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第七十三話 虎の見る祭り

葉月が水篠集落へ入ったのは、蒼麻たちが去ってからひと月ほど後のことだった。


神代が宮崎県北部の小さな集落へ介入した。その情報を耳にした時、葉月はまず土地の取得を疑った。次に観光資源の囲い込みを考え、最後に、神楽や神社を利用した新たな術式の実験を警戒した。


神代は昔からそういう一族だった。


神を祀ると言いながら、その力を測る。


土地を守ると言いながら、支配下へ置く。


人を救うと言いながら、必要とあれば器として使う。


白虎神計画も、その延長にあった。


九尾狐を切り裂くための対狐神格を人の身体へ降ろし、血を重ね、適性を選別し、役に立たない者を失敗作として捨てた。葉月の存在そのものが、神代の言葉を信じてはならない理由だった。


だからこそ、祭りの保存や文化の継承という聞こえのよい言葉も、額面どおりに受け取るつもりはなかった。


水篠は山の奥にあった。杉林に挟まれた細い道を進み、深い谷を越えた先に、古い家々と棚田が見えてくる。人の気配は少ない。犬の声と、遠くを流れる川の音だけが山間に響いていた。


葉月は集落の入口で足を止め、周囲の気配を探った。


神代の術者はいない。


監視の結界もない。


土地へ打ち込まれた神代の術式も見当たらなかった。


それでも警戒を解かず、森の側から集落を見下ろした。


葉月は二重神格者である。

森の神ともいえる久久能智神の気配を薄く纏えば、山の中で葉月を見つけられる者はほとんどいない。

木々の呼吸へ自らの気配を重ね、枝葉の揺れと同じように存在を沈ませる。

獣たちは一度だけ葉月の方を見たが、すぐに何事もなかったように歩き去った。


集落の奥に、小さな神社がある。その脇には、取り壊されるはずだった神楽殿が残っていた。


ただし、以前と同じ姿ではない。


屋根の傷んだ箇所には新しい木材が入れられ、危険だった柱には補強が施されている。

古びた風合いを無理に塗り潰すのではなく、残せる部分を残しながら、倒れないための手だけが加えられていた。


境内には数人の老人が集まっている。


その中に、若い者が二人いた。


一人は県外から来た文化保存の研究者らしく、古い面を慎重に撮影していた。もう一人は地元の高校生で、老人から鈴の持ち方を教わっている。


神代の姿はなかった。


葉月は眉をひそめた。


援助をしたのであれば、普通は名前を残す。


財団の看板を掲げ、寄付者一覧の上段へ名を載せ、恩を売る。

少なくとも、葉月が知る神代とはそういうものだった。


だが、境内のどこを見ても神代の名はない。


神楽殿の前に置かれているのは、地元の者が持ち寄った古い長椅子だけだった。


やがて、一人の老人が若者たちへ声を掛けた。


「今日は全部はやらん。一つだけじゃ」


水篠の宮司、正治だった。


「昔は夜から朝まで舞った。酒を飲んで、飯を食って、皆で夜を越した。だが、今は同じようにはできん」


高校生が少し残念そうに尋ねる。


「全部やらなくても、神楽になるんですか」


正治はすぐには答えなかった。


神楽殿を見上げ、長い時間を思い出すように目を細める。


「昔と同じでなければ偽物だと言うなら、ここで終わりじゃ」


老人は静かに言った。


「だが、変わりながらでも渡していけるなら、まだ終わっとらん」


その言葉に、葉月の目が僅かに細くなった。


どこかで聞いたような考え方だった。


神代らしくない。


少なくとも、葉月が憎んできた神代の理屈とは違う。


境内では、祭りの準備が進んでいた。祭りといっても、かつてのように集落全体を挙げた大がかりなものではない。神楽殿の前に竹灯籠が並び、小さな机へ料理が置かれ、地元の酒が数本用意されているだけだった。


集まった者も二十人に満たない。


それでも、人々は笑っていた。


久しぶりに顔を合わせた者が近況を尋ね合い、昔の祭りを知る老人が若い者へ話を聞かせている。子どもは一人しかいなかったが、その子は舞台の周りを走り回り、何度も母親に止められていた。


失われた祭りを再現しているのではない。


今いる人間で、新しい形を作ろうとしている。


葉月は木陰から、その様子を黙って見ていた。


日が沈む頃、鈴が鳴った。


かつて怪異が毎夜鳴らしていたものと同じ鈴だった。


だが今、それを握っているのは生きた人間だ。


舞手は正治だった。高齢の身体に白い衣をまとい、動きを簡略化した一つの舞を、ゆっくりと舞っていく。

足取りは若い頃のようにはいかない。

途中で息も切れる。

それでも、舞台を踏む足音には確かな意思があった。


誰もいなかった舞台に、今は見る者がいる。


鈴が鳴るたび、酒を酌んでいた者が顔を上げる。

幼い子どもが、母親の膝から舞を見つめる。

高校生は、教わった足の運びを忘れまいとするように、舞手の動きを目で追っていた。


葉月はその光景を見ながら、かつての神楽殿に残っていた怪異の話を思い出した。


蒼麻は怪異を消した。


だが、祭りまで消したわけではない。


神代の管理下へ置いたわけでも、観光客を呼び込む見世物に変えたわけでもなかった。

古い映像を修復し、面や衣装を保存し、記録を残すための人間だけを繋いだ。その上で、続けるかどうかを決める権利は水篠の者たちへ返した。


葉月には、それが理解できなかった。


神代でありながら、奪わない。


力を持ちながら、決めない。


怪異を祓いながら、終わらせない。


あの一族は、正しさを口実に他者の運命を決める。

葉月はそう信じてきた。

実際、白虎神計画ではそうされた。


生まれる前から役目を決められた。


九尾を狩るための血として扱われた。


力を持たなければ出来損ないとされ、力を示せば兵器として値踏みされた。


どちらへ進んでも、人として生きる道など用意されていなかった。


だが蒼麻は、祭りの未来を自分で決めなかった。


残す方法だけを用意し、選択を土地の人間へ返した。


葉月の胸の内に、小さな苛立ちが生まれた。


蒼麻が立派だからではない。


むしろ逆だった。


神代の人間でありながら、神代らしく振る舞わないことが気に入らなかった。


あの男もまた、神代の中では力を持たない出来損ないとして扱われてきたという。

神降しの才を認められず、一族の中枢から外され、怪異案件の調査員という曖昧な立場へ置かれた。


それでも蒼麻は、神代を憎み切ってはいない。


なぜなのか。


葉月には分からなかった。


同じように価値を決められ、同じように足りない者として扱われながら、なぜあの男は人を信じられるのか。


祭りの後、境内では地酒が振る舞われた。舞を終えた正治は椅子へ座り、肩で息をしながら盃を受け取る。


「兄貴ほどには舞えんかったな」


そう呟くと、隣にいた老人が笑った。


「兄さんと同じに舞ったら、あの世から怒鳴られるぞ。お前はお前でええ」


周囲に小さな笑いが広がった。


正治も笑い、盃を飲み干した。


その表情を見た瞬間、葉月は不意に思った。


神代を滅ぼせば、この光景も消えるのだろうか。


神代一族が関わらなければ、神楽殿は取り壊されていた。

記録は蔵の中で朽ち、面も衣装も湿気に侵され、祭りを知る者が死ねば、水篠の夜神楽は本当に消えていたかもしれない。


だからといって、神代の罪が消えるわけではない。


白虎神計画が許されるわけでもない。


自分のような存在を生み出した一族を、存続させてよい理由にはならない。


それでも。


神代をすべて滅ぼせば、彼らが繋いだものまで断ち切ることになる。


酒蔵。


神社。


祭り。


町。


そこで生きる人間。


葉月は、神代だけを切り離して殺すことができると思っていた。


だが神代は、すでに社会のあまりに深い場所へ根を張っている。その根は支配のためだけではなく、何かを支えるためにも使われていた。


根を断てば、神代だけが倒れるとは限らない。


その事実を認めることは、葉月にとって不愉快だった。


「甘い顔をしている」


背後から声がした。


葉月は振り返らなかった。


誰もいない。


木々が風に揺れただけだった。


久久能智神の声だったのか、それとも自分自身の内に生まれた疑念だったのかは分からない。


「甘くなどない」


小さく答える。


神代は滅ぼす。


その考えは変わっていない。


ただ、これまでのように一括りにはできなくなった。


神代という名を持つ者すべてが、同じ罪を背負い、同じように断たれるべきなのか。


蘭は違った。麗樹も違った。


蒼麻も違うのかもしれない。


そう考え始めた自分が、葉月には許せなかった。


祭りが終わり、人々が帰り始める。竹灯籠の火が一つずつ消され、神楽殿は再び静けさを取り戻していった。


だが以前の静けさとは違う。


誰もいない舞台ではない。


次に立つ者を待つ舞台だった。


葉月は木陰から姿を現さないまま、最後までその場を見届けた。


帰ろうとした時、境内の隅に一升瓶が一本置かれていることに気付いた。

瓶の首には小さな紙が結ばれている。


――手伝ってくれた神代の酒好きへ。


正治が蒼麻のために取っておいたものらしい。


葉月はしばらく瓶を見つめた。


持っていく理由はない。


蒼麻へ届ける義理もない。


それでも、その場を通り過ぎることができなかった。


結局、葉月は一升瓶を手に取った。


「何をしている」


自分へ言い聞かせるように呟く。


蒼麻へ渡すつもりはない。


神代の人間が、またこの土地を利用しないか確認するための証拠だ。


そう理由を付けた。


だが、瓶を割ることも置き去りにすることもせず、丁寧に抱えて山道を歩き始める。


月明かりの下で、髪が僅かに揺れた。


葉月はまだ、神代を許していない。


許すつもりもない。


ただ、神代を滅ぼした後に残る世界を、いま初めて考え始めていた。


その世界に、水篠の祭りは残るのか。


あの舞台へ立つ者はいるのか。


そして、力を持たない出来損ないと呼ばれた男は、何を選ぶのか。


山の夜風が、一升瓶へ結ばれた紙を揺らした。


葉月はそれを押さえ、誰にも見られないまま森の奥へ消えていった。

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