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第七十一話 誰も見ない舞台

九尾狐の夢を見てから、三日が過ぎていた。


蒼麻は、そのことを誰にも話していない。真響には隠しても意味がないだろう。

夢を見たことも、九尾狐と言葉を交わしたことも、おそらく、どこまで心を動かされたのかさえ気付かれている。

それでも真響は何も聞かなかった。

ただ時折、蒼麻の胸の奥を確かめるような目を向けてくるだけだった。


その日の午後、蒼麻は神代商工会の会議室にいた

。目の前には麻那が座り、机の上には数枚の写真が並べられている。

古い神社、小さな神楽殿、山に囲まれた集落。

そして、誰もいない舞台に残された裸足の足跡。


「宮崎?」


蒼麻が資料を見ながら尋ねると、麻那は頷いた。


「宮崎県北部。高千穂から、さらに山へ入ったところ」


「遠いなぁ」


「お兄ちゃん、温泉があるよ」


「行こう」


即答した蒼麻に、麻那は呆れたような目を向ける。


「決断が早いよ」


隣で資料を眺めていた真響が、淡々と付け加えた。


「酒もあるぞ」


「もっと早く言え」


「お兄ちゃん」


麻那は深くため息を吐いた。


「仕事だからね」


「分かってる」


蒼麻はあらためて写真へ目を落とした。


集落の名は、水篠。

山と谷、川、棚田に囲まれた小さな土地で、人口は五十人ほどしかいない。若者は少なく、住民の大半は高齢者だった。


かつて水篠では、冬になると集落の神社で夜神楽が奉納されていたという。夜から朝まで神へ舞を捧げ、酒を酌み交わし、食事を囲みながら村人全員で夜を越す。

しかし十五年前、最後の舞手が亡くなり、祭りは途絶えた。

それ以来、神楽殿は一度も使われていない。


「怪異は?」


蒼麻が尋ねると、麻那は小さく首を振った。


「分からない。人は襲われていないの」


「じゃあ、何が起きてる」


「夜になると、神楽殿から音がする」


麻那は写真の一枚を指差した。


鈴。太鼓。舞台を踏む足音。舞手の掛け声。


誰もいないはずなのに、毎晩、神楽が続いている。


「見に行った人は?」


「いる」


「何が見えた」


「何も。音だけ」


麻那は続けて、足跡の写った写真を蒼麻の前へ滑らせた。


「翌朝、床にこれが残る」


裸足の足跡が一人分、舞台を巡るように続いている。


「いつからだ」


「一か月前」


「急だな」


「神楽殿を壊す話が出たの」


麻那によれば、建物は老朽化が進み、維持費もかかる。

使う者もおらず、取り壊しが決まろうとしていた。

その話が出た夜から、誰もいない舞台で神楽が始まった。


「分かりやすいな」


「そうだね」


麻那は資料を閉じた。


「お兄ちゃん。今回は、祓うかどうかも現地で決めて」


蒼麻は顔を上げた。麻那の表情は真剣だった。


「怪異なら祓う。でも害は出ていない。残していいのか、消すべきなのか、私には決められなかった」


「だから俺に頼むと」


麻那は微笑んだ。


「信頼してる」


「便利な言葉だな」


翌朝、蒼麻と真響は宮崎へ向かった。

飛行機を降りて車へ乗り換え、さらに長い山道を進む。


「まだ着かないのか」


蒼麻がぼやくと、真響は窓の外を見たまま答えた。


「お前が来ると言った」


「温泉があるって聞いたからな」


「ある」


「酒もあるって言った」


「ある」


「なら問題ない」


杉の森と深い谷、その底を流れる川を横目に車を走らせる。やがて山肌に沿って棚田が現れ、その先に古い家々の並ぶ小さな集落が見えてきた。


水篠だった。


道を歩くのは老人ばかりで、時折、犬や猫が姿を見せる。子どもの姿はない。


集落の奥には、小さな神社があった。

石段を上り、鳥居をくぐると拝殿があり、その脇に古びた神楽殿が建っている。柱も屋根も傷み、木材は黒ずんでいたが、舞台の床だけは不思議なほど綺麗に掃き清められていた。


「掃除されてるな」


「誰かがしている」


真響が答えた時、境内の奥から箒を持った老人が現れた。


「神代さんですか」


「はい」


老人は丁寧に頭を下げた。


「宮司の水篠正治(みずしの しょうじ)です。遠いところを、ありがとうございます」


七十代ほどだろうか。身体は細いが、目にはしっかりとした力が残っていた。


蒼麻は挨拶を返し、すぐに神楽殿へ視線を向ける。


「音がするのは毎晩ですか」


「はい。日が沈んで、しばらくすると鈴が鳴ります」


「太鼓も?」


「聞こえます」


「誰かが入っている可能性は」


宮司は首を横に振った。


「鍵をかけています。それでも、翌朝になると足跡が残るのです」


「昔の舞手のものだと?」


「分かります」


宮司は神楽殿を見上げ、懐かしむように目を細めた。


「何十年も見ていましたから」


最後の舞手は、水篠源一(みずしの げんいち)。宮司の兄だった。


幼い頃から神楽を舞い、祭りを守ってきた。人が減り、舞手が減っても、最後まで舞うことをやめなかったという。


「兄は舞をやめませんでした」


宮司は静かに語った。


「一人になってからもです。太鼓を叩く者も、笛を吹く者もいなくなった。それでも録音した音を流して、一人で舞いました」


「最後の年、見ていた人は?」


「三人だけでした。私と、兄の妻と、近所の者が一人。それでも兄は、朝まで舞いました」


風が神楽殿を抜けていく。乾いた木の香りが微かに漂った。


「その次の春に、兄は亡くなりました。祭りも、それで終わりです」


「神楽殿を壊すんですか」


宮司は頷く。


「危ないですから。屋根も柱も傷んでいます。直す金もない。祭りもなく、使う人もいないのです」


口元には笑みが浮かんでいたが、ひどく寂しい笑い方だった。


「仕方ありません」


その夜、蒼麻と真響は神社に残った。


月明かりの下、境内は静まり返っている。遠くから川の音だけが聞こえていた。


「来ると思うか」


蒼麻が尋ねる。


「来る」


真響は迷わず答えた。


「なぜ分かる」


「見られている」


蒼麻は周囲へ目を向けたが、誰の姿もない。


「どこから」


「舞台だ」


真響が神楽殿へ視線を向けた、その時だった。


しゃん、と小さな鈴の音がした。


蒼麻は立ち上がる。


舞台には誰もいない。


もう一度、鈴が鳴る。


続いて、とん、とん、と板を踏む足音が響いた。


太鼓の音が重なる。


どん。どん。


音だけが舞台を満たしていく。


鈴、太鼓、足音、そして低い掛け声。目には誰も映らないのに、確かにそこで舞が始まっていた。


やがて蒼麻の目に、舞台の中央へ薄い人影が浮かび上がった。白い衣をまとい、面を着けた老人が、一人で舞っている。


「見えるか」


真響が尋ねる。


「少しだけ」


舞はゆっくりとしていながら、力強かった。


誰も見ていない。


それでも老人は舞い続ける。


一時間が過ぎ、二時間が過ぎても、足音は止まらない。


「いつまで続くんだ」


「朝までだろう」


「毎晩か」


「おそらくな」


「十五年間?」


真響は首を振る。


「始まったのは一か月前だ」


「取り壊しの話が出てから」


「そうだ」


蒼麻は立ち上がり、神楽殿へ近付いた。舞台へ足を乗せた瞬間、鈴も太鼓も足音も、すべてが止まった。


老人がこちらを見る。面の下の顔は見えない。


「あなたは誰ですか」


老人は答えない。


「水篠源一さん?」


しばらくの沈黙の後、老人が口を開いた。


「祭りを知っているか」


「少しだけ、聞きました」


「見たか」


「今、見ています」


「違う」


老人の声が低く響く。


「祭りを見たか」


蒼麻は答えられなかった。


老人はゆっくりと首を振る。


「誰も見ていない。最後は三人いた。だが、もういない。誰も知らない」


その身体がわずかに揺らぐ。


「私が消えれば、舞も消える。祭りも、村も。誰もいなかったことになる」


蒼麻の胸の奥が熱を帯びた。


九尾の夢で聞いた言葉が蘇る。


――誰もいなかったことにはさせない。


同じだった。


老人は、忘れられることを恐れている。


「だから舞っているんですか」


「舞わなければ消える」


「毎晩?」


「永遠に」


老人はきっぱりと言った。


「終わらせない」


その言葉まで、九尾狐とよく似ていた。


――失われない未来を、一つだけ残せばよい。


蒼麻は黙り込む。


舞台の外から、真響が問い掛けた。


「祓うか」


蒼麻は振り返る。


「祓えば、どうなる」


「終わる」


「祭りも?」


「人の記憶には残る」


「でも、覚えている人がいなくなる」


真響は答えなかった。


蒼麻は老人を見る。


九尾狐なら、どうするだろう。


きっと残す。


時間を縫い止め、この舞を永遠に続けさせる。誰にも見られず、誰も参加しなくとも、祭りだけは消えない。


だがそれは、本当に残っていると言えるのだろうか。


「祭りを復活させればいい」


蒼麻が口にすると、老人の動きが止まった。


「またやればいい。人を集めて、教えて、続ければ」


「人がいない」


「集める」


「誰が舞う」


「教えればいい」


「誰が教える」


蒼麻は答えられなかった。


文化継承は簡単な話ではない。3年途絶えれば失われるとも聞く。


若者はいない。


金もない。


時間もない。


かつてと同じ祭りを、そのまま戻すことはできない。


夜が明ける頃、舞は終わった。老人の姿は薄れ、舞台には裸足の足跡だけが残った。


蒼麻は宮司へ、神楽に関する記録がないか尋ねた。


すると古い蔵の中から、写真と一本の映像、舞に使われた面や衣装、演目の順番を記した書付、歌詞を記録した紙が見つかった。


埃を被ってはいたが、確かに残っていた。


映像の中では、まだ若い源一が舞っている。

周囲には多くの人がいて、子どもたちが笑い、酒と料理が並び、祭りの夜を楽しんでいた。


そこには、確かに一つの時代があった。


「残しましょう」


映像を見つめながら蒼麻が言うと、宮司は戸惑ったように尋ねた。


「何をですか」


「全部です」


古い映像を修復する。


舞の順番と歌を記録する。


衣装や面、写真を保存する。


集落の人々から当時の話を聞く。


神代商工会を通して文化保存の専門家や資料館、学校へつなぐ。


「祭りを戻すのですか」


宮司の問いに、蒼麻は首を横に振った。


「違います。昔と同じ形には戻せない。でも、無かったことにはしません」


宮司は黙って蒼麻を見る。


「年に一度、一つだけでも舞えませんか。全部じゃなくていい。夜通しじゃなくていい。今いる人たちが、できる形で。一つの舞を、神と村と、次の世代へ渡すために」


宮司の目から、静かに涙が落ちた。


その夜、蒼麻と真響、そして宮司は、再び神楽殿の前へ座った。


鈴が鳴り、太鼓が響き、老人の舞が始まる。


三人は一言も交わさず、朝まで見続けた。


やがて最後の舞が終わる。


老人は舞台の中央に立ち、蒼麻を見た。


「祭りは、終わるのか」


蒼麻は頷いた。


「今までと同じ形という意味では、終わります」


老人は黙る。


「でも、終わることと、無かったことになるのは違うでしょう」


蒼麻は静かに続けた。


「あなたはここにいた。舞った。祭りもあった。村があって、人がいて、笑って、酒を飲んだ。それを全部、残します。形が変わっても、次へ渡す」


老人は長い間、蒼麻を見つめていた。


やがて、ゆっくりと面を外す。


そこには穏やかに笑う老人の顔があった。


「見たか」


「はい」


「舞を」


「見ました」


老人は満足そうに頷いた。


朝日が神楽殿へ差し込む。


光の中で老人の姿は次第に薄れ、やがて完全に消えた。


舞台の上へ、鈴が一つ落ちる。


しゃん、と小さな音がした。


それが最後だった。


静まり返った舞台を見つめながら、真響が言う。


「終わったな」


蒼麻は首を横に振った。


「いや、終わってない」


真響が目を向ける。


「形が変わっただけだ」


真響は僅かに口元を緩めた。


帰りの車の中、山道を下りながら蒼麻はぽつりと尋ねた。


「九尾なら、残したかな」


「永遠にな」


「誰も見なくても、舞わせ続ける?」


「消えはしない」


真響は静かに答える。


「それが、あれの救いだ」


蒼麻は窓の外へ目を向けた。


山々がゆっくりと遠ざかっていく。


「でも、それは寂しいな」


真響は何も言わなかった。


しばらく車を走らせた後、真響が口を開く。


「お前は、違う答えを選んだ」


「正しかったかなー」


「知らん」


「そこは褒めてくれよ。頑張ったんだから」


「自分で言うな」


蒼麻は小さく笑った。


遠ざかる水篠の集落を振り返る。


誰もいなかったわけではない。


人がいた。


舞った。


祈った。


笑った。


酒を飲んだ。


祭りがあった。


終わっても、消えない。


形を変えて、次へ渡っていく。


車は山道を静かに下っていった。


その夜、水篠の神楽殿からはもう鈴の音は聞こえなかった。

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