で集めてください。そして今度は、自分で選んでください」
林檎は背を向けた。
駅へ向かって歩く。
空から、双晴が戻ってきた。
白い光が右へ。
黒い光が左へ。
町全体を覆っていた膨大な情報が消え、林檎の意識に静けさが戻る。
選ばれなかった道は、消えたわけではない。
ただ、今は選ばなかっただけだ。
林檎は空を見上げた。
「すべてを見せることが、優しさとは限らないからな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
少し歩いた後。
もう一度、口を開いた。
「けれど」
足を止める。
「隠すことが、正しいとも限らない」
双晴が、林檎の左右で静かに揺れた。
林檎は再び歩き始める。
誰かが選ばなければならない。
誰かが、選ばれなかった道を覚えていなければならない。
だから林檎は選ぶ。
その選択が正しかったのかを、いつまでも忘れないために。




