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第七十四話 帰る理由

水篠から戻って一週間ほど経った頃、蒼麻のもとへ神代萩から連絡が入った。


『以前、一緒に訪ねた蔵を覚えているかね』


電話越しに聞こえる声は、いつもと変わらず穏やかだった。


「忘れるほど前じゃないですよ」


『それは何よりだ。では明日、少し付き合ってもらえないか』


「どこへです?」


『東京だ』


蒼麻は一瞬黙った。


「俺、今も東京にいるんですけど」


電話の向こうで、萩が小さく笑った。


『そうだったな。ならば、遠出にはならん』


「何するんです?」


『人に会う』


「誰に?」


『あの蔵元の息子さんだよ』


蒼麻は、以前訪れた山間の町を思い出した。


百年以上続く小さな酒蔵。


売上は減り、設備は老朽化し、後継者もいない。


数字だけを見れば、残す理由は少ない。


それでも萩は、蔵を簡単に終わらせようとはしなかった。


酒蔵がなくなれば、農家との繋がりが切れる。


祭りへ奉納する酒がなくなる。


土地の人々が集まる理由が、一つ消える。


やがて土地の記憶が薄れ、怪異が生まれる余地が増えていく。


神代一族は、怪異を祓うだけではない。


怪異になる前に、人と土地の繋がりを守る。


それを蒼麻へ見せるため、萩は以前、あの蔵へ同行させた。


蔵元には、東京で働く一人息子がいた。


だが、家を継ぐつもりはないと聞いている。


「説得するんですか」


蒼麻が尋ねると、萩は少し間を置いた。


『説得はせんよ』


「じゃあ何を」


『話を聞く』


「それだけ?」


『人の話を聞くというのは、存外難しいものだ』


萩は静かに続けた。


『私は数字を持っていく。設備更新に必要な金額も、販路も、人員の計画も用意する。神代が支援できる範囲も示そう』


「それなら、俺はいらないんじゃないですか」


『君は、人を見なさい』


その言葉だけを残し、萩は電話を切った。


翌日の午後。


蒼麻は都内の小さな居酒屋へ向かった。


駅から少し離れた路地裏。


昼は定食を出し、夜は酒を出す店だった。


暖簾をくぐると、奥の席に萩がいた。五十代前半。

人好きのする柔らかな笑顔と穏やかな物腰を持ちながら、神代一族の中でも特に多くの人と土地を動かしてきた男である。


「遅かったな」


「二分前です」


「年長者を待たせるものではない」


「約束の時間前ですよ」


「冗談だ」


萩は愉快そうに笑った。


「分かりにくいな」


「君はもう少し年長者を敬いなさい」


「敬ってるつもりです」


「そうは見えん」


蒼麻は向かいの席へ腰を下ろした。


「息子さんは?」


「もうすぐ来る」


「蔵元さんは?」


「来ない」


蒼麻は顔を上げた。


「会いに来たんじゃないんですか」


「来たよ。近くの宿にいる」


「じゃあ、何で」


萩は湯呑みを手に取り、ひと口飲んでから答えた。


「息子に会うのが怖くなったそうだ」


蒼麻は黙った。


帰ってくれと言えば、息子の人生を奪うかもしれない。だが、何も言わなければ蔵は終わる。


「親というのは難しいな」


「萩さん、子どもいるんですか」


「いる」


「初耳です」


「聞かれていないからな」


「いくつなんですか?」


萩は少し考え、曖昧に笑った。


「その話は、また今度だ」


「逃げた」


「大人には話したくないこともある」


その時、店の扉が開いた。


入ってきたのは三十代ほどの男性だった。スーツ姿で、顔には少し疲れが滲んでいる。


「神代さんですか」


「そうです」


萩は席を立ち、丁寧に頭を下げた。


「神代萩です」


蒼麻もそれに続く。


「神代蒼麻です」


男性は僅かに目を丸くした。


「神代の人が二人も?」


「多いでしょう」


蒼麻が言うと、萩が横目で睨む。


「余計なことを言うな」


三人は席へ着いた。


男性の名は高瀬直人。東京の食品会社で営業職に就いて、十年になる。父親は、以前蒼麻と萩が訪れた高瀬酒造の蔵元だった。


「父から頼まれたんですか」


直人が尋ねると、萩は首を横に振った。


「いいえ。私が、改めてあなたの話を聞きたいと思ったのです」


「何をですか?」


「なぜ帰らないのか」


直人の表情が僅かに硬くなる。


「蔵に帰れって言うんですよね」


「言いません」


「でも、蔵を残したいんでしょう」


「残したい」


萩は迷わず答えた。


「だが、あなたを犠牲にしてまで残すとは言っていない」


直人は黙った。


萩は鞄から資料を取り出し、机の上へ並べていく。設備の修繕費、販路拡大の計画、利用できる支援制度、人員配置、神代側が補える範囲。どれも細かくまとめられていた。


「神代は、ここまで支援できます」


直人は資料へ目を通しながら言った。


「でも、継ぐ人がいない」


「そうです」


「だから僕に帰れって」


「言っていません」


萩は穏やかに笑った。


「帰るかどうかは、あなたが決めることです」


直人は資料を閉じた。


「綺麗事ですね」


萩の表情は変わらない。


「そうかもしれません」


「結局、僕が帰らなければ蔵は潰れる」


「その可能性は高いでしょう」


「ほら」


「ですが、あなたが帰れば必ず残るとも言えない」


直人が顔を上げる。


「あなたが帰って失敗する可能性もある。神代が支援しても、潰れるかもしれない」


「随分、正直ですね」


「嘘をついて帰らせても意味がありません」


萩は湯呑みを手に取った。


「蔵は、人を縛るためにあるのではない」


直人は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。


蒼麻は二人のやり取りを黙って見ていた。萩は説得しない。ただ数字を示し、現実を見せ、それでも決断する事は相手に与えている。


「僕は」


やがて直人が口を開いた。


「蔵が嫌いじゃないんです。むしろ、好きです。父の酒も」


「じゃあ」


蒼麻が思わず口を挟む。直人がこちらを見た。


「どうして帰らないんです?」


萩は蒼麻を見たが、止めはしなかった。


「怖いんですよ」


直人は言った。


「何が?」


「僕には、父みたいな酒は造れない」


「やったことは?」


「子どもの頃に手伝ったくらいです。本格的には何も」


「じゃあ、まだ分からないじゃないですか」


「分かります」


直人は少し強い口調で言った。


「父は四十年以上、酒を造ってる。僕は何も知らない。今から追いつけるわけがない」


蒼麻は黙った。


「もし僕が継いで潰したら、百四十年続いた蔵を僕が終わらせることになる。父の代で終われば、後継者がいなかったから仕方なかったと言える。でも僕が継いで失敗したら、僕が潰したことになる」


ようやく、蒼麻にも分かった。


帰りたくないのではない。嫌いなのでもない。


好きだからこそ、怖いのだ。


「それに、僕にも仕事がある。東京で十年やってきた。生活も、友人もある。それを全部捨てて帰れと言われても困ります。伝統のために、自分の人生を全部使えと言われても」


店内に静けさが落ちた。


萩は何も言わない。


蒼麻は直人を見た。


「俺も、そう思います」


直人が顔を上げる。


「え?」


「蔵を守るために、あなたが潰れたら意味ないでしょう」


「でも、神代は蔵を守りたいんじゃ」


「守りたいです。でも、蔵とあなたのどちらか一つしか守れないって、誰が決めたんです?」


直人は黙った。


「帰らなくてもいいんじゃないですか」


「はい?」


「今の仕事を辞めなくてもいい。仕込みの時期だけ帰るとか、経営は東京から手伝うとか。何年かやってみて、無理なら別の人を探せばいい」


「そんな中途半端でいいんですか」


蒼麻は少し考えた。


「中途半端ですかね?今の仕事をしながら、別の仕事をするんですから負担は大きいかもしれないです。だけどいきなり蔵が終わるよりは、いいでしょう」


萩が僅かに目を細める。


「父親と同じ酒を造らなくてもいいんじゃないですか」


蒼麻は続けた。


「あなたが造ったら、それはあなたの酒でしょう。違う酒になる。それでいいと思います」


「いいんですか」


「俺は飲んでみたいです」


直人は蒼麻を見つめた。


「僕の酒を?」


「はい」


「まだ造ってもいないのに」


「だから飲んでみたいんです。父親と同じなら、今ある酒を飲めばいい。違う酒なら、新しく飲む理由になる」


直人は少し笑った。


それが、この場へ来てから初めて見せた自然な笑みだった。


「酒が好きなんですね」


「かなり」


「それだけで、ここに?」


「それだけじゃないです」


蒼麻は答えた。


「酒蔵がなくなると困る人がいる。農家も、神社も、町も、飲む人も。でも、一番困るのはあなたじゃないですか」


直人は動かなかった。そしてそのまま固まってしまった。


「好きなのに、怖くて帰れない。そのまま蔵がなくなったら、あなたはずっと後悔するでしょう。京都に“蒼空”というお酒があります。一度蔵を閉じましたが、後から後悔したそうですよ。」


蒼麻は、蔵に戻れとは言わなかった。


「どうしても諦められなくなって、規模を縮小してまた一人で始めた。一度お話を聞きに行ってみるのもいいかもしれないです。だから、一度だけ手伝ってから決めてもいいんじゃないですか。やって無理なら無理。できそうなら続ける。それでいい」


「父はそんなに待てないかもしれない」


「それに人手が足りない時は俺も手伝います」


今度は萩も直人も、同時に蒼麻を見た。


「神代の人が?」


「俺、酒造りは少し分かります」


父・麻臣が造っていた奉納酒。米、水、麹、蔵を満たしていた蒸気。その記憶が蒼麻の中へ蘇る。


「役に立つかは分からないけど、米を運んだりするくらいはできます」


「本当に?」


「酒が飲めなくなる方が困るんですよ」


直人が笑った。その目には涙が滲んでいた。


先ほどよりも、もう少し大きく。


萩も堪えきれないように笑う。


「君は、どこまで酒で動くのかね」


「世界が平和になるくらいは動きたいですね」


「それは大きく出たな」


話し合いが終わり、直人は席を立った。


「考えます」


最後にそう言う。


「帰るとは、まだ言えませんが」


萩は静かに頷いた。


「それでいい」


直人は少し迷ってから、蒼麻を見た。


「でももう一度、蔵には行ってみます」


蒼麻は笑った。


「酒、取っておいてください」


「それは父に言ってください」


直人が店を出ると、蒼麻は萩へ向き直った。


「どうでした」


「何がだね」


「人を見ろって言ったでしょう」


「見たかね」


「分かりません」


萩は穏やかに笑った。


「君は、帰れと言わなかったな」


「言ったら、たぶん帰らないでしょう」


「なぜそう思った」


「怖いからです。蔵が嫌いなんじゃない。好きだから失敗するのが怖い。なら、逃げ道があった方がいい」


萩は湯呑みに残った茶を飲み干した。


建葉槌命(たけはづちのみこと)は、糸を一本に束ねる神ではない」


蒼麻は萩を見る。


「違うんですか」


「一本に縛れば、それは縄になる」


萩は静かに言った。


「布は、違う糸を違うまま織るものだ」


父と息子。


蔵と仕事。


東京と故郷。


それぞれ違う。


「君は、父と息子を同じ考えへ変えなかった。父は蔵を残したい。息子は自分の人生も守りたい。どちらも捨てなかった」


萩は蒼麻を見つめた。


「それが織るということだ」


蒼麻は自分の手へ目を落とした。


何もない。


「俺、何もしてませんよ。話しただけです」


「人は、言葉で繋がる」


萩は言った。


「神の力などなくても、それはできる」


店の外には多くの人が行き交っていた。


東京という巨大な町の中を、無数の縁が交差している。


ふと、蒼麻の目に、店を離れていく直人の背中から伸びる細い金色の糸が見えた。


父へ。


蔵へ。


東京へ。


いくつもの場所へ、別々の糸が伸びている。


だが、その中に一本だけ、白く光る糸が混じっていた。


蒼麻が瞬きをすると、すぐに消えた。


「どうした」


萩が尋ねる。


「いや、何でもないです」


数日後、再び萩から連絡が入った。


『彼は蔵へ戻るそうだ』


蒼麻は驚いた。


「説得してないですよ」


『知っている』


「じゃあ、何で」


電話の向こうで萩が笑う。


『帰れと言わなかったからじゃないかな』


蒼麻は黙った。


直人はすぐに会社を辞めるわけではない。数年かけて仕込みと経営を学び、繁忙期だけ蔵へ戻る。その上で、正式に後を継ぐかどうかを決める。


『それでいい』


萩は言った。


蒼麻も笑う。


「良かった」


『君も手伝うそうだな』


「手伝うって言いましたから」


『覚えておけ。酒造りは、飲むより大変だ』


「それは知ってます」


父の姿を思い出しながら答えた。


『では、頼んだ』


電話が切れる。


蒼麻は窓の外へ目を向けた。


東京から遠く離れた山の中で、父と息子、蔵と町、いくつもの縁が再び繋がろうとしている。


自分は何をしたのだろう。


話した。


選択肢を示した。


ただ、それだけのはずだった。


けれど、あの白い糸は何だったのか。


建葉槌命の、異なる糸を織る力なのか。


それとも九尾狐の、未来を一つへ縫い止める力なのか。


蒼麻はまだ知らない。


直人が蔵へ戻ると決めたのは、直人自身なのか。


それとも、誰かに選ばされたのか。


その問いは、まだはっきりとした形を持ってはいなかった。


ただ、遠い山の蔵で、切れかけていた二本の糸がもう一度繋がろうとしていた。

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