第六十八話 五つの名を捨てる夜
後に崇神天皇の御代と呼ばれる時代。
国はまだ、一つの形を得ようとしていた。
山を越えれば異なる神が祀られ、川を渡れば異なる言葉が使われる。人々は小さな集落を作り、田を耕し、狩りをし、季節の恵みを受けながら暮らしていた。
神は遠い存在ではなかった。
山には山の神がいた。
川には川の神がいた。
火にも、水にも、風にも、稲にも神が宿っていた。
人は朝に祈り、夜に祈った。
子が生まれれば神へ感謝し、人が死ねば魂が迷わぬよう酒を供えた。
だがある年、祈りに答えるものがいなくなった。
始まりは、小さな集落だった。
一人の男が熱を出した。
激しく咳き込み、身体には黒い斑点が浮かんだ。
翌朝には、その妻が倒れた。
数日後には、家族全員が死んだ。
村人たちは病を恐れ、その家を焼いた。
炎は夜空を赤く染めた。
これで終わる。
そう思った。
だが終わらなかった。
病は隣の家へ移った。
次の村へ。
川を越え。
山を越え。
人の歩く道を辿るように広がっていった。
熱、咳、痛み、黒い斑点。
人は次々に倒れた。
昨日まで田を耕していた者が、翌朝には動かなくなった。
子を抱いた母が道端で倒れ、その腕の中で子も息を引き取った。
老人は家族へ病を移さぬよう、一人で山へ入った。
そして誰にも看取られず、木の根元で静かに死んだ。
埋葬する者も足りなくなった。
村の外には遺体が積まれた。
土を掘る力さえ残っていない。
火を焚こうにも薪が足りない。
腐敗した匂いが風に乗り、次の村へ流れていった。
人々は神へ祈った。
社へ集まった。
米を供えた。
酒を供えた。
家畜を捧げた。
それでも病は止まらない。
やがて人は、もっと大きなものを捧げ始めた。
自分の指を切り、血を流す者。
髪を切る者。
生まれたばかりの子を神へ差し出そうとする者。
「助けてください」
「この子だけは」
「私の命を代わりに」
「どうして答えてくださらないのですか」
願いは悲鳴へ変わった。
悲鳴は怒りへ変わった。
そして怒りは、神への呪いへ変わった。
「神などいない」
「祈っても意味がない」
「なぜ私たちだけが死ぬ」
「隣の村が病を運んだ」
「よそ者を殺せ」
人は人を疑った。
病に罹っていない者まで村から追い出された。
旅人は道で殺された。
病を運ぶと恐れられた。
家族さえ互いを恐れた。
母は熱を出した子を抱くことをためらった。
父は病に倒れた妻を家へ閉じ込めた。
人は生きるために、人であることを失い始めていた。
その頃。
五柱は、それぞれ別の場所で人の世を見ていた。
黒狐は、人の痛みを抱えた。
夜。
真響は死者の積まれた村を歩いていた。
泣く者の隣へ座った。
家族を失った者。
生き残ったことを悔やむ者。
死にたいと願う者。
その全ての声を聞いた。
真響は、村外れの木へ縄を掛けようとしていた男の前に立った。男は妻と三人の子を病で失い、自分だけが生き残ったことを責め続けていた。
「なぜ、俺だけが」
その問いに答えることはできなかった。
真響は男の胸へ手を当てた。
悲しみは消えなかった。家族の顔も、最後の声も、何一つ失われなかった。
ただ、一人では抱えきれなかった痛みの一部が、黒狐の内へ流れ込んだ。
男はその場へ膝をついた。
そして初めて、泣いた。
翌朝、男は縄を捨て、生き残った村の子どもたちへ水を運んだ。
「一人では抱えきれない悲しみを、私が一緒に持とう」
真響は言った。
人の悲しみを受け取った。
後悔を受け取った。
罪を受け取った。
憎しみを受け取った。
だが。
多すぎた。
一つ受け取るたび、別の場所で十の悲しみが生まれた。
百の痛みを抱えれば、千の叫びが届いた。
黒い毛並みは重くなった。
歩くたび、足元へ人の記憶が絡み付いた。
それでも真響は歩いた。
見捨てることができなかった。
黄狐は、願いを受け止めた。
深宵は社の前に座っていた。
人々は彼女の姿を見ることができない。
ただ祈り続けた。
「子を助けて」
「夫を返して」
「病を止めて」
深宵は全てを聞いた。
「大丈夫」
「ここにいるわ」
「泣いていいのよ」
だが願いは叶わない。
抱き締めても病は消えない。
寄り添っても死者は戻らない。
深宵の周りには、叶わなかった願いが積み重なっていった。
黄色い光は次第に濁った。
それでも深宵は離れなかった。
誰もいなくなった社で、一人、祈りを受け止め続けた。
白狐は、病の縁を断とうとした。
雫瑠は刀を抜いた。
病には流れがある。
人から人へ。
村から村へ。
その縁を切れば、病は止まる。
そう考えた。
白い刃が夜を走る。
一つの縁を切った。
病は止まった。
だが。
その縁で繋がっていた命も消えた。
病だけを切ることはできなかった。
病もまた、人の命へ入り込んでいた。
雫瑠は刀を握ったまま立ち尽くした。
切れば救える。
だが切れば死ぬ。
切らなければ病が広がる。
白狐は初めて、自分の刃に無力を感じた。
朱狐は、人の命へ火を灯した。
紅沙は倒れた人々の中を駆けた。
「立ちなさい」
「まだ終わっていない」
「生きたいなら燃えなさい」
弱った心へ火を灯す。
諦めかけた者が立ち上がる。
母は子を抱いた。
男たちは村を守ろうとした。
人々はもう一度、生きようとした。
だが。
火は強くなりすぎた。
生きたい。
死にたくない。
奪われたくない。
その願いは怒りへ変わった。
人は病人を焼いた。
よそ者を殺した。
隣の村から食料を奪った。
紅沙が灯した火は、人を生かした。
同時に、人を争わせた。
「違う」
紅沙は呟いた。
「私は、こんな火を灯したかったんじゃない」
だが炎は止まらなかった。
蒼狐は、流れを巡らせた。
翠霞は山を越え、川を走った。
淀んだ水を動かした。
腐った空気を流した。
病に覆われた土地へ、新しい風を運んだ。
川は再び流れた。
大地へ水が戻った。
だが。
流れは病も運んだ。
一つの村を救えば、その水が次の村へ病を運んだ。
風を起こせば、病はさらに遠くへ広がった。
止めれば水が腐る。
流せば病が広がる。
翠霞は川の中で立ち尽くした。
「巡らない」
何度流しても。
どこへ運んでも。
病しかない。
世界そのものが、行き止まりになっていた。
五柱は救おうとした。
誰も諦めなかった。
だが。
何をしても届かなかった。
人は死に続けた。
村は消え続けた。
祈りは呪いへ変わり続けた。
やがて五柱は、一つの場所へ集まった。
かつて神狐が五つへ分かれた山。
人がまだ名を付けていない、古い森だった。
黒。
白。
朱。
蒼。
黄。
五柱が同じ場所に立つ。
それだけで世界が揺れた。
風が止まった。
木々が頭を垂れた。
大地の奥で、何かが目を覚ました。
五柱の身体が淡く光り始める。
互いへ引かれている。
元の姿へ。
神狐へ。
翠霞が最初に距離を取った。
「近過ぎる」
誰も否定しなかった。
真響は木の根元へ座った。
その黒い毛には、人の悲しみが絡み付いていた。
深宵は俯いている。
黄色い光は濁り、無数の願いが彼女の周囲を漂っていた。
雫瑠は刀を抱えていた。
刃には病と共に切った命の記憶が残っている。
紅沙は自分の手を見つめていた。
その指先には、人を生かし、人を殺した炎が揺れている。
誰も話さなかった。
長い沈黙が続いた。
やがて紅沙が言った。
「もう全てを焼き払えばいい」
誰も驚かなかった。
「病も」
「死体も」
「歪んだ祈りも」
「全部」
炎が揺れる。
「一度燃やしてしまえば、新しいものが生まれる」
雫瑠が静かに答えた。
「それでは残っている者も死ぬ」
「このままでも死ぬわ」
「だから殺すのか」
「見てきたでしょう」
紅沙の声が強くなる。
「人はもう互いに人を殺している」
「病人を焼いて」
「食べ物を奪って」
「子どもまで捨てて」
「このまま何を守るの」
深宵が顔を上げた。
「それでも」
声は震えていた。
「まだ終わらせたくない」
紅沙を見る。
「泣いている人がいる。助けてと願っている人がいる。まだ生きたい人がいる」
「だから何?」
紅沙が言う。
「全部救えるの?」
深宵は答えられなかった。
雫瑠が刀を地面へ置いた。
「切れば終わる」
全員が雫瑠を見る。
「病の縁を全て切る」
「それで止まる」
翠霞が首を横に振った。
「人も死ぬ」
「分かっている」
「どれくらい?」
「分からない」
「半分?」
雫瑠は答えない。
「全部かもしれない」
その声は静かだった。
「それでも、病は終わる」
深宵が涙を流した。
「そんなの、救ったことにならない」
「ではどうする」
雫瑠が聞く。
誰も答えられない。
翠霞は森の外へ目を向けた。
遠くに川がある。
その水も病を運んでいる。
「巡らない」
翠霞が呟く。
「どこへ流しても病がある」
「どこへ逃がしても死がある」
「世界が止まっている」
真響は黙っていた。
四柱の声を聞いていた。
焼く。
切る。
抱く。
流す。
どれも間違っていない。
しかし決め手がどれも足りない。
やがて真響が口を開いた。
「戻るしかない」
森が静かになった。
誰も動かなかった。
その言葉の意味を、全員が理解していた。
神狐へ戻る。
五柱が一つになる。
太古の循環そのものへ。
神狐なら。
世界を救えるかもしれない。
だが。
「嫌よ」
紅沙が言った。
即答だった。
「私は戻らない」
炎が大きく揺れた。
「私は私よ」
「もう神狐じゃない」
「紅沙なの」
その名は、長い年月をかけて得たものだった。
人と出会い。
笑い。
怒り。
愛し。
そうして生まれた自分。
神狐へ戻れば、それは消えるかもしれない。
深宵は涙を拭かなかった。
「戻ったら」
小さな声だった。
「私たちは、どうなるの」
誰も答えられない。
「また分かれられる?」
「分からない」
真響が答えた。
「今のまま戻れる?」
「分からない」
「私が私だったことを覚えていられる?」
真響は答えられなかった。
深宵は俯いた。
「怖い」
初めて言った。
神でも。
妖でも。
五柱でもなく。
一人の存在として。
「消えたくない」
翠霞は両腕で自分を抱いた。
風が止まっている。
「私も怖い」
いつも流れを止めない翠霞が、その時だけは動けなかった。
「まだ見たい季節がある」
「行きたい場所がある」
「知らない川もある」
「ここで終わりたくない」
雫瑠は地面へ置いた刀を見つめた。
長い沈黙の後。
刀から手を離した。
「それでも」
全員が雫瑠を見る。
「守る」
白狐の声は震えていなかった。
「私たちは、そのために分かれた」
「世界がなくなれば」
「私たちが私たちでいる意味もないのではないのか」
紅沙が睨む。
「簡単に言わないで」
「簡単ではないさ」
雫瑠は静かに答えた。
「私も怖いからな」
その一言で、紅沙は何も言えなくなった。
真響は四柱を見た。
紅沙。
深宵。
翠霞。
雫瑠。
長い時間を共に過ごした。
姉妹ではない。
だが姉妹のようだった。
助け合った。
争った。
笑った。
離れた。
それでも。
いつも互いがいた。
「私は」
真響が言う。
声が出なかった。
もう一度。
「私は」
黒狐は、人の痛みを抱えられる。
罪も。
後悔も。
悲しみも。
だが。
自分の恐怖を口にすることはできなかった。
長い沈黙。
そして。
「皆を忘れたくない」
それしか言えなかった。
深宵が目を閉じた。
紅沙は顔を背けた。
翠霞は空を見上げた。
雫瑠は静かに頷いた。
五柱は知っていた。
他に道はない。
人の世は壊れようとしている。
病だけではない。
祈りが呪いへ変わっている。
人が人を殺している。
土地が歪んでいる。
このままでは。
世界そのものが戻れなくなる。
五柱は輪になった。
誰も触れなかった。
触れれば始まる。
神狐へ戻る。
その前に。
紅沙が言った。
「もし戻れたら」
誰も答えない。
「また酒を飲みましょう」
深宵が泣きながら笑った。
「飲めるかしら」
「飲むのよ」
「どこで?」
「知らない」
紅沙は笑った。
「人がまだ生きている場所で」
翠霞も少し笑った。
「なら、川の近くがいいな」
雫瑠が言う。
「わたしは静かな場所がいい」
真響は四柱を見た。
「覚えていればな」
紅沙が睨んだ。
「覚えてなさいよ」
「努力はする」
「絶対よ」
真響も少しだけ笑った。
五柱は目を閉じた。
黒。
白。
朱。
蒼。
黄。
五つの光が灯る。
大地が震えた。
空が割れた。
川が止まった。
世界が息を止めた。
五柱の身体が光へ変わる。
名前が薄れていく。
記憶が溶けていく。
真響。
雫瑠。
紅沙。
翠霞。
深宵。
五つの名が。
一つの光へ戻っていく。
最後に。
誰かが言った。
「忘れないで」
誰の声だったのか。
もう分からなかった。
そして。
神狐は。
再び目を開いた。




