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第六十六話 神酒と狐火

その夜、和灯は貸し切りになっていた。


理由を聞かれれば、蒼麻はおそらくこう答えただろう。


「成り行きだ」と。


だが、蓮二はそうは思っていないらしい。開店前から妙に真剣な顔で仕込みを進め、普段より早い時間に暖簾を下ろし、店の入口には小さく「本日貸切」と書いた札を掛けた。


「蒼麻」


カウンター越しに名前を呼ばれ、蒼麻は少し身構える。


「なんだ」


「今日、何が来るんだ」


「何が、って言い方はどうなんだ」


「人間じゃないだろ」


蓮二の声は静かだったが、本気だった。


蒼麻は答えに詰まる。


正確に言えば、人間ではない。


だが怪異でもない。


神でもない。


妖狐である。


しかも、ただの妖狐ではない。


陰陽五行に連なる五柱のうち、真響を含めた四柱が和灯に来ることになっていた。


そうなった原因は分かっている。


数日前、蒼麻が何気なく言ったのだ。


「一度、妖狐全員で飲めたら面白そうだよな」


それは独り言に近かった。


真響と深宵、雫瑠、紅沙。これまでそれぞれと関わった中で、蒼麻は五柱の間にある奇妙な距離感を少しずつ感じ取っていた。


仲が悪いわけではない。


むしろ、互いをよく知っている。


それなのに必要以上に近付かない。


触れられる距離にいるのに、触れない。


その不思議さを、酒の席なら少しは知れるのではないかと思っただけだった。


だが、狐に聞かれた独り言は、独り言では済まない。


その結果が、今夜の貸し切りである。


「悪いな、蓮二」


蒼麻が素直に謝ると、蓮二はため息をつきながらも、仕込みの手を止めなかった。


「別にいい。面白そうだしな」


「怖くないのか」


「怖いよ」


即答だった。


「でも、怖いものに旨いものを出せない料理人にはなりたくない」


蒼麻は少し笑った。


蓮二らしい答えだった。


その日の和灯の料理は、普段とは少し違っていた。


酒粕に漬けた鰆。


出汁を含ませた冬瓜。


炙った鴨。


山椒を利かせた味噌。


小さな土鍋で炊いた浅利飯。


そして、最後に温めるための御神酒。


蓮二はいつもの居酒屋料理ではなく、どこか祭礼の直会(なおらい)に近い献立を用意していた。


「本気だな」


蒼麻が呟くと、蓮二は包丁を置かずに答えた。


「相手が狐なら、こっちも人間らしく迎えるだけだ」


その言葉に、蒼麻は少しだけ胸の奥が温かくなった。


最初に現れたのは深宵(みよい)だった。


暖簾をくぐる姿は静かで、黄昏の光を纏っているようだった。カールのかかった長い髪が肩口で揺れ、穏やかな目元にはいつもの柔らかな笑みがある。


「こんばんは」


「本当に来たんだな」


蒼麻が思わず言うと、深宵は小さく首を傾げた。


「呼んだでしょう?」


「呼んだ、のかな」


「呼んだのよ」


その言い方は穏やかだったが、否定を許さない不思議な強さがあった。


深宵はカウンターの端へ座り、蓮二へ丁寧に頭を下げた。


「今夜はお世話になります」


蓮二も深く頭を下げ返す。


「こちらこそ。口に合うか分かりませんが」


「人が心を込めて整えたものなら、きっと美味しいわ」


その一言だけで、蓮二の緊張が少し和らいだ。


次に来たのは雫瑠(しずる)だった。


扉が開く音はほとんどしなかった。


気付けばそこに立っている。


白い着物。


月光を思わせる髪。


静かで、隙のない佇まい。


雫瑠は店内を一度だけ見回し、深宵を見て僅かに頷いた。それから蒼麻と蓮二へ向き直り、きちんと一礼する。


「失礼する」


「いらっしゃい」


蒼麻が言うと、雫瑠は淡々と席へ着いた。


深宵の隣ではなく、一つ空けた場所だった。


その距離が、妙に彼女らしい。


三番目に現れたのは紅沙(くれさ)だった。


扉を開けた瞬間、店内の空気が少し熱を帯びる。


赤い髪。


夕焼けのような瞳。


挑発的な笑み。


何もしていないのに、場が一気に華やぐ。


「楽しそうね」


紅沙は店に入るなり、蒼麻を見て笑った。


「まだ始まってもいない」


「始まる前が一番楽しいのよ」


「また面倒なこと言ってるな」


「褒め言葉として受け取るわ」


「褒めてない」


紅沙は気にした様子もなく、深宵と雫瑠の方へ視線を向けた。


「黄。白。久しぶり」


深宵は穏やかに微笑む。


「久しぶりね、紅沙」


雫瑠は短く頷いた。


「久しぶりだな」


紅沙はその反応を見て楽しそうに笑い、雫瑠の隣へ座ろうとして、すぐに真響のために空けられた席を見つけた。


「黒はまだ?」


「来る」


雫瑠が答える。


「遅いわね」


「お前よりは早い」


暖簾の向こうから声がした。


真響だった。


黒い髪。


静かな瞳。


いつものように淡々としているが、店内に四柱目として足を踏み入れた瞬間、空気が明らかに変わった。


黒、白、黄、朱。


四つの気配が和灯の中に並ぶ。


蒼麻は思わず息を呑んだ。


圧迫感ではない。


恐ろしさとも違う。


ただ、密度が濃い。


普段は一柱ずつ触れていたものが、同じ場に重なった時、初めて分かるものがあった。


五柱とは、本来一つに近い存在なのだと。


真響は店内を見回し、深宵、雫瑠、紅沙を順に見た。そして最後に蒼麻を見る。


「帰る」


「来たばかりだろ」


「状況を見て判断した」


「判断が早い」


「正しい判断だ」


真響が踵を返そうとすると、紅沙が声を上げて笑った。


「相変わらずね、黒。あなた、逃げ足だけは昔から速いわ」


真響は足を止めた。


「逃げているのではない。面倒を避けている」


「同じことよ」


深宵がくすりと笑う。


「せっかく集まったのだから、少しだけでも飲みましょう」


雫瑠も静かに言った。


「席はある」


真響は本当に嫌そうな顔をしたが、最終的には諦めたように蒼麻の隣へ座った。


「お前のせいだ」


「俺か?」


「お前だ」


蒼麻は反論できなかった。


酒宴は意外なほど穏やかに始まった。


蓮二が最初に出したのは、冷やした純米酒と、酒粕に漬けた鰆だった。


深宵は一口食べて、目を細める。


「優しい味ね」


「ありがとうございます」


蓮二は少し照れたように答える。


雫瑠は黙って箸を進め、しばらくしてから短く言った。


「良い」


それだけだったが、蓮二は深く頷いた。


紅沙は盃を傾けながら、酒の香りを楽しむように息を吐く。


「悪くないわ。少し大人しいけれど」


「最初から熱くするな」


真響が言う。


「熱してないわよ」


「する前の顔をしている」


「よく見ているじゃない」


「見たくなくても見える」


そのやり取りに、蒼麻は思わず笑った。


姉妹喧嘩というには静かで、長い年月を共に過ごした者同士の遠慮のなさがある。


紅沙は蒼麻の笑みに気付き、面白そうに頬杖をついた。


「何を笑っているの?」


「いや、五柱ってもっと神々しい感じかと思ってたから」


「神々しいでしょう?」


「今のところ、だいぶ人間臭い」


紅沙は愉快そうに笑い、深宵は困ったように微笑み、雫瑠は何も言わずに酒を飲んだ。


真響だけが低く呟く。


「余計なことを言うな」


しかし、その声にもどこか諦めたような柔らかさがあった。


酒が進むにつれ、それぞれの違いがはっきりと見えてきた。


深宵はゆっくり飲む。


一口ごとに香りを受け止め、料理の余韻まで大切にするような飲み方だった。


雫瑠は静かに飲む。


酔っているのかどうか分からない。ただ、盃を置く所作まで綺麗で、飲むことそのものが一つの型のようだった。


紅沙は酒に火を入れるように飲む。


笑い、語り、盃を重ねるたびに空気を少しずつ熱くしていく。


真響はいつも通りだった。


表情はほとんど変わらない。


だが蒼麻には分かる。


少しだけ、ほんの少しだけ、肩の力が抜けている。


「翠霞は来ないのか」


蒼麻がその名を出した瞬間、四柱の間に小さな沈黙が落ちた。


気まずさではない。


だが、軽く流せる名前でもないらしい。


最初に答えたのは深宵だった。


「来ないわ」


「誘ってないのか?」


「誘ったわよ」


紅沙が盃を回しながら笑う。


「でも来ないの。あの子、こういう時は本当に逃げるのが上手いから」


雫瑠が静かに訂正する。


「逃げているのではない」


紅沙は肩を竦めた。


「分かってるわよ」


真響は盃を見つめたまま言う。


「翠霞が一番、私たちを理解している」


蒼麻はその言葉の意味を考えた。


「どういうことだ?」


少しの間を置いて、真響が答える。


「私たちは近付き過ぎてはならない」


和灯の空気がわずかに変わる。


紅沙は笑みを消し、深宵は目を伏せ、雫瑠は静かに盃を置いた。


「五柱が揃うと、神狐へ近付く」


その言葉を聞いた瞬間、蒼麻は背筋に冷たいものを感じた。


神狐。


五柱が一つへ戻った姿。


世界を巻き戻すほどの力を持つ存在。


その名を聞くだけで、真響の中にある記憶の重さが滲む。


「そんな簡単になるものなのか?」


蒼麻が尋ねると、雫瑠が首を横に振った。


「簡単ではない」


深宵が続ける。


「でも、近付くの。少しずつ」


紅沙は盃の中の酒を見つめ、珍しく静かな声で言った。


「私たちは、互いを覚えている。近くにいればいるほど、個としての輪郭が薄くなる」


真響は淡々と続けた。


「だから距離を取る。会わぬのではない。会い過ぎぬようにしている」


蒼麻は言葉を失った。


仲が悪いわけではない。


むしろ逆だ。


互いをよく知っているからこそ、近付けない。


姉妹のように在りながら、同じ場所に留まることができない。


それは思っていた以上に寂しい関係だった。


「翠霞は流す狐だからな」


真響が言う。


「あの子は滞りを嫌う。私たちが同じ場所に留まり過ぎることも、同調が始まることも、誰より早く嫌がる」


深宵が少し笑った。


「優しい子なのよ」


「逃げ足も速いけどね」


紅沙が付け加える。


雫瑠が短く言う。


「賢い」


その言葉に、誰も反論しなかった。


蒼麻は翠霞の不在の意味をようやく理解した。


来なかったのではない。


来ないことで、四柱を守っているのだ。


やがて蓮二が土鍋を持ってきた。


浅利飯の湯気が立ち上り、重くなりかけた空気を少しだけ和らげる。


「飯、炊けました」


蓮二の声に、紅沙が真っ先に顔を上げた。


「いい香り」


「食べるか?」


「食べるわ」


「切り替えが早いな」


蒼麻が呆れると、紅沙は笑った。


「寂しい話ばかりしていたら、酒が苦くなるもの」


その言い方があまりに紅沙らしくて、蒼麻は笑ってしまった。


深宵も少しだけ肩の力を抜き、雫瑠も静かに箸を取る。


真響は何も言わない。


ただ、先ほどより盃を持つ指が少し柔らかく見えた。


食事が進み、酒も二本目に入る頃、紅沙が急に蒼麻へ視線を向けた。


「ねえ」


「嫌な予感がする」


「どの狐が一番好き?」


蒼麻は箸を止めた。


蓮二が厨房で動きを止める気配がした。


深宵は微笑んだまま目を伏せ、雫瑠は静かに酒を飲み、真響は額に手を当てた。


「お前は本当に余計な火を点けるな」


「だって気になるじゃない」


「気にするな」


「無理よ」


紅沙は楽しそうだった。


蒼麻はしばらく考えた。


ここで真響と言えば面倒なことになる。


深宵と言っても面倒なことになる。


雫瑠と言えばたぶん沈黙が怖い。


紅沙と言えば確実に火が付く。


どの答えも危険だった。


だから蒼麻は真面目に答えた。


「酒を美味そうに飲む狐が好きだな」


一瞬、沈黙が落ちた。


それから紅沙が腹を抱えて笑い始めた。


「ずるい答えねぇ」


深宵も笑った。


「でも蒼麻らしいわ」


雫瑠は少しだけ目を細めた。


「悪くない」


真響はため息をついた。


「逃げたな」


「生きるための判断だ」


「賢明だ」


その時、蓮二が奥から温めた徳利を持ってきた。


「最後に、これを」


徳利から立ち上る湯気には、どこか清らかな香りがあった。


酒そのものは強くない。


だが、空気を整えるような静けさがある。


「御神酒か」


真響が呟く。


蓮二は頷いた。


「近くの神社へ奉納している蔵の酒です。今日の締めには、こういうのが良いかと思って」


蒼麻は盃を手に取る。


四柱の前にも盃が置かれた。


真響が静かに言った。


神酒(みき)は、人が神へ供えるだけの酒ではない」


蒼麻は盃を見つめる。


深宵が続けた。


「願いを預ける酒」


雫瑠が言う。


「境を越える酒」


紅沙が笑う。


「火を宿す酒」


そして真響が最後に言った。


「神と人が、同じ場で盃を交わせる酒だ」


その瞬間だった。


四柱の周囲に小さな狐火が灯る。


黒。


白。


黄。


朱。


それぞれの色を帯びた火は、ほんの僅かに揺れながら盃の上に浮かんだ。


蒼麻は息を呑んだ。


美しかった。


恐ろしく、寂しく、そしてどこか温かい火だった。


四つの狐火は一瞬だけ同じ高さで揺れ、やがてそれぞれの色へ戻っていく。


そこに翠色はなかった。


蒼麻はその不在を強く感じた。


「翠霞は、本当に来ないんだな」


真響は盃を口へ運び、静かに答える。


「あの子が一番、私たちをよく知っている」


それ以上は言わなかった。


だが蒼麻には分かった。


この場にいないことも、翠霞の選択なのだ。


神狐へ近付かないために。


四柱が今夜だけでも姉妹として酒を飲めるように。


あえて流れの外にいる。


それもまた、循環を司る狐の在り方なのだろう。


酒宴は夜更けまで続いた。


深宵は途中で眠たそうに目を細め、紅沙はそれを面白がってからかった。雫瑠は終始静かだったが、蓮二の料理にはきちんと箸を伸ばし、最後に「良い席だった」と短く礼を言った。真響は疲れたようにしていたが、それでも最後まで席を立たなかった。


ただ酒があり、料理があり、狐たちがいて、人間が一人振り回されていた。


それだけの夜だったが蒼麻は思う。


こういう時間こそ、きっと残す価値があるのだと。


深夜、和灯の灯りが落ちる頃。


遠く離れたどこかの酒蔵の縁側で、翠霞は一人、盃を傾けていた。


夜風が酒の香りを運ぶ。


彼女は空を見上げ、くすりと笑う。


「絶対、面倒なことになってるだろうなぁ」


そう呟いて、盃を口へ運ぶ。


その予想は、たぶん正しかった。


そしてそれでも、彼女は行かなかった。


四つの狐火が同じ夜に揺れる。


翠霞は静かに目を閉じる。


流れはまだ止まっていないのだから。今はまだそれでいい。

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