第七十六話 白い糸の残り
岐阜から戻った翌朝、蒼麻は右手の人差し指に何かが絡み付いているような感覚で目を覚ました。
痛みも痺れもない。ただ、細い糸を結ばれたまま眠っていたような、僅かな重みだけが残っている。
布団の上で手を持ち上げ、朝の光へ透かしてみる。
何も見えない。
指を曲げても、手を振っても、違和感は消えなかった。
「気のせいか」
そう呟いて起き上がり、台所で水を飲んだ。
窓の外では、いつもと変わらない東京の朝が始まっている。車の音。遠くを走る電車。道を急ぐ人々。
それでも、指先にだけは何かが残っていた。
「まだ消えていないな」
背後から声がした。
振り返ると、真響が窓辺へ腰掛けていた。
「見えるのか」
「見える」
「どこまで続いてる?」
真響は蒼麻の指先を見つめた。
「お前の指から、遠くへ伸びている」
「どこに」
「岐阜だ」
蒼麻は黙った。
郷土資料館。
誰も名前を知らない女性。
記録にも残っていない。
それでも、蒼麻が白い糸へ触れたことで、写真へ顔が戻った。
「切れるか」
「切ってよいのか」
真響は問い返した。
蒼麻は答えられなかった。
糸を切れば、写真の女性は再び消えるかもしれない。
誰にも覚えられず。
名前も分からず。
今度こそ、存在した証まで失うかもしれない。
「何の糸なんだ」
「分からぬ」
「建葉槌命の力じゃないのか」
「違う」
真響は迷わず答えた。
「どうして分かる」
「建葉槌命は、異なる糸を織る。人と人、土地と人、過去と未来。違うものを違うまま繋ぎ、一つの形へする」
真響は蒼麻の指から伸びる白い糸を見た。
「だが、お前が昨日したことは違う」
「何が違う」
「繋いだのではない」
真響は少し間を置いた。
「存在を、記録へ留めた」
蒼麻は自分の指を見つめた。
「九尾の力って言いたいのか」
「似ている」
「同じじゃないのか」
「同じとは言っていない」
真響は窓の外へ目を向けた。
「九尾は記憶を縫い、複数の未来を一つへ収束させる。昨日、お前は消えた人間を写真へ戻した」
「でも、あの人の顔を知っていたわけじゃない」
「そうだ」
「なら、俺はいったい何を戻したんだ」
真響は答えなかった。
誰も女性の顔を覚えていない。
元の写真にも、顔を復元できるほどの情報は残っていない。
それなのに、蒼麻が白い糸へ触れた時、写真には一人の女性の顔が現れた。
もし、あれが元の顔ではなかったら。
蒼麻は何をしたのか。
その疑問は、指先に絡む糸よりも重く残った。
昼前。
蒼麻は神代商工会へ呼ばれた。
麻那の机には、二枚の写真が並べられていた。
一枚は、異変が起きる前に複製された古い集合写真。
もう一枚は、昨日、資料館で女性の顔が戻った後の写真だった。
「町役場の古い広報資料に、複製が残ってた」
麻那が一枚目を指差した。
「でも、見て」
蒼麻は写真を手に取った。
確かに、人の姿はある。
だが画質が悪く、顔は潰れていた。
髪型も、目も、口元も分からない。
「これじゃ、顔は戻せないな」
「うん」
麻那はもう一枚を指差した。
そこには、穏やかに笑う女性の顔がはっきりと写っている。
「町の人にも聞いた。誰も、この人を知らなかった」
「名前は?」
「分からない。祭礼帳から消えてる。戸籍との照合もできなかった」
「じゃあ、この顔はどこから来たんだ」
麻那は答えなかった。
部屋の中が静かになる。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「この人を見たことは?」
「ない」
「本当に?」
「ないよ」
蒼麻は写真を見つめた。
見覚えはない。
夢で会った記憶もない。
それでも写真の女性は、初めからそこにいたように笑っている。
「お兄ちゃんは、何をしたの」
「糸に触った」
「どんな糸?」
「白い糸」
麻那の表情が変わった。
「金色じゃないの?」
「違う。建葉槌命の糸とは別だった」
「真響さんもそう言った?」
「ああ」
麻那は腕を組み、しばらく考えた。
「九尾狐」
蒼麻が言う。
麻那はすぐには否定しなかった。
「分からない。でも、可能性はあると思う」
蒼麻は写真へ目を落とした。
「もし、この顔が元の顔じゃなかったら」
「まだ、そうだと決まったわけじゃない」
「でも、戻すための記録がない。覚えている人もいない」
蒼麻は声を落とした。
「俺が作ったのか」
「決めつけないで」
「じゃあ、何を戻したんだ」
麻那は答えられなかった。
「俺が、この人はこういう顔だったって決めたのか」
「兄さん」
「存在していた証を戻したんじゃなくて、俺が選んだ顔を記録へ残したのなら」
蒼麻は写真を机へ戻した。
「それは、本当に助けたことになるのか」
午後。
蒼麻は開店前の和灯にいた。
蓮二は厨房で仕込みをしている。
真響はカウンターの隣に座っていた。
珍しく、蒼麻の前には酒がない。
「飲むか」
蓮二が尋ねた。
「仕事中だよ」
「珍しいな」
「何が」
「悩んでる時ほど飲むだろ」
「俺、そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
蓮二は包丁を動かしながら言った。
「何を悩んでる」
蒼麻はしばらく答えなかった。
「誰かを助けた」
「いいことじゃないか」
「たぶん」
蓮二の手が止まった。
「たぶん?」
「助けたと思う。でも、本当に助けたのか分からない」
「難しいな」
「俺も分からない」
真響は黙って蒼麻を見ていた。
やがて口を開く。
「高瀬の息子は、蔵へ戻るんだったな」
「そうらしい」
「お前は、帰れと言わなかったのだろう」
「言ってない」
「だが、彼は帰ると決めた」
「本人が決めたんだ」
蒼麻はそう答えた。
だが、その言葉は思っていたより弱かった。
真響は目を逸らさない。
「本当に?」
蒼麻は顔を上げた。
「何が言いたい」
「岐阜で見た白い糸。あれが初めてだったか」
蒼麻は答えようとして、止まった。
東京の居酒屋。
店を出ていく高瀬直人。
父。
蔵。
仕事。
故郷。
いくつもの場所へ伸びていた金色の糸。
その中に一本だけ、白い糸があった。
「違う」
「何がだ」
「あの時にも見た」
真響の表情が変わる。
「どこで」
「高瀬さんと話した後」
「なぜ言わなかった」
「すぐに消えたから、気のせいだと思った」
蒼麻は右手の指先を見た。
「でも、その後、高瀬さんは蔵へ戻ると決めた」
「お前は帰れと言わなかった」
「言ってない。でも、別の選択肢を出した。今の仕事を続けながらでもいい。仕込みの時だけ帰ればいい。人手が足りなければ、俺も手伝うって」
「それを聞いて、彼は自分で決めたのだろう」
「普通なら、そうだ」
「普通なら?」
蒼麻はしばらく黙った。
「もし、言葉だけじゃなかったら」
和灯の中が静かになる。
厨房に立つ蓮二も、何も言わなかった。
「俺は、帰れとは言ってない。でも、帰れる道を作った」
「それの何が悪い」
「悪いとは言ってない」
蒼麻は自分の手を見つめた。
「でも、あの人は本当に自分で選んだのか」
真響は答えない。
「それとも、俺が選ばせたのか」
言葉にした瞬間。
胸の奥にあった疑問が、初めてはっきりとした形を持った。
高瀬直人は、自分で蔵へ戻ると決めた。
そう思っていた。
だが、もし白い糸が九尾狐の力なら。
複数の未来を束ね、望む未来へ収束させる力なら。
蒼麻が「帰ってほしい」と心のどこかで願ったことで、その未来だけが強くなったのではないか。
「高瀬さんは、本当は帰りたくなかったのかもしれない」
「それは誰にも分からぬ」
「でも、俺が帰る未来を縫い止めた可能性はある」
「それは違う」
真響は言いかけた。
だが、すぐに言葉を変えた。
「……いや分からぬ」
蒼麻は苦く笑った。
「否定できないんだな」
「できぬ」
真響は嘘をつかなかった。
それが、今は余計に重かった。
「嫌だな」
「何が」
「人と話すのが、怖くなる」
蒼麻はカウンターへ肘を置いた。
「俺が何かを言う。相手が考えて、決める。でも、その決断は本当に相手のものなのか」
「人は言葉で変わるものだ」
「分かってる」
「お前の言葉を聞いて考えを変えたとしても、それは力を使ったことにはならぬ」
「でも、もし力が混じっていたら?」
真響は黙った。
「俺が正しいと思った未来を、相手に選ばせているなら」
九尾狐の夢を思い出す。
複数の未来を束ねる。
望む未来へ収束させる。
誰もいなかったことにはさせないために。
残すべき未来を選ぶ。
「九尾は、誰もいなかったことにはしない」
蒼麻は言った。
「でも、その代わりに未来を選ぶ」
「そうだ」
「もしかしたら俺も同じなのか」
「お前は九尾ではない」
「だけど、欠片を持ってる」
「そうだ」
「その力が出ているかもしれない」
「……そうだ」
真響は否定しなかった。
蒼麻は右手を握った。
「じゃあ、これからどうすればいい」
「何をだ」
「人を繋ぐことだよ」
蒼麻は俯いた。
「俺は、それが得意なのかもしれないって思い始めてた。でも、繋いでるんじゃなくて、縛ってるのかもしれない」
萩の言葉が蘇る。
――一本に縛れば、それは縄になる。
――布は、違う糸を違うまま織る。
「俺は、布じゃなくて縄を作ってるのか」
真響は蒼麻を見つめた。
「まだ分からぬ」
「それが一番困る」
その時、蓮二がカウンターへ小皿を置いた。
湯気の立つ、だし巻き卵だった。
「食べろ」
「何だよ急に」
「考えすぎると腹が減る」
「それはそうだけど」
「腹が減ったまま考えても、ろくな答えは出ない」
蒼麻は箸を取り、一口食べた。
「うまい」
「だろ」
真響も横から一切れ取る。
「私の分は」
「今食べただろ」
「では、追加を」
蓮二が呆れたように笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
それでも、蒼麻の指から伸びる白い糸は消えなかった。
その夜。
和灯からの帰り道。
蒼麻は、街を歩く人々を見ていた。
駅へ向かう者。
店へ入る者。
誰かへ電話を掛ける者。
笑いながら隣を歩く者。
人は毎日、数え切れないほどの選択をする。
どの道を歩くか。
誰と会うか。
何を話すか。
どこへ帰るか。
もし、その選択へ伸びる糸が見えたら。
自分は触れるだろうか。
今までなら、誰かを助けられると思えば迷わず手を伸ばしたかもしれない。
だが今は。
触れることが怖かった。
翌日。
麻那が新しい案件の資料を持ってきた。
「お兄ちゃん、少し相談があるんだけど」
「何だ」
「地方の商店街から。店同士の関係が悪くなって、再生計画が進まないらしいの。お兄ちゃんに一度、話を聞いてほしいって」
以前なら、すぐに引き受けていただろう。
だが蒼麻は、資料へ手を伸ばせなかった。
「他の人はいないのか」
麻那が蒼麻を見る。
「お兄ちゃん、どうしたの」
「別に。ちょっと忙しいだけ」
嘘だった。
麻那は気付いたようだったが、何も聞かなかった。
「分かった」
資料を抱え、部屋を出ていく。
蒼麻は、その背中を見送った。
呼び止めようと思った。
だが、できなかった。
もし自分が話すことで、誰かの選択が変わるなら。
それは言葉の力なのか。
神の力なのか。
九尾狐の力なのか。
分からない。
蒼麻は初めて、人を繋ぐことを躊躇した。
その夜。
夢の中で、蒼麻は白い場所に立っていた。
無数の糸が伸びている。
人から人へ。
過去から未来へ。
一つの選択から、まだ選ばれていない無数の可能性へ。
その中心に、九尾狐がいた。
「怖いか」
蒼麻は九尾を見た。
「お前は、人の未来を選ぶのか」
「選ぶ」
九尾は迷わず答えた。
「どうして」
「誰かが選ばねば、失われるものがある」
「でも、それは本人の選択を奪う」
九尾は僅かに笑った。
「人は常に、誰かに影響されている」
一歩、蒼麻へ近づく。
「言葉。愛。恐怖。金。土地。過去」
白い糸が揺れる。
「それらと、私の力は何が違う」
蒼麻は答えられなかった。
「お前は人を繋いだ」
九尾は言う。
「帰る理由を与えた」
「俺が帰らせたのかもしれない」
「それを罪と呼ぶか」
「分からない」
「ならば、なぜ恐れる」
蒼麻は九尾を睨んだ。
「俺が間違った未来を選ぶかもしれないからだ」
九尾は笑った。
「ようやく分かったか」
「何が」
「私が一人で抱えてきたものを」
白い糸が、蒼麻の指へ絡み付く。
「誰も、いなかったことにはしない」
九尾は静かに言った。
「そのためには、誰かが残す未来を選ばなければならない」
「それを、お前が決めるのか」
「そうだ」
「怖くないのか」
九尾は答えなかった。
初めて、すぐには答えなかった。
やがて、その金色の瞳が僅かに伏せられる。
「怖いさ」
蒼麻は目を見開いた。
「だが」
九尾は続けた。
「誰にも覚えられない方が、私はもっと怖い」
夢が白く崩れていく。
そして迎えた朝。
蒼麻は目を覚ました。
右手の人差し指には、まだ白い糸が残っている。
窓の外では、人々が歩いていた。
迷い。
選び。
誰かと出会い。
それぞれの場所へ帰っていく。
蒼麻は自分の手を握った。
「俺は、どうすればいい」
答えはない。
白い糸は静かに遠くへ伸びている。
一本は岐阜へ。
写真の中へ戻った、名も知らぬ女性へ。
そして、もう一本。
蒼麻がまだ気付いていない糸は、東京から遠く離れた山の酒蔵へ伸びていた。
高瀬直人が帰ると決めた未来へ。
白い糸は今も、静かに縫い留められていた。




