第七十話 九尾の夢
神狐の話を聞いた夜。
蒼麻は、なかなか眠ることができなかった。
和灯から自宅へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
風呂へ入り、水を飲み、布団へ入る。
いつもなら酒の余韻に任せて眠れる。
だが、その夜は目を閉じるたび、真響の話が浮かんだ。
病に倒れた人々。
祈りが呪いへ変わった村。
神狐へ戻ることを選んだ五柱。
自分の存在が消えることを恐れながら、それでも世界を救った妖狐たち。
そして。
世界の裏側に生まれた、白い核。
今、九尾狐と呼ばれているものの種。
蒼麻は寝返りを打った。
「……重い話を酒の席でするなよ」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
真響は今夜、和灯に残っている。
久しぶりに蓮二が珍しい酒を出したからだ。
帰ると言いながら、まだ飲んでいる可能性もある。
蒼麻は小さく息を吐いた。
やがて意識が沈んでいく。
眠りへ落ちた感覚はなかった。
だが気付いた時。
生と死の狭間とも呼べる場所、ここではない遠い場所に蒼麻は立っていた。
夜だった。
月はなく、空は暗く、星も見えない。
足元には乾いた土の道が続いている。
左右には古い家が並んでいた。
木と土で造られた家。
屋根には草が積まれている。
電灯はなく、人の声もない。
「……どこだ、ここ」
蒼麻の声だけが響く。
歩き出すとすぐに妙な匂いがした。
湿った土。そして灰。腐った水。
そして何かが腐敗する匂い。
蒼麻は足を止めた。
道の先に、人が倒れていた。
人間だった。
痩せた身体に汚れた衣。
腕には黒い斑点が浮かんでいる。
蒼麻は駆け寄った。
「おい」
肩へ触れる。
冷たい。
息をしていなかった。
その少し先にも、人がいた。
女。
老人。
子ども。
道の脇にも、家の中にも、家の中にも、井戸のそばにも。
人が倒れている。
誰も動かない。
村全体が死んでいた。
蒼麻は息を呑んだ。
知っている。
見たことはない。
だが、聞いたばかりだった。
「これは崇神天皇の時代なのか……」
真響が語った疫病。
だが。
「おかしいだろ」
世界は戻ったはずだ。
病が広がる前へ。
人々が死ぬ前へ。
村が消える前へ。
神狐が巻き戻した。
なら。
この景色は存在しない。
「そうだ」
声がした。
蒼麻は振り返る。
誰もいない。
「世界は戻った」
声は前から聞こえる。
「病は消えた」
後ろから聞こえる。
「死者は生き返った」
家の中から。井戸の底から。
道に倒れた人々の間から。
「だから」
白い光が灯った。
村の中央。小さな社の前。
何かが座っている。
純白の狐だった。
だが輪郭は曖昧だった。
光でできているようにも見える。
尾が揺れている。
一本。
二本。
三本。
数えようとすると形が崩れる。
九本あるように見えた。
だが、まだ尾ではない。
可能性。
未来を思わせる影。そういうものに見えた。
狐は蒼麻を見る。
「ここは存在しない場所だ」
声は静かだった。
男とも女とも分からない。
若くも。
老いても聞こえる。
「お前は」
蒼麻が言う。
「九尾なのか」
白い狐は答えない。
ゆっくり立ち上がる。
そして歩き始めた。
「来い」
「どこへ」
「見るのだ」
蒼麻は迷った。
だが。
ついていった。
村を歩くゆっくり歩く。
朽ちかけた一軒の家。中には女がいた。
子どもを抱いている。
女は死んでいた。
子どもも動かない。
「この女は」
白い狐が言う。
「最後まで我が子を離さなかったのだ」
景色が動く。
女が子を抱いている。
子どもは熱に苦しんでいる。呼吸が不規則になっている。
母親は歌っていた。
声はもう掠れている。
それでも歌っていた。
「大丈夫」
「お母さんがいるからね」
「怖くないからね」
刹那、子どもがゆっくり息を吐き途絶える。
母親は泣かなかった。
ただ子供を抱き締めた。
そして翌朝。
母親も我が子を守るという気力の欠如と共に死んだ。
景色が止まる。
「世界は戻った。素晴らしいことだ」
白い狐が言う。
次の瞬間。
女も。子どもも。家も消えた。何もない。
「二人は生き返った」
「なら、いいんじゃないか」
蒼麻は言った。
だが。
自分の声に自信がなかった。
白い狐は蒼麻を見る。
「では」
「この母が子を死ぬまで守ったことは?」
蒼麻は答えない。
「この子が最後まで母の声を聞いていたことは?」
沈黙。
「誰が覚えているのだ」
蒼麻は何も言えなかった。
白い狐は歩く。
次の場所。
村の外に一人の男が立っていた。
手には松明。
目の前には家。
家の中から声がする。
「開けてお願い。まだ死にたくない!」
男は震えていた。
病を広げないため。
家を焼く。
村を守るため。
中には男の妻がいた。
男は泣きながら、家族以外を守るためそれでも松明を落とした。
家が燃える。
気管を焼かれながら絶叫をあげる。
男は耳を塞ぐ。
その場から動かない。動けない
炎が消えるまで。
ずっと。
景色が止まる。
「世界は戻ったのだ」
白い狐が言う。
炎が消え家が戻る。
妻は生き返る。
男は何も覚えていない。
「これで良かっただろう?」
白い狐が聞く。
蒼麻は答えられない。
「妻は生きている」
「村も残った」
「男は罪を犯していない」
「男の壊れた心も救われた」
白い狐は男を見る。
「では」
「この男が妻を焼きながら、村を守ろうとしたことは?」
「誰が覚えているのだ?」
蒼麻は拳を握った。
「覚えてなくていいこともあるんだよ」
「なぜ?」
「そんなの苦しいだけだ」
「苦しいから」
白い狐は言う。
「無かったことにしてよいのか?」
蒼麻は黙る。
「罪も」
「愛も」
「覚悟も」
「苦しいから消してよいのか。なかったことにするのか」
答えが出ない。
白い狐はさらに歩く。
村の外れ。
小さな少女がいた。
木の根元へ座っている。
一人だった。痩せている。
身体には黒い斑点。
少女は道を見ていた。
「誰を待っているの」
思わず蒼麻が聞く。
「お父ちゃん」
白い狐が答える。
「父親は死んだ」
少女は知らない。
父が帰ってくると思っている。
ずっと。
夜になっても、朝になっても。
少女は待った。
最後まで。
「この子も戻ったのか」
蒼麻が聞く。
「戻った」
「父親も?」
「戻った」
「なら、それも」
蒼麻は言う。
「今は一緒にいる」
白い狐は頷く。
「そうだ」
「救われたんじゃないか、何が悪いんだよ」
白い狐は少女を見る。
「悪いとは言っていない」
静かな声だった。
「神狐は救ったのだろう」
「正しいことをした」
「五柱は自らを捨てた。自己犠牲の精神。それこそ尊いことだな」
白い狐はじっと真っすぐに蒼麻を見つめた。
「だから」
「消されたものは」
「存在しなかったことにされてもよいのか」
蒼麻は言葉を失った。
白い狐は少女へ近付く。
白い尾が少女を包む。
少女はまだ父を待っている。
「この子は確かに待った」
「母は確かに我が子を抱き続けた」
「男は確かに他人を守るため、この世で最も愛する妻を焼いた」
「人は確かに泣いた」
九尾の声が徐々に反響音のように響き渡る。
「祈った」
「憎んだ」
「愛した」
「死んだ」
白い狐の声が響く。
「世界が戻ったからといって」
「それらは」
「最初から無かったのか」
蒼麻は答えられない。
「誰も覚えていない」
白い狐は言う。
「神狐は戻した」
「人は忘れた」
「五柱は恐れた」
「そして」
白い尾が揺れる。
「私だけが残った」
蒼麻は九尾を見る。目を背けられない
「お前が覚えているのか」
「そうだ」
「全部?」
「すべてだ」
白い狐の周囲に景色が浮かぶ。
死んだ人々。
消えた村。
燃えた家。
叶わなかった願い。
生まれなかった未来。
選ばれなかった道。
無かったことにされた世界。
無数の記憶。
「私は忘れない」
九尾は言った。
「誰もいなかったことにはさせない」
その言葉は正しかった。
少なくとも蒼麻には。
間違いだとは言えなかった。
「忘れることは救いだ」
蒼麻は言う。
「そうかもしれない」
「覚えていたら生きられないこともある」
「そうだ」
九尾は否定しない。
「なら」
「なぜ全部残す」
九尾は少し考えた。
「忘れることを選ぶのと、強制的に忘れさせられることは、同じではない」
蒼麻は顔を上げる。
「神狐は」
九尾が言う。
「誰にも聞かなかった」
「世界を戻してよいか」
「死んだ者へ」
「その死を消してよいか」
「愛した者へ」
「その愛を無かったことにしてよいか」
「罪を犯した者へ」
「その罪を消してよいか」
静かな声だった。
怒っていない。
責めてもいない。
ただ。
事実を言っている。
「それは、みんなを救うためじゃないか」
蒼麻は言う。
「知っている」
「他に方法がなかった」
「知っている」
「なら」
九尾は蒼麻を見る。そしてゆっくりと訊ねる。
「正しい者が」
「正しい理由で」
「誰かの存在を消したなら」
「消された者は」
「黙って受け入れなければならないのか」
蒼麻は答えられなかった。
九尾は近付く。
純白の顔。
静かな瞳。
「神狐は世界を救った」
「私は」
白い尾が広がる。
「救われた世界が捨てたものを守る」
それは。
悪ではなかった。
むしろ。
必要なことに思えた。
「だから記憶を縫い止めるのか」
蒼麻が聞く。
「そうだ」
「消えないように」
「そうだ」
「未来を束ねるのも?」
九尾は少し黙った。
「未来は」
「ひとつ選ばれるたびに他は消える」
無数の景色が浮かぶ。
右へ進んだ未来。
左へ進んだ未来。
出会った未来。
出会わなかった未来。
生きた未来。
死んだ未来。
「一つを選べば」
「他は消える」
「それは普通だろ」
「普通なら」
九尾は聞く。
「消えたものは、存在しなかったのか」
蒼麻は眉を寄せる。
「全部残すなんて無理だ」
「なぜ」
「それでは世界が進まない」
「なら」
九尾の尾が静かに揺れる。
「失われない未来を選べばよい」
蒼麻は黙った。
「誰も死なない」
「誰も忘れられない」
「誰も置いていかれない」
「正しい未来を」
「一つだけだ」
白い狐は穏やかに言った。
「残せばよい」
その言葉に。
蒼麻は初めて。
小さな違和感を覚えた。
正しい。
優しい。
誰も失わない。
だが。
「それは一体誰が決めるんだ」
蒼麻は聞いた。
九尾は答えない。
「正しい未来を誰が決めるんだ」
長い沈黙。
白い狐は。
静かに笑った。
「お前は。そこを聞くのだな」
「当たり前だろ」
「だから」
九尾は蒼麻へ近付く。
「お前に見せたのだ」
白い尾が。
蒼麻の胸へ触れた。
焼けるような熱さ。
胸の奥に強く九尾の欠片が脈打つ。
「お前なら」
九尾は言う。
「何を残す」
「何を捨てる」
「誰を救う」
「誰を忘れる」
蒼麻は答えない。
「選べ」
その言葉に。
聞き覚えがあった。
真響も言った。
いつかそれを選べ。
だが。
同じ言葉なのに意味が違う。
真響は蒼麻へ選ばせる。
九尾は正しい答えへ導こうとしている。
「お前は」
九尾が言う。
「私に近い」
「どこが」
「消されたものを見る」
「忘れられたものを拾う」
「人を数字にしない」
蒼麻は息を呑む。
「お前は」
「誰もいなかったことにはしたくない」
白い尾が。
蒼麻を包む。
温かい。
不思議なほど。
「お前も」
九尾が囁く。
「忘れられたくないだろう」
その瞬間。
鏡に映ったもののように景色が崩れた。
村が消える。
人が消える。
九尾が消える。
白い糸だけが残る。
蒼麻は目を覚ました。
朝だった。
窓から光が差している。
身体が重い。
胸が熱い。
夢か。
そう思った。
だが。
右手に。
白い糸が絡んでいた。
細い。
光る糸。
蒼麻は息を呑む。
瞬きをした。
糸はゆっくり消えた。
「起きたか」
声がした。
部屋の隅。
真響がいた。
壁にもたれ。
腕を組んでいる。
「何でいる」
「来た」
「いつ」
「少し前」
真響は蒼麻を見る。
「夢を見たな」
蒼麻は答えなかった。
真響は問い詰めない。
ただ。
静かに言った。
「九尾の言葉を信じるな」
蒼麻は手を見る。
白い糸はない。
だが。
感触は残っている。
「嘘には」
蒼麻は言った。
「聞こえなかった」
真響は黙った。
長い沈黙。
そして。
「そうだ」
真響は答えた。
「九尾は」
「嘘を言わないだろう」
蒼麻は顔を上げる。
「だから」
真響の瞳は。
少しだけ悲しそうだった。
「厄介なのだ」
朝の光が部屋へ入る。
世界は。
今日も続いている。
人は生きる。
選ぶ。
忘れる。
そして。
忘れられる。
蒼麻は。
もう一度。
自分の手を見た。
誰も。
いなかったことにはされたくない。
それは九尾の言う通りだった。




