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第七十二話 はたして九尾は間違っているか

水篠集落を離れた頃には、日はすでに山の向こうへ沈み始めていた。


宮崎県北部の山道を下りながら、蒼麻は何度か後ろを振り返った。杉の森と深い谷の間に、水篠の家々はすぐ見えなくなった。


あの夜、誰もいない舞台で、最後の舞が続いていた。


誰にも見られなくなった祭り。誰にも知られなくなることを恐れ、毎晩、朝まで舞い続けていた怪異。


だが今夜から、神楽殿で鈴の音が鳴ることはない。


舞は終わった。


祭りも、昔と同じ形では戻らない。


それでも、水篠に人がいたこと。神へ舞を捧げたこと。酒を酌み交わし、笑いながら夜を越したこと。その記憶は、別の形で残る。


蒼麻は、それでよかったと思っていた。


少なくとも、そう思いたかった。


「今夜は泊まるぞ」


助手席に座る真響が言った。


「珍しいな。お前から言うなんて」


「山道を走り続けて事故を起こされる方が困る」


「心配してくれてる?」


「車をだ。車は何も悪くない」


「俺の心配をしてもいいだろ」


真響は答えなかった。


山を下りた先の小さな町で、二人は古い旅館に泊まることになった。


大きな宿ではない。木造二階建てで、廊下は歩くたびに小さく軋み、窓の外には川が流れていた。


温泉もある。


地酒もある。


蒼麻にとっては、それだけで十分だった。


夕食には山菜、川魚、鶏の炭火焼きが並び、その傍らには宮崎の地酒「高千穂神楽 献上純米酒 舞」が置かれていた。


蒼麻はグラスを持ち上げる。


「仕事の後の酒はいいな」


「お前は仕事の前でも飲む」


「飲まない」


「飲もうとする」


「飲める状況ならな」


真響はグラスを差し出した。


蒼麻が酒を注ぐと、真響は香りを確かめ、一口飲んだ。


「悪くない」


蒼麻も口に含む。


柔らかい。


少し甘い。


後から米の香りが広がる。


「水がいいな。はなかぐらってどんな米なんだろう」


「山の酒だな」


「水篠も、水が綺麗だった」


蒼麻がそう言うと、真響は何も答えなかった。


二人の間に、酒と川の音だけが残る。


静かな夜だった。


しばらく、どちらも何も話さなかった。


蒼麻はグラスの中で揺れる酒を見つめた。


「なあ」


「何だ」


「九尾は、間違ってるのか」


真響の手が止まった。


沈黙の中、窓の外では川が流れている。


真響はグラスを置いた。


「何を聞きたい」


「そのままだ。九尾は、間違ってるのか」


真響は窓の外へ目を向けた。


そして長い沈黙の後、ようやく口を開く。


「間違ってはいない」


蒼麻は少し驚いた。


「否定しないんだな」


「否定できない」


真響は答える。


「九尾は、失われたものを誰より見ている」


「覚えてる」


「そうだ」


「全部?」


「おそらく」


真響は酒を飲んだ。


「巻き戻された未来。消えた人。無かったことになった死。忘れられた願い。すべてだ」


蒼麻は夢を思い出した。


子を抱いた母。


妻を焼いた男。


父を待つ少女。


「九尾は言った」


蒼麻は盃を見つめたまま続ける。


「誰も、いなかったことにはさせないって」


真響は目を閉じた。


「そうか」


「知ってたか?」


「あやつが言いそうだ」


「九尾は、神狐を責めなかった」


真響が蒼麻を見る。


「世界を救った。五柱は自分を捨てた。尊いことだって」


真響は少しだけ笑った。


「昔から、そういう奴だ」


蒼麻は顔を上げる。


「昔?」


真響は少し黙った。


「九尾は、最初から敵ではなかった」


「話したことがある?」


「ある」


蒼麻は驚いた。


「どんな奴だった」


真響は少し考えた。


「静かだった」


「今も静かだったぞ」


「今よりだ」


「怒ってるのか」


「怒っている」


「何に」


「忘れることに」


真響は窓の外へ目を向けた。


「世界が、あまりにも簡単に人を忘れることに」


「それは、分かる」


真響が蒼麻を見る。


「分かるか」


「水篠で思ったよ」


蒼麻は酒を飲む。


「祭りは終わる。それは仕方ない。人もいない。金もない。続けられない。でも、誰も覚えていなかったら、本当に無かったのと同じになる」


真響は黙って聞いていた。


「九尾は、それが嫌なんだろ」


「そうだ」


「なら、それは正しいんじゃないか」


真響はすぐには答えなかった。


川の音だけが続く。


「残すことは正しい」


やがて真響が言った。


「じゃあ」


「だが、残すことと閉じ込めることは同じではない」


蒼麻は黙る。


「水篠の舞を、九尾なら残しただろう」


「ずっと?」


「そうだ」


「誰も見なくても?」


「そうだ」


「それは、祭りって言えるのか」


蒼麻は答えられなかった。


「舞は残る。音も、足跡も。だが、新しい人は入れない。変えられない。終われない」


真響は自分のグラスへ酒を注いだ。


「九尾は、失うことを許せない」


「悪いのか」


「悪くない」


「なら」


「だが、生きることは失うことでもある」


蒼麻は眉を寄せた。


「嫌な言い方だな」


「事実だ。人は忘れる。死ぬ。離れる。祭りは終わる。村もいずれ消える」


「だから、残さなくていい?」


「違う」


真響はすぐに否定した。


「残せ。覚えろ。渡せ。だが、変わることを許せという事だ。変わり続けなければ何も残せない」


「黒龍酒造の社長みたいな事を言うね」


蒼麻は、水篠の夜神楽を思い出した。


老人。


面。


朝まで続いた舞。


「形が変わっても、次へ渡す」


「そうだ」


「それが神狐?」


真響は少し考えた。


「近い。神狐は流す。終わりを、次の始まりへ」


「九尾は?」


「留める。失われないように」


どちらも必要なのではないか。


蒼麻はそう思った。


「じゃあ、神狐も九尾も必要なんじゃないか」


真響の手が止まった。


「我々は陰陽の関係にある。神狐だけなら忘れる。九尾だけなら進めない」


真響はしばらく黙っていた。


「どっちも必要。違うのか?」


「違わない」


「じゃあ、なんで戦うんだ」


真響はまた窓の外へ目を向けた。


「九尾は、一つを選ぶ」


「未来を?」


「そうだ。誰も失わない。誰も忘れられない。正しい未来を」


「正しい未来、いいね」


「聞こえはな」


「実際は?」


真響は蒼麻を見る。


「誰が、その“正しい未来”を決める」


夢の中で、蒼麻も同じことを聞いた。


誰がそれを決めるのか。


その時の九尾は答えなかった。


「九尾?」


「そうだ」


「でも、九尾が正しい未来を選んでくれるなら、問題ないんじゃないか」


真響は少し悲しそうに笑った。


「正しい未来など、誰にも分からないではないか」


「神でも?」


「神だから分からない」


蒼麻は黙った。


「神は大きすぎる」


真響は言う。


「人を、一つの流れとして見る。九尾も世界を見る。だが、世界を見れば見るほど、一人が見えなくなる」


「九尾は人を忘れないんだろ」


「忘れない」


「なら、一人ひとりも見えてるはずだ」


「見えている」


「ん?矛盾してない?」


真響は首を横に振った。


「全員を救おうとすれば、一人を選べなくなる」


蒼麻には、まだ意味が分からなかった。


「例えば、一人を救えば百人が死ぬ。百人を救えば、一人が死ぬ」


「九尾は百人を選ぶ?」


「おそらく」


「普通だろ」


「では、その一人がお前なら」


蒼麻は黙った。


「お前は消される。正しい未来のために」


「でも、百人が助かる」


「そうだ」


蒼麻は、その先を言えなかった。


「九尾は、その一人を忘れない」


真響は続ける。


「名前も、人生も、すべて記憶する。それなら、いいのか?」


真響は逆に問い返した。


蒼麻は答えられない。


「お前は九尾に忘れられない。だが、お前が生きる未来は選ばれない。それを正しいと言い切れるのか」


窓の外では、変わらず川が流れていた。


「九尾は残酷ではない」


真響は言う。


「むしろ、優しい。だから怖いのだ」


蒼麻はグラを見つめる。


「優しいから怖い?」


「九尾は、正しいと思う理由で人を消せる」


夢の中で聞いた言葉が蘇る。


――正しい者が、正しい理由で、誰かの存在を消したなら。


――消された者は、黙って受け入れなければならないのか。


「同じだ」


蒼麻が呟いた。


「陰陽の関係だっていうんなら。九尾も、神狐と同じことをする気がする」


真響は黙る。


「神狐は世界を救うために未来を消した。九尾は世界を救うために未来を選ぶ」


「そうだ」


「じゃあ九尾は、神狐を嫌ってるんじゃない」


「いや」


真響は静かに答えた。


「あれは、我々神狐を理解している」


「理解してる?」


「理解しているから、同じ過ちを違う形で繰り返すのを知っている」


神狐はすでに三度、世界を巻き戻している事を蒼麻はまだ知らない。


九尾は、消された未来を覚えている。


誰も、いなかったことにはしない。


だが、正しい未来を一つだけ選ぶ。


選ばれなかった未来は、消える。


「なんだか矛盾してるんじゃないか」


蒼麻が言う。


「そうだ」


「九尾はそれに気付いてる?」


「おそらく」


「それでも?」


「それでも、誰も失わない未来を探している」


「そんな可能性もあるかもしれない」


「そんなものはない」


「言い切るな」


「ない」


真響は蒼麻を見る。


「すべてを残せば、世界は動けない」


「でも、探すくらいいいだろ」


真響は答えなかった。


蒼麻は、夢の中で見た白い狐を思い出した。


優しい声。


誰も置いていかない未来。


「俺は、九尾が間違ってるとは思えない」


真響は黙っていた。


「怖いのか?」


蒼麻が聞く。


「私がなにを恐れる?」


「俺が、九尾の方が正しいって思うこと」


真響は長い間、答えなかった。


川は流れ続けている。


夜が深い。



「怖い」



やがて、真響は言った。


蒼麻は驚いた。


真響が、自分から怖いと言った。


「九尾は、お前を騙さない。嘘も言わない。正しいことを言う」


真響はまっすぐ蒼麻を見る。


「だからお前は、自分であれを選ぶかもしれない」


蒼麻は黙る。


「その時は止めるのか?」


「分からない」


「分からない?」


「それはお前が選ぶことだ」


真響は静かに言った。


「私は、選ばせたい」


夢の中で九尾も言った。


――選べ。


真響も言う。


――選べ。


同じ言葉。


だが、意味は違う。


「俺が間違えても?」


「間違えろ」


「酷いな」


「間違えなければ、おまえは自分の答えを持てない」


蒼麻は笑った。


「九尾は、間違えさせない?」


「正しい未来へ導くからな」


「真響は?」


「知らん」


「無責任だな」


「お前の人生ではないか」


「少しくらい助けろ」


「隣にはいる」


真響はグラスを差し出した。


「酒を注げ」


蒼麻は笑いながら徳利を持ち、真響のグラスへ酒を注ぐ。


「それだけ?」


「十分だ」


「安いな」


「酒による」


二人は再び酒を飲んだ。


窓の外では、川が流れている。


水は同じ場所に留まらない。


だが、消えるわけではない。


形を変え、海へ流れ、雲になり、雨となり、いつかまた川へ戻る。


蒼麻は窓の外を見ながら言った。


「九尾は、間違ってるわけでもないのか」


「そうだ」


真響は頷いた。


「だが、正しいからといって従う必要もない」


蒼麻は真響を見る。


「それは大事なことだな」


「覚えておけ」


「忘れたら?」


「殴ってやる」


「怖いな」


「忘れないようにだ」


真響は何事もなかったように酒を飲んだ。


夜はさらに深くなっていく。


答えは出なかった。


九尾は間違っていない。


神狐も間違っていない。


真響も答えを知らない。


だから、蒼麻は選ぶ。


まだ何を選ぶのかは分からない。


それでも、隣には黒狐がいる。


川の音。


酒の香り。


静かな夜。


世界は流れ続けている。

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