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第六十七話 神狐は夢を見る

和灯で四つの狐火が揺れた夜から、数日が過ぎていた。


黒。


白。


黄。


朱。


それぞれ異なる色を持ちながら、ほんの一瞬だけ同じ高さで揺れた狐火。


あの夜、そこに翠色はなかった。


翠霞は来られなかったのではない。


来ないことを選んだ。


五柱が同じ場所へ集まり、長く時を過ごせば、かつて一つだったものへ近付いていく。


神狐。


その名を聞いてから、蒼麻の中には一つの疑問が残り続けていた。


五柱が一つになると神狐へ戻る。


ならば、神狐とは何なのか。


五柱よりも前から存在していた神なのか。


それとも、五柱が力を合わせた時にだけ現れる、別の何かなのか。


考えても答えは出なかった。


数日後。


和灯の営業が終わり、最後の客が店を出た後のことだった。


蓮二は厨房で片付けを続けている。


店内には出汁と炭火の香りが微かに残り、カウンターの上では小さな徳利から細い湯気が立っていた。


蒼麻は盃を指先で回しながら、隣に座る真響を見た。


真響(まゆら)は何も言わず、燗酒を口へ運んでいる。


いつもと変わらない。


黒い髪。


静かな瞳。


ほとんど表情を変えない横顔。


だが、あの夜に見た真響は少しだけ違っていた。


深宵(みよい)


雫瑠(しずる)


紅沙(くれさ)


三柱と同じ場所にいた真響は、普段よりも僅かに遠く見えた。


四柱が並んでいるのに、一人でいる時より孤独に見えた。


「なあ、真響」


蒼麻が声を掛ける。


「何だ」


「前から気になってたんだけど」


「お前の『前から』は、大抵数日前だな」


「細かいことはいいだろ」


真響は盃を置いた。


「何を聞きたい」


蒼麻は少し考えた。


そして、ずっと胸に残っていた疑問を口にする。


「お前たちは、最初から五人だったのか」


真響の指が止まった。


ほんの僅かだった。


だが蒼麻は見逃さなかった。


厨房から聞こえていた水音も止まる。


蓮二も聞いているのだろう。


しばらくして、真響は盃の中へ視線を落とした。


「違う」


短い答えだった。


「じゃあ、神狐が先にいたのか」


「そうだ」


「神狐がいて、そこから五柱が生まれた?」


真響はすぐには答えなかった。


燗酒の表面が、店の灯りを映して揺れている。


「少し違う」


「違う?」


「私たちは、神狐から生まれたのではない」


真響は静かに顔を上げた。


「私たちが、神狐だった」


蒼麻は黙った。


その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


真響は店の奥に残る暗がりへ視線を向ける。


まるで、そこに遠い昔の景色が見えているかのように。


「神狐がいつから存在していたのか、私にも分からない」


それは、人が時を数え始めるよりも前。


国に名が付くよりも前。


神と怪異が、まだ別のものとして分けられていなかった頃。


山は神だった。


川も神だった。


雷は天の怒りであり、風は何者かの声だった。


人は朝日へ頭を下げ、雨に感謝し、夜の闇を恐れた。


生きることと祈ることの間に、まだ境はなかった。


その時代に、神狐はいた。


どこか一つの山に住んでいたわけではない。


(やしろ)もなかった。


名もなかった。


姿さえ、今の狐と同じだったかは分からない。


春に雪が溶け、山から水が流れる。


夏に草木が茂り、命が増える。


秋に果実や実が成り、人が恵みを受け取る。


冬に大地が眠り、次の春を待つ。


そして命が生まれる。


生命は育ち、老いる。


そしてやがて死ぬ。


その命はまた土へ戻り、新しい命を育てる。


神狐は、その全ての流れにいた。


何かを生み出す神ではない。


何かを滅ぼす神でもない。


始まりと終わり。


生と死。


実りと衰え。


人と土地。


願いと祈り。


それらが滞ることなく、次へ巡っていくよう見守る存在。


太古の循環そのものだった。


「神狐は、人を守っていたのか」


蒼麻が尋ねる。


真響は少し考えた。


「今の人間が考える意味では、守っていなかった」


「どういうことだ?」


「雨が降れば、田は潤う。だが川が溢れれば、人は死ぬ」


真響は淡々と続ける。


「火は人を温める。だが山を焼くこともある。冬は命を休ませる。だが寒さに耐えられぬ者もいる」


神狐は、人だけを選んで救う存在ではなかった。


人も獣も。


草木も山も。


川も大地も。


生まれるものも、失われるものも。


全てを同じ循環の中に置いていた。


人にとって慈悲に見える時もあれば、残酷に見える時もあった。


だが神狐は裁かなかった。


拒まなかった。それは自然そのものと言えるかもしれない。


ただ受け取り、流し、巡らせた。


やがて、人は神狐の存在を感じ始めた。


姿を見た者はいない。


それでも、山で道に迷った者が白い尾を見た。


干ばつの年に、夜の田を歩く狐火を見た。


子を失った母が泣き疲れて眠った夜、夢の中で大きな狐に抱かれた。


人はそれを神と呼んだ。


ある者は山の主と呼び、ある者は実りを運ぶ狐と呼んだ。


だが神狐自身には、名など必要なかった。


人々の願いも、初めは小さなものだった。


雨が降りますように。


木の実がたくさん実りますように。


子が無事に生まれますように。


家族が冬を越せますように。


狩りへ出た者が獲物を仕留めて帰りますように。


願いは暮らしの中にあった。


自分だけが満たされたいのではない。


明日も生きたい。


大切な者と、次の季節を迎えたい。


神狐はその願いを受け止めた。


叶えるのではない。


願いを土地へ返した。


人が雨を願えば、その思いを雲へ。


実りを願えば、大地へ。


命を願えば、巡る季節へ。


願いは流れの一部となり、やがて別の形で人のもとへ戻った。


長い時間が流れた。


そして人は増えた。


小さな集落は村となり、やがて村は国となった。


田は広がり、道が生まれ、人は遠くの土地と行き来するようになった。


暮らしは豊かになった。


そして、願いも変わった。


もっと食べ物が欲しい。


もっと土地が欲しい。


隣の村より豊かになりたい。


隣国に勝ちたい。


奪われたくない。


愛されたい。


忘れられたくない。


死にたくない。


永遠に生きたい。


人の願いは、次第に循環を拒むようになった。


得たものを手放したくない。


終わるべきものを終わらせたくない。


自分の幸せだけを残し、他の誰かへ痛みを押し付けたい。


願いは祈りから欲へ変わり、欲は執着へ変わった。


それでも神狐は拒まなかった。


雨を願う声も。


誰かの死を願う声も。


生まれたいという願いも。


死にたくないという願いも。


全てを受け止めた。


だが、願いは増え続けた。


一つの心の中で、異なる答えが生まれ始める。


――それでも受け止めるべきだ。


――大切なものは残さなければならない。


――腐った願いは燃やしてしまえばいい。


――留めるから苦しくなる。次へ流せばいい。


――乱れたものには、境を定めるべきだ。


初めは小さな揺らぎだった。


一つの心に生まれた、五つの考え。


どれも間違いではなかった。


全てが循環には必要だった。


雨を受け止める大地。


種を残し保存する蔵。


命を育てる火。


水を巡らせる川。


そして、始まりと終わりを分ける境。


神狐は長い間、その全てを一つの心で抱えていた。


だが人の願いが増えるほど、五つの声は強くなっていった。


受け止めたい。


残したい。


燃やしたい。


流したい。


整えたい。


やがて神狐は、自らの内にある声へ問い掛けた。


――お前たちは、何を望む。


最初に答えたのは、闇の中にいる声だった。


――痛みを捨てたくない。


――人が抱えきれぬものなら、私が抱える。


その声は黒い光となった。


次に、澄んだ声が答えた。


――全てを残すことはできない。


――終わらせるものを見極め、残すべきものを守る。


その声は白い光となった。


熱を帯びた声が笑った。


――願いは燃えるから美しい。


――怒りも恋も野心も、生きるための火になる。


その声は朱い光となった。


風のような声が続いた。


――止めてはいけない。


――失ったものも、得たものも、次の季節へ流さなければならない。


その声は蒼い光となった。


最後に、柔らかな声が答えた。


――叶わぬ願いにも居場所は必要。


――立ち止まる者が再び歩けるまで、私はそばにいる。


その声は黄の光となった。


五つの光は、神狐の中で静かに揺れた。


互いに争ってはいなかった。


ただ、それぞれが異なる方向から世界を見つめていた。


神狐は悟った。


一つのままでは、もう全てを抱えられない。


どれか一つを選べば、残る四つを失う。


ならば。


全てを残すために、自らを分ける。


神狐は五つの光を抱いた。


そして、長い長い眠りへ入るように目を閉じた。


空から音が消えた。


風が止まった。


川の流れさえ、一瞬だけ静まった。


山の獣たちは地へ伏せ、鳥は翼を休めた。


世界が、何かの誕生を待っていた。


やがて神狐の胸から、黒い光が離れた。


光は大地へ降り、闇を纏った一頭の狐となる。


その狐は初めて世界を見た。


人の喜びも。


悲しみも。


罪も。


後悔も。


全てを見つめ、それでも目を逸らさなかった。


黒狐(こくこ)


数百年の後に、真響(まゆら)と名乗るもの。


次に白い光が離れた。


その狐は静かに世界を見渡し、終わるものと残るものの境へ立った。


白狐(びゃっこ)


数百年の後に、雫瑠(しずる)と名乗るもの。


朱い光は炎となって地を駆けた。


笑い、怒り、愛し、生きようとする全ての心へ火を灯した。


朱狐(しゅこ)


数百年の後に、紅沙(くれさ)と名乗るもの。


蒼い光は風と水へ溶けた。


山を越え、川を下り、滞ったものを次の季節へ運んだ。


蒼狐(そうこ)


数百年の後に、翠霞(すいか)と名乗るもの。


黄の光は大地へ降りた。


願いを抱えて立ち尽くす者の隣へ座り、その者が再び歩き出すまで、何も言わず寄り添った。


黄狐(おうこ)


数百年の後に、深宵(みよい)と名乗るもの。


五柱は、初めから今の名を持っていたわけではない。


生まれたばかりの彼女たちに、名はなかった。


自分が何者なのかも知らなかった。


ただ、互いを見た。


黒は白を見た。


白は朱を見た。


朱は蒼を見た。


蒼は黄を見た。


黄は黒を見た。


言葉は必要なかった。


互いの中に、自分と同じものがある。


同時に、自分にはないものもある。


それだけは分かった。


五柱は姉妹として生まれたわけではない。


だが同じ一つの存在から分かれ、同じ世界へ降りた。


各地を彷徨い長い年月の中で、互いを姉妹のように思うようになった。


時に助け合い。


時に反発し。


時に互いのやり方を理解できず。


それでも、離れればどこか欠けたように感じた。


神狐は消えたのではない。


五つになった。


黒狐の中にも。


白狐の中にも。


朱狐の中にも。


蒼狐の中にも。


黄狐の中にも。


神狐は等しく存在していた。


誰か一柱が本体なのではない。


誰かが残りで、誰かが欠片なのでもない。


五柱はそれぞれ、神狐そのものなのだった。




真響はそこで言葉を止めた。


和灯へ静けさが戻る。


蒼麻はしばらく何も言えなかった。


徳利から立っていた湯気は、いつの間にか消えている。


「じゃあ」


ようやく蒼麻が口を開く。


「お前たちは、神狐の力を分けた存在じゃないんだな」


「そうだ」


「五人で一つ、というのとも少し違う?」


真響は少し考えた。


「五つで一つだった。だが今は、一つずつでも私たちだ」


「難しいな」


「人の言葉で説明しようとするからだ」


「人なんだから仕方ないだろ」


真響は僅かに口元を緩めた。


蒼麻は盃を眺めながら、あの夜の四柱を思い出す。


同じ場所にいながら、少しずつ距離を空けて座っていた。


近付けば元へ戻る。


だが戻れば、今の自分たちが失われる。


「神狐へ戻るのが怖いのは、自分が消えるからか」


真響は答えなかった。


その沈黙が答えだった。


しばらくして、真響は冷めかけた酒を口へ運ぶ。


「だが」


その声が、少しだけ低くなる。


「神狐に戻るしかなかない事態が起きた。崇神天皇即位5年に疫病で国の半ばが死に絶えたのを知っているか」


蒼麻は顔を上げた。


「あの時、本当はこの国は滅びてしまった」


真響の瞳は、もう和灯を見ていなかった。


遥か遠い時代。


国がまだ一つの形を得ようとしていた頃。


人々が神の怒りを恐れ、祈りだけを頼りに生きていた時代。


後に、崇神天皇の御代と呼ばれる頃。


人の世に、大きな病が広がった。


村から村へ。


山から里へ。


川を越え、道を伝い。


祈りも、神酒も、五柱の力さえも届かぬほどの災いが。


真響は盃を置いた。


「私たちは、あの時初めて知った」


「何を?」


長い沈黙の後、真響は答えた。


「世界を救うことと、自分を残すことは、同じではない」


和灯の外を、冷たい夜風が吹き抜けた。


それはまるで、遠い昔に消えた誰かの声を運んでくるようだった。

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