第七十五話 記録を喰う虫
最初に消えたのは、一枚の集合写真だった。
岐阜県北部。山々と清流に囲まれた小さな町に、古い木造校舎を利用した郷土資料館がある。
かつて教室だった展示室には、町で使われていた農具や生活道具、祭礼の衣装、古い酒造りの道具が並び、廊下の壁には土地の歴史を記録した写真が飾られていた。
異変が起きたのは、そのうちの一枚だった。
昭和三十二年の秋祭り。
神社の石段を背に、二十七人の男女が並んでいる。
少し緊張した顔で正面を向く者。隣の者と肩を寄せて笑う者。法被姿の若者。晴れ着を着た子ども。写真の裏には、そこに写る者たちの名前も記されていた。
最初に異変へ気付いた職員は、古い写真の劣化だと思った。
中央に立っていた一人の顔が、白く抜け落ちていた。
古い写真であれば、色が褪せることもある。湿気や光の影響で、一部だけ傷むことも珍しくない。
だが翌日には、二人目の顔が消えた。
その翌日には五人。
一週間後。
写真には神社の石段だけが残っていた。
人だけが、誰もいなくなっていた。
写真の裏に書かれていた名前も消えていた。
紙が破れたわけではない。
インクが薄れたわけでもない。
初めから、そこには何も書かれていなかったように。
祭りは確かにあった。
神社も残っている。
だが、そこに参加した人間だけが、記録から消えていた。
やがて異変は、一枚の写真だけでは収まらなくなった。
祭礼帳。
寄付者の名簿。
学校の卒業記録。
酒蔵の古い仕込み帳。
町の歴史を記した冊子。
紙は残る。
文章も残る。
だが、人の名前だけが消えていく。
写真からは顔が抜け落ち、名簿には不自然な空白が増えた。
そして、記録から消えた者は、少しずつ人の記憶からも失われ始めた。
その報告が神代商工会へ届いたのは、最初の異変から十日ほど後のことだった。
「今度は岐阜県?」
蒼麻は会議室の机へ広げられた資料を見ながら尋ねた。
「岐阜県北部。山間にある小さな町だよ」
向かいに座る麻那が答える。
蒼麻は地図を見た。
「最近、宮崎まで行ったばかりなんだけどな」
「兄さん」
「何だ」
「まだ温泉は調べないでね」
「何も言ってないだろ」
「顔に出てる」
隣で写真を見ていた真響が口を開いた。
「人だけが消えている」
麻那は頷いた。
「写真だけじゃないよ。帳簿、祭礼の記録、学校の名簿、神社への寄付者一覧。名前も顔も消えている」
「人は?」
「生きてる」
「本人の記憶は?」
「今のところはあるみたい」
「じゃあ、記録だけか」
「最初はね」
麻那は別の資料を取り出し、蒼麻の前へ置いた。
「記録から消えた人は、周囲の人からも少しずつ思い出されなくなってる」
蒼麻の表情が変わった。
「家族も?」
「家族も、友人も、町の人も」
写真から消える。
名前が消える。
そして、記憶からも消える。
蒼麻は、九尾狐の夢を思い出した。
世界が巻き戻されたことで、誰にも知られないまま消えた人々。
生きていた。
笑っていた。
誰かを愛していた。
それでも今の世界には、存在した記録さえ残っていない。
――誰も、いなかったことにはさせない。
九尾狐の言葉が、胸の奥で蘇る。
「怪異の可能性は高いんだな」
「うん。異変は郷土資料館を中心に広がってる」
蒼麻は資料を閉じた。
「分かった。行く」
「早いね」
「放っておけないだろ」
真響は蒼麻を見た。
その横顔をしばらく見つめていたが、何も言わなかった。
翌日。
蒼麻と真響は岐阜県へ向かった。
町は山と川に囲まれていた。
古い木造家屋が並び、細い水路には澄んだ水が流れている。
町の中心から少し離れた高台に、目的の郷土資料館があった。
元は小学校だったという。
木造二階建て。
長い廊下。
歩くたび、床が小さく軋む。
壁には、昔の祭りや農作業、学校行事、酒造りの様子を写した写真が並んでいた。
そこに記録されているのは、有名な人物でも、大きな歴史を動かした者でもない。
この土地で生まれ、働き、家族を持ち、生きていた人々だった。
資料館の館長は、森川という六十代の女性だった。
「遠いところを、ありがとうございます」
「写真を見せてもらえますか」
蒼麻がすぐに尋ねると、森川は少し驚いたようだったが、頷いた。
「こちらです」
案内された収蔵庫は、資料を守るため温度が低く保たれていた。
棚には古い帳面や写真が入った箱が並んでいる。
森川は一枚の写真を机へ置いた。
神社の石段。
その前には、不自然なほど広い空間だけが残っていた。
「ここに二十七人いました」
森川が言う。
「覚えていますか」
「何人かは。父も、母も、叔父もいました。近所の人も」
森川は写真を見つめた。
「でも……顔が思い出せないんです」
「誰の?」
「母です」
蒼麻は森川を見る。
「昨日までは覚えていました。でも今日、思い出そうとしたら、何も出てこなくて」
森川の声が震えた。
「名前は?」
「森川……」
そこで言葉が止まった。
「森川……」
森川の顔から血の気が引いていく。
「え……?」
「どうしました」
「母の名前……何でしたっけ」
自分へ問い掛けるような声だった。
「待って。知ってるんです。知ってるはずなのに、出てこない」
森川の目から涙が溢れた。
「母なのに」
震える手で写真を掴む。
「私、母の名前を思い出せない」
蒼麻は拳を握った。
夢の中で九尾狐が見せた人々を思い出す。
名前も。
顔も。
生きた時間も。
誰にも知られず、無かったことになった人々。
「喰われている」
真響が写真を見ながら目を細めた。
「いや。記録に残された人間そのものを喰っている」
その夜。
資料館が閉館した後も、蒼麻と真響は館内に残った。
麻那は東京から資料を調べ、電話で情報を伝えていた。
『最初に異変が起きた資料が分かったよ』
「何だ」
『祭礼帳。百年くらい前から続く秋祭りの記録』
「今は?」
『参加者の名前だけ、全部消えてる』
「場所は?」
『収蔵庫の一番奥』
蒼麻と真響は収蔵庫へ向かった。
古い棚の奥に、紐で綴じられた一冊の帳面が置かれていた。
紙は茶色く変色し、端も傷んでいる。
蒼麻が帳面を開く。
文字がない。
祭りの日付。
天候。
奉納された酒。
使われた道具。
それらは残っている。
だが、人の名前だけが消えていた。
「何かいる」
真響が言った。
「どこだ」
「紙の間に」
蒼麻は目を凝らした。
黒い点が動いた。
小さな虫だった。
蟻よりも小さい。
細長い身体。
紙の上を這う。
文字があったはずの場所へ口を付ける。
そして。
僅かに残っていた名前の一部が消えた。
「こいつか」
蒼麻が手を伸ばす。
だが虫は紙の間へ潜る。
一匹、二匹、十匹。
気付いた時には帳面の隙間から黒い虫が溢れる。
棚から床、そして壁へと広がっていく。
「多いな」
蒼麻は後ろへ下がった。
「燃やすか」
「資料も燃える」
「じゃあ、どうする」
真響の指先に黒い狐火が灯った。
炎は床を這い、虫を囲む。
するとふたたび黒い虫は吸い込まれるように紙の中へ、記録の中へ潜るように逃げ込んだ。
「こいつらは何だ」
蒼麻が尋ねる。
真響は狐火を操りながら答えた。
「忘却から生まれた怪異だ」
「忘却?」
「誰にも思い出されなくなった記録」
真響は一冊の古い名簿を見る。
「残しただけで、誰も見ない。読まない。名前を呼ばない」
虫が紙の上を這う。
「記録は残っている。だが、人の記憶からは消えている」
「それを喰ってる?」
「そうだ」
真響は言った。
「忘れられた記録は、こいつらの餌になる」
最初は、昔の人間の名前を喰った。
次に写真の顔。
そして今は、生きている者の記憶まで喰い始めている。
最初は、誰にも思い出されなくなった昔の人間の名前を喰った。
次に写真から顔を消し、やがて記録と結び付いていた人々の記憶へ手を伸ばした。そして今は、生きている者の記憶まで喰い始めている。
「止める」
蒼麻はふたたび溢れてきた虫の群れへ向き直った。
黒い虫は波のように棚を這い上がり、一枚の古い写真を覆っていく。その瞬間、蒼麻の瞳に金色の光が宿った。
空気が変わる。
写真と、そこに写っていた人々。
名前と、それを覚えている者たち。
記録と、記憶。
普段は目に見えないはずの繋がりが、無数の細い糸となって蒼麻の視界へ浮かび上がった。
「これは……」
糸はすべて同じ場所へ伸びているわけではなかった。写真から家族へ。古い名簿から町の人々へ。祭礼帳から神社へ。酒蔵の仕込み帳から、かつてそこで働いていた者たちへ。
色も、太さも違う。
強く光るものもあれば、今にも消えそうなほど細いものもある。
その一本へ、黒い虫が喰らいついた。
糸が切れた。
遠くで、誰かが何かを忘れた。
顔も名前も分からない。それでも蒼麻には、その瞬間だけは分かった。
誰かの中から、一人の人間が消えた。
「やめろ!」
蒼麻が叫ぶ。
身体の奥で、何かが応えた。
建葉槌命。
異なる糸を織り、一つの形へ結び上げる神。
神降しと呼べるほど明確な顕現ではない。それでも、その気配は確かに蒼麻の内側から滲み出していた。
蒼麻は切れた糸へ手を伸ばした。
指先で二つの端を掴み、もう一度繋ぐ。
すると、虫に覆われていた写真へ、一人の女性の顔が僅かに戻った。
同じ頃。
資料館の別室にいた森川の脳裏へ、母の笑顔が一瞬だけ蘇った。
だが、黒い虫はすぐに糸へ群がった。
繋いだばかりの糸が細くなる。
写真へ戻った顔も、再び白く薄れていく。
「駄目だ」
蒼麻は息を切らしながら呟いた。
「何が足りない」
真響が尋ねる。
蒼麻は無数の糸を見つめた。
「覚えている人が少なすぎる」
写真と森川を繋ぐ糸は、あまりにも細い。
「俺が繋いでも、すぐに切られる。このままじゃ、記憶を支えきれない」
真響は写真へ目を向けた。
「ならば、増やせ」
「どうやって」
「呼べ」
「何を?」
「名前を」
真響は静かに言った。
「人は、呼ばれることで残るものだ」
蒼麻は祭礼帳を手に取った。
そこに記されていたはずの名前は、すでに消えている。目で見ても読むことはできない。
だが、糸は残っていた。
細く、弱く、今にも途切れそうになりながら、それでも紙の奥からどこかへ伸びている。
蒼麻が祭礼帳へ触れると、遠くから音が聞こえた。
太鼓。
笛。
人々の笑い声。
盃へ酒を注ぐ音。
境内を走る子どもの声。
今はもう失われた祭りの夜が、紙の奥に僅かに残っている。
その中で、誰かが一人の女性を呼んだ。
蒼麻は、聞こえた名前を口にした。
「森川千代」
別室で、森川が顔を上げた。
「お母さん……」
忘れていた名前が戻る。
「千代。そう……森川千代」
涙を流しながら何度も名前を呼ぶ。
すると、集合写真の中央へ、一人の女性の顔がゆっくりと戻っていった。
写真の上を這っていた黒い虫が、一匹消えた。
蒼麻は次の糸へ触れた。
「高木源蔵」
法被姿の男が写真へ戻る。
「山本ハル」
晴れ着を着た女性が現れる。
「小島宗一」
石段へ腰掛けていた少年の顔が戻る。
一人。
また一人。
蒼麻が名前を呼ぶたび、失われた人々が写真へ帰ってくる。
だが、祭礼帳に残されていた名前はあまりにも多かった。
一冊だけではない。
収蔵庫には、百年以上にわたって集められた記録がある。
数百人。
あるいは、千人を超えるかもしれない。
蒼麻の呼吸が荒くなる。
金色に光っていた瞳が揺らいだ。
「無理だ」
「何がだ」
「一人じゃ、全員の名前を呼べない」
真響は、黒い虫に覆われた棚を見上げた。
「ならば、町中に呼びかけさせろ」
翌朝。
資料館が開くと、蒼麻は森川へ頼んだ。
「町の人を集めてもらえませんか」
「町の人を?」
「昔の話をしてもらいたいんです」
「今からですか」
「今だからです」
森川は戸惑っていた。
それでも、母の名前を取り戻した写真を見ると、すぐに電話を掛け始めた。
昼を過ぎる頃には、資料館へ少しずつ人が集まってきた。
祭りを知る老人。
昔、この学校へ通っていた者。
町を離れ、近隣の市で暮らしている家族。
親に連れられてきた子どもたち。
蒼麻は展示室へ古い写真を並べた。
「知っている人がいたら、名前を呼んでください」
最初は、誰も何も言わなかった。
人の顔が抜け落ちた写真を前に、戸惑うばかりだった。
やがて、一人の老人が写真へ近づいた。
「この人……源さんじゃないか」
白く抜けていた場所へ、法被姿の男が戻った。
「ああ、高木の源さんだ」
別の老人も声を上げる。
「祭りのたびに飲み過ぎて、奥さんに怒られとった」
小さな笑いが起きた。
「その隣は、ハルちゃんじゃない?」
「そうだ。山本のハルちゃんだ」
「この年の祭りで、奉納する酒をひっくり返したんだよ」
「それ、源さんじゃなかったか?」
「二人でやったんだ」
どっと笑い声が広がる。
名前が呼ばれる。
思い出が語られる。
誰かが忘れていた話を、別の誰かが覚えている。
一つの記憶が、別の記憶と繋がっていく。
写真へ顔が戻るたび、黒い虫は一匹ずつ姿を消した。
蒼麻の目には、人と人の間へ新しい糸が伸びていくのが見えた。
細かった糸は、語られるたびに強くなる。
名前を呼ぶ。思い出を話す。
そして笑う。
それだけで、消えかけていた人々が、もう一度この町へ帰ってくる。
やがて、一人の子どもが古い名簿を指差した。
「この人は?」
誰も答えなかった。
名簿には名前が残っている。
だが、その人物を覚えている者はいない。
蒼麻は言った。
「読んでみて」
子どもは少し迷いながら、そこに書かれた名前を声に出した。
「長谷川……文吉」
誰も、その人物を知らなかった。
どんな顔だったのか。
何をしていたのか。
誰と暮らしていたのか。
もう分からない。
それでも、名前は呼ばれた。
「この町にいたんだね」
子どもが言う。
その瞬間、名簿の上を這っていた虫が消えた。
覚えていなくてもいい。
すべてを知っていなくてもいい。
ただ、その人が確かにいたと認める者がいる。
それだけで、記録は再び人へ繋がる。
夕方まで、町の人々は写真を囲んで話を続けた。
祭りの失敗。
学校の思い出。
昔あった店。
酒蔵で働いていた人。
川で魚を捕った話。
誰かが話すたび、別の誰かが続きを思い出した。
資料館は、長い間忘れていた人々の声で満たされた。
そして夜。
町の人々が帰った後、資料館には再び静けさが戻った。
写真の多くには顔が戻っていた。
祭礼帳にも、いくつもの名前が戻った。
黒い虫の姿も、ほとんど消えている。
だが、すべてではなかった。
一枚の集合写真に、一人だけ顔の戻らない者がいた。
名前は分からない。
その人物を覚えている者もいない。
写真の裏にも記録は残っていなかった。
ただ、人一人分の空白だけがある。
「救えなかったな」
蒼麻が呟いた。
「全部を救えると思っていたのか」
隣に立つ真響が尋ねる。
「思ってない」
蒼麻は写真を見つめた。
「でも、悔しい」
そこに誰かがいた。
他の者と並び、祭りの日に写真を撮った。
笑っていたのかもしれない。
家族がいたのかもしれない。
誰かに名前を呼ばれていたはずだ。
それでも今は、何一つ分からない。
「九尾なら、覚えているんだよな」
真響は答えなかった。
「名前も、顔も、その人がどう生きたかも」
「そうだ」
「なら、九尾なら戻せるのか」
「戻すだろう」
「だったら」
蒼麻は写真から目を離さなかった。
「それは九尾が正しい気がする」
真響の目が細くなる。
「また、その話か」
「だって、この人は確かにいたんだ」
蒼麻は、顔のない人物を指差した。
「でも、誰も覚えていない。名前もない。記録も残っていない。俺たちには、何もできない」
「九尾ならできる、と?」
「少なくとも、いなかったことにはしない」
真響はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「その代わり、九尾は未来を縫い留める」
「それでも」
蒼麻は答えた。
「この人が消えるよりは、いいんじゃないか」
真響は何も言わなかった。
蒼麻は写真へ手を伸ばした。
指先が、人一人分の空白へ触れる。
その時。
一本の白い糸が見えた。
金色ではない。
建葉槌命の気配を帯びた糸とも違う。
細く。
白く。
どこにも繋がっていない。
写真の中の空白から伸び、その先は何もない場所へ消えていた。
「何だ……これ」
蒼麻は糸へ手を伸ばした。
指先が触れる。
白い糸が動いた。
写真の空白へ、僅かに色が戻る。
輪郭が浮かぶ。
髪。
目。
口元。
一人の女性の顔が、ゆっくりと現れた。
「蒼麻」
真響の声が低くなる。
「何だ」
「今、何をした」
「何もしてない」
蒼麻は写真を見つめた。
「糸に触っただけだ」
女性は穏やかに笑っていた。
名前は分からない。
誰も覚えていない。
どんな人生を送ったのかも分からない。
それでも、確かにそこにいた。
存在していた証だけが、写真へ戻っている。
「これは建葉槌命の力なのか?」
真響は答えなかった。
白い糸を見つめている。
やがて、小さく呟いた。
「それは違う」
「ん?」
「これは、織っていない」
蒼麻は自分の指先を見た。
「じゃあ、俺は何をした」
真響は写真へ伸びる白い糸から目を離さなかった。
「お前は、縫い止めた」
蒼麻は弾かれたように手を離した。
それでも、白い糸は消えない。
写真へ戻った女性の顔も、消えなかった。
「これが九尾の力だって……?」
真響は答えなかった。
夜の資料館には、古い記録が静かに眠っていた。
名前。
顔。
声。
語り直された思い出。
黒い虫は消えた。
だが、蒼麻の指には一本の白い糸が絡み付いていた。
誰の目にも見えない。
けれど確かに、そこに糸は残っていた。




