第七十八話 まだ名乗れない男
神代梓鉉が神代商工会の業務へ介入した翌朝。
麻那が出勤すると、机の上の書類が半分ほど消えていた。
昨日まで、地方銀行との融資協議、酒蔵組合から届いた共同物流の相談、神社法人が抱える土地問題、地方企業の事業承継、海外企業との交渉資料が、崩れそうなほど積み上がっていた。
それが今は、三つの箱へ分けられている。
一つ目には「会長判断」。
二つ目には「担当部署へ差し戻し」。
三つ目には「処理済み」。
麻那は鞄を置く前に、三つ目の箱を見た。
「処理済み?」
昨日まで空だった箱である。
中には、共同物流の相談に関する資料が入っていた。
物流会社三社の見積もり。
地域ごとの輸送量。
酒蔵側の希望。
冬季の道路状況。
共同倉庫の候補地。
必要な情報が一枚へまとめられている。
さらに、各案の利点と問題点まで整理されていた。
一番下には短い付箋が貼られている。
――会長判断不要。担当部署で決裁可能。
麻那は眉を寄せた。
確かにその通りだった。
本来なら、商工会の会長が直接判断する案件ではない。
だが昨日までは、担当者が不安を感じ、麻那へ確認を求めていた。
「誰が……」
麻那が呟いた時、隣の会議室から声が聞こえた。
「その見積もり、輸送費だけで比べないでください。冬季の遅延率を入れたら二社目が一番安いです」
聞き覚えのない男の声だった。
麻那は会議室を覗いた。
長机の中央に、一人の男が座っている。
年齢は麻那と近いように見えた。
梓鉉より少し柔らかな雰囲気。
だが机の上には、すでに大量の資料が広げられている。
その周囲を、商工会の職員たちが囲んでいた。
「でも、この会社は基本料金が高いんです」
職員が言う。
男は資料を指差した。
「基本料金は高い。でも積雪時の追加料金がない。去年の輸送実績で計算すると、年間ではこっちが安いです」
「本当だ」
「あと、共同倉庫は駅前じゃなくて旧市場を使えませんか」
「旧市場?」
「今は空いてますよね。自治体も活用先を探してる。賃料を下げる代わりに、災害時の物資拠点として登録すれば補助金も使えるかもしれません」
職員たちが一斉に資料へ目を落とした。
「自治体に確認します」
「お願いします。返事が来たら、俺にも共有してください」
「分かりました」
職員たちは資料を抱え、次々に会議室を出ていった。
最後の一人が扉を開けたところで、麻那に気付く。
「会長、おはようございます」
「おはようございます」
麻那は会議室の男を見た。
男も立ち上がる。
「神代麻那さんですね」
「そうです」
「初めまして。兄から話は――」
その時。
廊下の奥から職員が走ってきた。
「会長!」
麻那と男が同時に振り返る。
「地方銀行からです。昨日の融資案について、担保条件を変更したいと」
麻那は時計を見る。
まだ始業時刻前だった。
「資料は?」
「今届きました」
職員が書類を差し出す。
麻那が受け取るより先に、男が横から覗き込んだ。
「変更箇所は?」
「土地評価です」
「酒蔵の土地?」
「はい」
男は書類を受け取った。
「会長、この件、俺が先に見てもいいですか」
麻那は少し迷った。
「内容を知っているんですか」
「昨日、兄から資料を送られました」
「全部?」
「午前二時に」
麻那は黙った。
「寝ていたんですけどね」
男も少し遠い目をした。
どうやら梓鉉は、弟にも容赦がないらしい。
「分かりました。確認してください」
「ありがとうございます」
男は書類へ目を落とした。
「それで、自己紹介の続きですが。俺は神代――」
今度は電話が鳴った。
職員が受話器を取る。
「会長! 酒蔵組合から緊急です!」
男は口を閉じた。
麻那は電話へ向かう。
「何がありました?」
「共同物流の件で、一社が参加を取りやめたいと」
男がすぐに資料を開いた。
「理由を聞いてください」
「え?」
「費用なら再計算します。保管方法なら倉庫を分ける。人間関係なら、会長を出す前に担当者同士で話した方がいい」
職員は電話へ戻った。
数分後。
「保管温度の問題だそうです」
「それなら解決できます」
男は資料へ線を引いた。
「冷蔵区画だけ別契約にすればいい。費用差は参加蔵で均等にしない。使う蔵だけで負担する」
「でも、それだと小さい蔵が」
「出荷量で比率を変えます」
「計算できますか」
「もうしました」
男は一枚の紙を差し出した。
麻那は横から見る。
数字は合っていた。
「これで先方へ提案してください」
「分かりました」
職員が走っていく。
男は息を吐いた。
「それで」
麻那も頷く。
「名前ですね」
「はい。俺は神代――」
会議室の扉が開いた。
「すみません!」
別の職員だった。
「神社所有地の境界案件ですが、現地から古い地図が見つかったと連絡が」
男は目を閉じた。
麻那は少し笑いそうになった。
「続けてください」
「いや、先に仕事を」
「名前くらい聞けます」
「では」
男は改めて姿勢を正した。
「神代――」
職員の端末が鳴った。
全員が音の方を見る。
職員は申し訳なさそうに画面を確認した。
「……現地から写真が届きました」
男は諦めたように手を出した。
「見せてください」
写真には、山林の中に残る古い石柱が写っていた。
境界標。
だが、その表面には薄い神紋が刻まれている。
男の表情が変わった。
「これ、土地の境界じゃないですね」
麻那も写真を見る。
「封じの境界です」
「やっぱり」
男はすぐに別の資料を開いた。
「この土地、売却を止めてください」
「理由は?」
「今ここを動かすと、境界の内側にあるものまで外へ出ます」
「何がいるか分かりますか」
「まだ分かりません。でも、先に現地確認が必要です」
麻那は男を見た。
数字を読む。
人を動かす。
現場の問題を整理する。
そして怪異の兆候にも気付く。
梓鉉が送り込んだ理由が、少し分かった。
「貴方、本当に何でもできますね」
「何でもではないです」
「苦手なことは?」
男は少し考えた。
「兄への反論」
麻那は思わず笑った。
「昨日も突然、商工会へ行けと言われたんですか」
「はい」
「断らなかったんですか」
「断りました」
「それで?」
「『意見は聞いた』と言われました」
「採用は?」
「されませんでした」
「梓鉉さんらしいですね」
「会って一日で分かりました?」
「十分です」
二人は少しだけ笑った。
その後。
男は本当に、商工会の仕事を次々に整理していった。
午前中だけで、麻那の確認待ちだった案件を半分まで減らした。
会長判断が必要なもの。
担当部署で処理できるもの。
専門家へ回すもの。
現地確認が必要なもの。
怪異の可能性があるもの。
すべてを分類し、必要な場所へ戻していく。
麻那が午後の外部会議から戻ると、机の上の書類はさらに減っていた。
「……いったい何があったんですか」
「仕事をしました」
男は端末から顔を上げずに答えた。
「私がいない間に?」
「そのために来たので」
「商工会の仕事を、一日で把握したんですか」
「全部は無理ですよ」
男は端末を麻那へ向けた。
「でも、誰が何を得意としているかは分かりました」
画面には職員の名前が並んでいた。
法務に強い者。
数字に強い者。
地域交渉が得意な者。
酒蔵との関係が深い者。
怪異案件の経験がある者。
「職員に聞いたんですか」
「話しました」
「午前中だけで?」
「仕事を渡すなら、先に知った方がいいので」
麻那は画面を見る。
自分も職員の能力は把握している。
だが、自分が引き取ることが多く、任せるための整理まではできていなかった。
「会長」
男が言った。
「明日の午前、外部会議ですよね」
「そうです」
「こちらは回しておくので、行ってください」
麻那は少し複雑な顔をした。
「私がいなくても回るんですね」
「回ります」
即答だった。
麻那は少し傷付いた。
男は顔を上げる。
「そのために来たので」
「二回目ですね」
「大事なので」
「わたしがいなくてもいいという意味に聞こえます」
「違います」
男は首を振った。
「会長にしか決められないことへ、時間を使ってください」
麻那は黙った。
「全部を自分で処理する人は、それは会長ではなくて、ただの一番忙しい担当者です」
「厳しいですね」
「兄よりは優しいつもりです」
「それは比較対象が悪いです」
男は少し笑った。
夕方。
職員たちが帰り始めた頃。
麻那は、ようやく思い出した。
「そういえば」
「はい」
「まだ名前を聞いていません」
男の手が止まった。
「そうでした」
「何度も途中で終わりましたね」
「今度こそ」
男は立ち上がった。
「改めまして。神代――」
電話が鳴った。
二人は電話を見る。
誰も取らない。
もう一度鳴る。
麻那は男を見る。
「出なくていいんですか」
「名前を先に」
電話は鳴り続ける。
職員が困った顔で二人を見る。
男はため息を吐いた。
「……出てください」
職員が電話を取る。
「はい。神代商工会です」
少し話した後。
職員が振り返る。
「梓鉉様からです」
男は嫌な顔をした。
「俺に?」
「はい」
受話器を受け取る。
「もしもし」
『働いているか』
梓鉉の声だった。
「働いてる」
『麻那さんの負担は』
「減らした」
『そうか』
「今、ちょうど自己紹介してたんだけど」
『なら問題ない』
電話が切れた。
男は受話器を見た。
「何が問題ないんだ」
麻那は笑いを堪えた。
「お兄さんは、名前を名乗らなくても仕事ができれば問題ないと思っているのでは?」
「あり得る」
「では」
麻那は少し考えた。
「しばらく『梓鉉さんの弟さん』でいいですか」
「俺はよくないです」
「でも、名前を知りません」
「今、言います」
男は受話器を置き、麻那へ向き直った。
「俺は、神代――」
その時。
廊下から職員が走ってきた。
「会長!」
男は遠い目で天井を見上げた。
「今度は何ですか」
「例の神社所有地ですが、石柱の内側から音がするそうです!」
男は一瞬で仕事の顔へ戻った。
「現地の人を近付けないでください。写真と周辺の地図を送ってもらって」
「分かりました」
麻那も資料を手に取る。
「私も確認します」
「お願いします」
二人は並んで机へ向かった。
名前は、また聞けなかった。
翌朝。
商工会の予定表には、新しい担当者の欄が追加されていた。
だが名前が分からない。
職員は少し考えた末、こう入力した。
――梓鉉氏弟。
それを見た男は、しばらく黙っていた。
「せめて『さん』を付けませんか」
麻那は笑った。
「名前を教えていただければ、すぐに直します」
「今言います」
男は息を吸った。
その瞬間。
電話が鳴った。
麻那はもはや笑いながら受話器を取った。
「はい。神代商工会です」
男は諦めたように椅子へ座った。
神代商工会へ送り込まれたその日から、彼は麻那の仕事を半分近く引き受けた。
麻那が外へ出ても、会議へ参加しても、商工会は止まらない。
誰が何を得意とし、どこまで任せられるのかを見極め、必要な仕事を必要な人へ流していく。
麻那の代わりではない。
麻那が会長でいられるように、その隣で仕事を回す。
やがて彼は、神代商工会に欠かせない存在になる。
だが。
その頃になっても。
職員の一部は、彼の本名を知らなかった。
以前の職場で、「いつも一人で残業してるけど、私たちが信用できませんか?」と詰められた事があります。
失敗して修正するのが面倒だとか、たぶん心のどこかで信用していなかった。
それでは、お互い成長しないんですけど、それを気づかされた出来事でした。
このタイミングで麻那ちゃんも成長しそうです(笑)




