第七十七話 増え続ける書類
神代麻那の机から、書類が消えなくなった。
普段から神代商工会へ持ち込まれる案件は多い。地方企業への融資相談、事業承継、酒蔵の設備更新、神社が所有する土地の活用、商店街の再生計画。表向きには経済と地域振興に関する仕事だが、その裏に怪異の兆候が紛れていることも珍しくなかった。
これまでは、現地で人の話を聞く必要がある案件や、数字だけでは判断できない相談の一部を蒼麻へ回していた。蒼麻は経営の専門家ではない。提出された資料を細かく分析することも、複雑な契約書を整えることも得意ではなかった。
それでも、人がなぜ迷っているのかを見抜くことがある。
数字の陰に隠れた本音を拾い、切れかけた縁を思いがけない相手へ繋ぐ。
麻那や商工会の職員が何時間話しても動かなかった人間が、蒼麻と酒を一杯飲んだだけで、自分から次の道を考え始めることもあった。
だが、岐阜の資料館から戻って以来、蒼麻はそうした案件を引き受けなくなっていた。
最初は、疲れているのだろうと麻那も考えていた。
九尾狐の夢を見た直後に水篠へ赴き、続けて高瀬酒造の後継者問題と、記録を喰う虫の案件に関わった。
精神的な消耗が重なっていても不思議ではない。
だから、少しくらい休ませてもよいと思った。
問題は、その「少しくらい」が、商工会の予定表には存在しなかったことである。
蒼麻が断った商店街再生の相談は、麻那が引き取った。
地方の酒販店同士の対立も、予定を調整して自分で聞いた。
神社と近隣住民の間で起きた土地利用の問題には、夜の会議を終えた後にオンラインで参加した。
その間にも新しい案件は増え続けた。
予定表の隙間へ会議が入り、会議と会議の間へ電話が入り、電話を切る前に次の資料が机へ置かれる。昼食は書類を読みながら済ませ、夕食に何を食べたのか思い出せない日が続いた。
ある朝、麻那が出勤すると、机の上には昨日よりも高い書類の山ができていた。
一番上には、赤い付箋が貼られている。
至急。
麻那は鞄を置く前に資料を手に取った。
地方の醸造会社が、海外企業から買収提案を受けている。
条件だけを見れば悪くない。
従業員の雇用も維持され、設備投資も約束されている。
しかし、契約書には水源と土地の権利を一括で譲渡する条項が含まれていた。
その土地には、小さな神社がある。
社格も知名度も高くない。
だが酒蔵と農家が共同で守ってきた水神を祀り、仕込みの前には必ず酒と米を供えてきた。
単なる買収案件では済まない可能性があった。
麻那は資料を読みながら、別の電話へ応じた。
通話の途中で職員が入室し、行政との協議が午後へ前倒しになったと告げる。さらに金融機関からは、昨日提出した支援案について修正を求められた。
「分かりました。そちらは十一時までに返します。水源の件は、契約を保留にしてください。理由はまだ説明しなくていいです」
電話を切ると、麻那はすぐに別の資料へ手を伸ばした。
その時、机の端に置いた珈琲が倒れた。
紙の束へ黒い液体が広がる。
「会長!」
職員が慌てて布巾を取りに走った。
「大丈夫。原本じゃないから」
麻那はそう答えたが、自分の声が思った以上に掠れていることに気付いた。
昨夜、眠ったのは三時間ほど前だった。
大丈夫。
まだ動ける。
そう思って立ち上がった瞬間、僅かに視界が揺れた。
机へ手をつき、何事もなかったように姿勢を戻す。
職員は気付かなかったらしい。
しかし、開いたままの扉の向こうには、神代萩が立っていた。
「随分と景気のよい机だな」
穏やかな声だった。
麻那は濡れた書類を救い出しながら顔を上げる。
「おはようございます。萩さんがこちらへ来る予定は入っていなかったと思いますが」
「入れていないからな」
「勝手に予定を増やさないでください」
「それを君が言うのかね」
萩は室内へ入り、麻那の机を眺めた。書類の山。冷めた珈琲。
開いたままの端末。付箋だらけの予定表。
柔らかな笑みは崩れていない。
だが、その目は机の上だけでなく、麻那の顔色や呼吸、指先の僅かな震えまで見ていた。
「昨日は何時に帰りましたか」
「覚えていません」
「何時に寝ましたか」
「その質問は業務に関係がありますか」
「あります」
「ありません」
「ならば、今から関係させよう」
萩は椅子を一つ引き、麻那の向かいへ腰を下ろした。
「蒼麻君が仕事を引き受けていないそうだな」
麻那の手が止まった。
「兄さんにも事情があります」
「責めているわけではない」
「私が回せますから」
「回せていませんな」
萩の言葉は柔らかかったが、逃げ道はなかった。
麻那は反論しかけて、机の上へ視線を落とした。今の状況で「回せている」と言えば、さすがに無理がある。
「一時的なものです」
「一時的な無理ほど、人を壊しやすい」
「大げさです」
「君の兄も、同じことを言いそうだ」
麻那は萩を睨んだ。
「兄さんのところへ行ったんですか」
「まだ行っていない。今は君の方が先だ」
「私は問題ありません」
「問題のある者は、よくそう言う」
萩は机の上から一冊の予定表を取り上げ、数ページめくった。そこには麻那自身が書き込んだ細かな予定が、朝から夜まで隙間なく並んでいる。
「助けを呼びなさい。実はもう呼びましたがね」
麻那は顔を上げた。
「誰をですか?」
萩は答える代わりに、開いた扉へ視線を向けた。
廊下から、静かな足音が近付いてくる。
やがて室内へ姿を現したのは、細身の人物だった。
年齢は麻那より上に見える。落ち着いた色の服を隙なく着こなし、手には薄い鞄を持っている。
派手な装飾はないが、入室しただけで散らかっていた空気が僅かに整うような、不思議な存在感があった。
その人物は部屋へ入ると、麻那の机を一度だけ見た。
次に麻那本人へ目を向ける。
視線は冷たくない。
だが、見落としも遠慮もなかった。
「神代麻那さんですね」
「そうですが」
「初めまして。神代梓鉉です」
梓鉉は丁寧に頭を下げた。
麻那も反射的に立ち上がり、礼を返す。
名前は知っていた。
神代一族の事業や組織再編に関わりながら、特定の部署へ長く留まることのない人物。
問題の起きた事業へ入り、状況を整理し、必要な人員と仕組みを残して去る。
商工会の職員からすれば、助っ人というより監査に近い名前だった。
「萩さんから、何と聞いていますか」
麻那が尋ねると、梓鉉は鞄を机の脇へ置いた。
「神代商工会の業務が、一人の判断へ集中し過ぎていると」
「集中しているのではなく、私が担当しているだけです」
「同じことです」
梓鉉は即答した。
「違います」
「では、貴女が三日休んでも業務は滞りませんか」
麻那は答えられなかった。
梓鉉は机の上へ目を向ける。
「水源付き醸造会社の買収案件。地域商店街の再生協議。二つの神社法人が抱える土地問題。地方銀行との支援枠再設定。酒蔵組合から届いた共同物流の相談」
書類の表紙を眺めただけで、内容を読み分けていく。
「すべて、貴女が最終判断をする予定ですね」
「重要な案件ですから」
「重要であることと、一人で抱えることは同義ではありません」
「事情を知らない人に渡せませんので」
「事情を知る者を育てなかったのは、誰ですか」
麻那は言葉に詰まった。
初対面である。
それなのに梓鉉は挨拶から数分で、麻那が最も触れられたくない部分へ踏み込んできた。
「随分、はっきり言うんですね」
「時間がありませんので」
「私にはあります」
「貴女にもその時間はありません」
梓鉉は机の端に置かれた、飲みかけの栄養補助飲料を見た。
「少なくとも、その食事を続けられる時間は長くありません」
萩が小さく咳払いをした。
笑いを堪えているようにも聞こえた。
麻那は萩へ冷たい視線を向ける。
「面白がっていませんか」
「まさか」
「顔が笑っています」
「私はいつもこの顔だよ」
萩がとっておきの笑顔で答える。
梓鉉は二人のやり取りには加わらず、麻那の予定表を手に取った。
「今日の午後に予定されている買収案件は、私が引き取ります。契約内容と土地の祭祀権を確認し、法務と地域担当を同席させます」
「待ってください。あれは怪異の可能性も」
「その判断は貴女がしてください。交渉資料の整理と相手方への連絡まで貴女が行う必要はありません」
梓鉉は別の書類を取る。
「共同物流の相談は、商工会の実務部門へ戻します。担当者の決裁範囲を広げ、三日以内に案を作らせます」
「今の担当者では難しいです」
「難しい仕事を渡さなければ、いつまでも難しいままです」
「失敗したら?」
「修正します」
「損失が出たら?」
「責任者が責任を取ります」
梓鉉は淡々と答えた。
「責任を取るために、責任者がいるのでしょう」
麻那は黙った。
自分が間違っているとは思わない。
だが、梓鉉の言葉にも反論できなかった。
これまで麻那は、自分が引き受ければ早いと考えてきた。
そして実際、その方が早かった。
説明に時間を使うより、自分で資料を読み、自分で連絡し、自分で決める方が確実だった。
しかし、その積み重ねが、今の机を作った。
梓鉉は予定表へ幾つか印を付けた後、麻那へ向き直った。
「もう一つ、貴女へお願いがあります」
「お願いという言い方をする顔ではありませんね」
「では、指示と申し上げます」
梓鉉は僅かにも悪びれなかった。
「私の弟をこちらへ送り込みます」
麻那は目を瞬いた。
「弟?」
「はい。貴女の業務の一部を肩替わりさせてください」
「ちょっと待ってください」
「待ちません」
「本人には確認したんですか」
「これからします」
「それは確認とは言いません」
「断らせるつもりはありませんので、確認ではなく通告です」
麻那は梓鉉を見つめた。
萩が額へ手を当てている。どうやら梓鉉の弟に対する扱いについては、萩にも思うところがあるらしい。
「どんな人ですか」
「実務能力はあります。人の話も聞けます。多少、余計なことも言いますが、貴女ほど一人で抱え込む性質ではありません」
「それは褒めているのですか」
「私としては」
梓鉉は答えた。
「貴女に足りない部分を補える、と申し上げています」
「私と合わなかったら?」
「合う必要はありません。仕事が回れば十分です」
「随分、合理的ですね」
「感情的な相性を理由に、業務を止めるつもりですか」
「そうは言っていません」
「ならば問題ありません」
麻那は久しぶりに、会話で押し切られる感覚を味わっていた。
兄の蒼麻は理屈の隙間から入ってくる。萩は笑いながら逃げ道を塞ぐ。
梓鉉は最初から出口の場所を把握し、必要のない扉をすべて閉めてくる。
同じ神代でも、随分と違う。
「期間は?」
麻那が尋ねる。
「まず三か月。その後は状況を見て判断します」
「私の許可は」
「今、いただきます」
「断ったら?」
梓鉉は麻那の机へ視線を落とした。
「この書類をすべて処理した後、もう一度伺います」
麻那も机を見る。
勝てる気がしなかった。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
梓鉉は初めて、僅かに柔らかな笑みを見せた。
「ただし」
麻那は指を立てる。
「私の判断を無視して、勝手に案件を進めることは認めません」
「当然です。私は貴女の権限を奪いに来たのではありません」
「では、何をしに来たんです」
梓鉉は、積み重なった書類の山から半分ほどを持ち上げた。
「貴女が判断すべきところまで、仕事を運ぶためです」
その言葉に、麻那は少しだけ目を見開いた。
萩が人を見る。
麗樹が人と人を繋ぐ。
蒼麻は、切れかけた縁へ別の道を作る。
そして梓鉉は、決断する者が決断だけに集中できるよう、散らばったものを整える人間なのだろう。
「まず、今日の昼食を予定へ入れます」
梓鉉は麻那の予定表へ新しい文字を書き込んだ。
「三十分も?」
「食事には必要です」
「十分で足ります」
「足りません」
「忙しいんです」
「だから三十分です」
「何を食べるかまで指示するつもりですか」
「必要なら」
麻那は萩を見る。
「この人、本当に助っ人ですか」
萩は楽しそうに笑った。
「少なくとも、君を休ませる点では適任だろう」
「休むとは言っていません」
「では、働き続けるための整備だと思いなさい」
梓鉉は書類を抱え、扉へ向かった。
「午後の交渉には私も出席します。開始までに論点を三つへ絞っておいてください」
「もう指示を出すんですか」
「貴女も先ほど、私の参加を認めました」
「業務を一部渡すとは言いましたが、上司になっていいとは言っていません」
梓鉉は扉の前で振り返った。
「安心してください。貴女の上司になるつもりはありません」
「では?」
「立て直しが終われば、私は去ります」
その言葉に迷いはなかった。
必要な場所へ入り、必要な形を作り、そこへ居座らずに去る。
梓鉉はそういう人間なのだ。
「弟の件は、今日中に連絡します」
「まだ誰かも聞いていません」
「会えば分かります」
「説明を省かないでください」
「説明より早いので」
それだけ言い残し、梓鉉は部屋を出ていった。
廊下から職員の驚いた声が聞こえる。
おそらく、抱えていた書類をその場で担当ごとに振り分け始めたのだろう。
麻那はしばらく扉を見つめた後、椅子へ深く座り直した。
「苦手です」
萩が笑う。
「会ったばかりだろう」
「会ったばかりだからこそ分かります」
「似ているからではないかね」
麻那は顔をしかめた。
「どこがですか」
「仕事が滞るのを嫌う。必要なら自分で持つ。相手が納得するまで待つより、先に道を作る」
「私は、あんなに一方的ではありません」
萩は答えず、机の上の予定表を見た。
麻那もつられて視線を落とす。
昼の三十分が、赤い線で確保されている。
その前後にあった会議は、いつの間にか別の職員へ振り分けられていた。
机の上の書類も、先ほどより目に見えて減っている。
「兄さんが戻るまで」
麻那は小さく呟いた。
萩は笑みを消し、静かに麻那を見た。
「蒼麻君を待つ必要はない」
「見捨てるという意味ではないよ」
麻那が何か言う前に、萩は続けた。
「戻れる場所を作っておくのだ。君まで倒れれば、彼は帰ってくる場所を一つ失う」
麻那は黙った。
蒼麻が仕事を断り始めてから、心配していないわけではない。
だが心配を口にすれば、兄の選択へ影響を与えるかもしれない。自分まで、蒼麻が恐れているものになってしまう気がして、何も言えずにいた。
その代わりに、兄が持っていた仕事を引き受けた。
兄が戻るまで、自分が支えればよいと思った。
それもまた、蒼麻を追い詰める形になっていたのかもしれない。
「助けを借りることも、仕事のうちだ」
萩が言った。
「分かっています」
「ならば借りなさい」
「……努力します」
「その返事は、蒼麻君に似ているな」
「似ていません」
麻那が即座に否定すると、萩は声を立てて笑った。
机の上には、まだ多くの仕事が残っている。
だが、先ほどまでとは違って見えた。
自分がすべて抱えなくても、仕事は進む。
決断を誰かへ奪われるのではない。
決断する場所まで、誰かに運んでもらうこともできる。
麻那は冷め切った珈琲を片付け、新しい飲み物を淹れるために立ち上がった。
その頃、別の場所では、神代梓鉉が弟へ短い連絡を送っていた。
――明日から神代商工会へ入ってもらう。
返事は、すぐに届いた。
――初耳なんだけど。
梓鉉は画面を見つめ、迷うことなく次の文を打ち込んだ。
――今、伝えた。
しばらくして、長い沈黙を示すように既読だけが付いた。
梓鉉は端末を伏せ、次の書類へ手を伸ばした。
弟が何を言うかは、大体分かっている。
それでも来ることも、梓鉉は知っていた。




