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第六十九話 巻き戻しの代償

神狐が目を開いた瞬間、世界から音が消えた。


風の音も、川の音も、人の泣き声も、病に苦しむ者の呻きも、炎が家を焼く音も、すべてが遠くへ引いていった。そこに立っていたのは、黒狐でも白狐でも朱狐でも蒼狐でも黄狐でもなかった。


かつて太古の循環を司っていた、ただ一つの狐。


神狐だった。


その姿を見た者はいない。


見たとしても、記憶には残らなかっただろう。


神狐は巨大だったとも、小さかったとも言える。白くもあり、黒くもあり、炎のようでもあり、水のようでもあり、土のようでもあった。五つの色が互いを溶かし合い、世界の始まりと終わりを同時に宿しているような姿だった。


神狐は人の世を見た。


病が広がっていた。


村が消えていた。


祈りが呪いへ変わっていた。


人が人を恐れ、人が人を殺し、土地そのものが歪み始めていた。


それは、ただの疫病ではなかった。


世界の循環が壊れかけていた。


神狐は祓わなかった。


焼かなかった。


切らなかった。


受け止めることも、慰めることもしなかった。


ただ、見た。


この世界が、どこで歪み始めたのか。


どの願いが悲鳴へ変わり、どの悲鳴が呪いへ変わり、どの呪いが土地へ染み込んだのか。


それを辿った。


そして神狐は、世界そのものへ爪を立てた。


爪は空間を裂かなかった。


時間を裂いた。


人が死ぬ前へ。


村が焼かれる前へ。


祈りが呪いへ変わる前へ。


病が川を越える前へ。


最初の黒い斑点が、まだ一人の男の肌へ浮かぶ前へ。


世界は悲鳴を上げた。


戻されることを拒んだのではない。


世界は覚えていたのだ。


死んだ者の痛みを。


殺した者の恐怖を。


奪われた者の絶望を。


祈っても届かなかった声を。


神狐はそれらをすべて背負い、時間を押し戻した。


村の外に積まれた遺体が消えていく。焼け落ちた家が元へ戻り、灰になった柱が再び木へ戻り、土に染み込んだ血が消える。病に濁った川は清くなり、腐敗の匂いは風の中から失われた。母の腕の中で息絶えた子は再び泣き声を上げ、山へ入って死んだ老人は、まだ家の縁側で朝日を眺めていた。


巻き戻した歴史では崇神は大直禰子(おおた たねこ)という大物主の子、もしくは子孫に祀らせる事によって疫病を回避した。


人々は何も知らない。


自分たちが一度死んだことも、祈りが呪いへ変わったことも、誰かを殺したことも、誰かに殺されたことも、すべて忘れている。


世界は戻った。


神狐はそれを成した。


けれど、それは救いと呼ぶにはあまりに暴力的な奇跡だった。


戻された時間の奥で、消された未来が軋んでいた。

なかったことにされた死が、なかったことにされた悲鳴が、

なかったことにされた罪が、世界の裏側へ押し込められていく。


それでも神狐は止めなかった。


止めれば、すべてが崩れる。


戻すと決めた以上、最後まで戻すしかなかった。


やがて世界が静まり返った時、神狐の身体にひびが入った。


五つの色が、再び分かれ始める。


黒。


白。


朱。


蒼。


黄。


それぞれの光が、神狐の中から引き剥がされるように現れた。


その瞬間、五柱は初めて知った。


戻ることよりも、分かれることの方が苦しいのだと。


真響は闇の中で目を開けた。


自分が何者なのか分からなかった。


黒狐。


その名はある。


けれど、名の輪郭がぼやけている。


胸の奥には、無数の死者の声が沈んでいた。


救ったはずの者たちの悲鳴。


もう存在しないはずの絶望。


神狐として見た世界の終わり。


それらが、黒い酒の澱のように身体の奥へ残っている。


真響は立ち上がろうとして、膝をついた。


身体が重い。


自分のものではないようだった。


少し離れた場所で、深宵が座り込んでいた。


黄狐は両手で胸を押さえ、息を整えようとしている。彼女の周囲には、叶わなかった願いの残響がまだ漂っていた。もう救われたはずの人々の願い。世界が戻ったことで消えたはずの祈り。それでも、深宵の中には残っていた。


「……私」


深宵は小さく呟いた。


「私は、誰の願いを受け止めていたの」


声が震えていた。


答えられる者はいなかった。


雫瑠は刀を握ろうとしていた。


だが指に力が入らず動かない。


白狐の手は震えていた。


神狐だった間、彼女は終わりと始まりの境を見た。切るべきものと、切ってはいけなかったもの。そのすべてが一つの流れの中に混ざっていた。


刀を握れば、また何かを終わらせてしまう気がした。


だから雫瑠は刀を見つめたまま、動けなかった。


紅沙は声を上げなかった。


いつもなら笑う。


怒る。挑発する。火を灯す。


けれどその時の紅沙は、自分の指先に宿る火を見つめていた。


炎が小さい。


あれほど燃えていたはずの情熱が、今は灰の下で燻っているだけだった。


「……嫌」


紅沙がようやく言った。


「今、私、私じゃなかった」


その声は幼く聞こえた。


「全部分かった気がした。全部どうでもよくなった気がした。私が紅沙だってことも、怒ってたことも、笑ってたことも、何もかも」


紅沙は唇を噛む。


「こんなの、二度と嫌よ」


翠霞は川のほとりにいた。


水は清く流れている。


病を運んでいた水ではない。


何もなかったかのように、春の川はただ穏やかだった。


翠霞はその流れを見つめ、両腕で自分の身体を抱いていた。


「流れた」


そう呟く。


「全部、流したのね」


世界は巡り直した。


けれど翠霞の中には、流してはいけなかったものまで流した感覚が残っていた。


死も、悲鳴も、後悔も、罪も。


すべてがなかったことになった。


それは確かに救いだった。


けれど、失われたものを誰も覚えていないことが、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。


五柱はしばらく動けなかった。


互いに近付くことさえできなかった。


少しでも近付けば、また神狐へ戻ってしまいそうだった。


名前が溶ける。


記憶が混ざる。


自分の輪郭が消える。


その恐怖が、五柱の間に深い溝を作った。


やがて紅沙が、掠れた声で言った。


「……黒」


真響は顔を上げる。


「覚えてる?」


何を、と聞くことはできなかった。


紅沙が言っているのは、あの約束のことだ。


戻れたら、また酒を飲もう。


人がまだ生きている場所で。


真響は答えようとした。


だがすぐには言葉が出なかった。


覚えている。


確かに覚えている。


けれど、それが自分の記憶なのか、神狐の中に残った残響なのか分からなかった。


「……覚えている」


ようやくそう言うと、紅沙は泣きそうな顔で笑った。


「それならいいわ」


深宵が静かに泣いていた。


翠霞は遠くを見ていた。


雫瑠は刀から手を離したまま、目を閉じていた。


世界は救われた。


だが五柱は、自分たちの中に取り返しのつかない傷が残ったことを知っていた。


その時だった。


真響だけが、何かを感じた。


世界の裏側。


巻き戻された時間の底。


そこに、小さな澱みが生まれている。


最初は一点だった。


光とも闇ともつかない、白い核。


真響はそれから目を離せなかった。


世界が戻る時、戻りきれなかったものがある。


消された未来。


なかったことにされた死。


叫ぶことさえ許されなかった者たちの声。


救われたはずなのに、救われなかった記憶。


それらが、世界の裏側で寄り集まっていた。


核は小さく脈打っている。


まるで心臓のように。


まだ形はない。


尾もない。


名もない。


けれど真響には分かった。


これは、神狐が世界を戻したことで生まれた影だ。


循環から弾き出されたもの。


巻き戻しの代償。


無かったことにされたものたちの器。


「……誰」


真響は思わず呟いた。


核は答えない。


ただ、こちらを見ている気がした。


目などないはずなのに。


その白い核の奥に、九つの影が揺れた。


未来のように。


尾のように。


まだ生まれていない何かの予兆のように。


真響は息を呑む。


その瞬間、核は世界の裏側へ沈んだ。


消えたわけではない。


隠れたのだ。


誰にも知られぬ場所へ。


だが真響には、その気配が残った。


冷たく、白く、ひどく静かな気配。


世界は救われた。


人々は何も知らないまま朝を迎えた。


田へ出る者がいた。


子を抱いて笑う母がいた。


社へ酒を供える者がいた。


疫病の記憶は、人の世から消えていた。


けれど五柱は覚えていた。


少なくとも、断片だけは。


特に真響は覚えていた。


神狐へ戻った感覚。


自分という名が溶けていく恐怖。


世界を巻き戻した時の重さ。


そして、白い核が生まれた瞬間を。


やがて五柱は、互いに距離を取るようになった。


誰が言い出したわけではない。


自然とそうなった。


近付けば、あの感覚が蘇る。


自分が自分でなくなる恐怖が。


それでも、完全に離れることもできなかった。


同じ存在から分かれたものとして、互いを失うこともまた耐え難かった。


だから五柱は、姉妹のようでありながら、決して同じ場所に長く留まらない関係になった。


助け合い、反発し、時に酒を交わし、時に姿を消す。


それが、彼女たちの選んだ距離だった。



真響の語りが途切れた。


和灯には、営業後の静けさが戻っていた。


蓮二はいつの間にか片付けの手を止め、厨房の奥で黙って聞いていた。蒼麻も何も言えなかった。


盃の中の酒は、もうすっかり冷めている。


「それが、九尾狐の始まりか」


ようやく蒼麻が言うと、真響は静かに頷いた。


「始まりに過ぎない」


「最初から敵だったわけじゃないんだな」


「違う」


真響の声は低かった。


「九尾は、神狐の影だ。巻き戻された世界が生んだ、もう一つの記憶。おそらくあれは最初からあのような思想だったわけではない」


蒼麻は胸の奥が重くなるのを感じた。


九尾狐。


これまで敵のように語られてきた存在。


だがその核は、世界を救った奇跡の代償として生まれた。


救われなかった記憶の器として。


「だから、憎み切れないのか」


蒼麻が呟く。


真響は答えなかった。


代わりに、冷めた酒を一口飲んだ。


「憎み切れないことと、止めなくていいことは違う」


その言葉は静かだったが、鋭かった。


「九尾は育った。意思を持った。力を得た。そして、私たちへ手を伸ばした」


「神狐へ戻すために?」


「それもある」


真響は盃を置く。


「だが、九尾は私たちとは違うものを見ている」


「何を?」


「巻き戻されなかった未来だ」


蒼麻は言葉を失った。


真響は続ける。


「神狐は世界を戻した。九尾は、戻されなかったものを覚えている。消された未来を、無かったことにされた痛みを、縫い止めようとする」


それは、神狐とは正反対の力だった。


巡らせるのではなく、留める。


戻すのではなく、確定させる。


流れる未来を一つへ束ねる。


記憶を縫い止め、望む形へ収束させる力。


蒼麻は自分の胸に手を当てた。


そこにある九尾の欠片が、ほんの僅かに熱を持った気がした。


真響はそれに気付いていた。


だが何も言わなかった。


しばらくして、蒼麻が小さく息を吐く。


「重い話だったな」


「軽い話ではない」


「だよな」


「だが、聞く必要はあった」


蒼麻は真響を見る。


「俺が?」


「そうだ」


真響の瞳は静かだった。


「お前は、いずれ九尾をただの敵として見られなくなる」


蒼麻は黙る。


「その時に迷う」


「迷ったら?」


真響は少しだけ目を細めた。


「選べ」


短い言葉だった。


だがそれは、突き放す言葉ではなかった。


真響は蒼麻が選ぶ日を、すでに見ているのかもしれない。


そしてその日まで、隣にいるつもりなのかもしれない。


蒼麻は盃を手に取り、冷めた酒を飲み干した。


「分かった」


「軽いな」


真響はほんの少しだけ笑った。


その笑みに、蒼麻もようやく肩の力を抜く。


神狐の神話は終わった。


けれど、それは過去ではない。


五柱の距離にも、真響の警戒にも、九尾の存在にも、そして蒼麻自身の中にも、今なお続いている。


和灯の外では、夜風が静かに吹いていた。


その風の向こうで、なにががこちらを見ているような感覚があるのだった。

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