第六十五話 怪異になる前に潰そう
その依頼は怪異ではなかった。
少なくとも、今はまだ。
神代商工会へ呼び出された蒼麻は、麻那から渡された資料を見て首を傾げた。そこに並んでいたのは怪異報告書ではなく、地方都市の人口推移、商店街の空き店舗率、酒蔵の出荷量、神社の氏子数、祭礼参加者数といった数字ばかりだった。
「これ間違えてない?」
資料をめくりながらそう尋ねると、麻那は呆れたように答えた。
「間違えてない。萩さん案件」
その一言で蒼麻は妙に納得した。
同時に、少しだけ嫌な予感もした。
神代萩のような人間がわざわざ人を呼ぶ時は、大抵何か理由があるだろう。
それも、呼ばれた本人がまだ気付いていない理由が。
数日後、蒼麻は中央アルプスの裾野に広がる盆地の町を訪れていた。
古い城下町の名残を持つその土地には、小さな酒蔵や神社が点在し、かつては街道の要所として賑わった歴史がある。しかし今は人口流出が続き、商店街には閉じたままのシャッターが目立っていた。
駅前の喫茶店へ入ると、神代萩が窓際の席で待っていた。
白髪混じりの髪に穏やかな笑顔。どこにでもいそうな年配の紳士に見える。
だが蒼麻は聞いていた。
この男が神代一族の中でも屈指の根回し役であり、数え切れないほどの企業や自治体、神社や酒蔵を裏から支えてきた人物であることを。
「久しぶりだな、蒼麻君。遠いところをすまなかった」
「いえ。でも、俺が来る必要ありました?」
萩はコーヒーを一口飲み、小さく笑った。
「それを確かめるために呼んだんだ」
その意味は、その時の蒼麻には分からなかった。
午前中は町を歩いた。
商店街の会長。
地元金融機関の支店長。
農協の理事。
神社の宮司。
そして古い酒蔵の蔵元。
萩は誰に対しても同じだった。
偉そうにしない。
急がせない。
まず話を聞く。
最後まで聞く。
その上で一言だけ助言をする。
蒼麻は不思議だった。
萩が話し始めると、皆が自然と本音を話し始める。
それは交渉というより、長年の友人との会話に近かった。
だが、その柔らかな会話の裏で、萩は確実に何かを見ている。
人の感情だけではない。
町の未来そのものを。
夕方、町外れの酒蔵を訪れた時だった。
蔵元の男性がぽつりと漏らした。
「本当は、もう畳もうと思っていたんです」
萩は何も言わず、その続きを待った。
「息子は東京で働いています。帰る気はないと言っていますし、従業員も高齢化している。設備更新も厳しい。続ける理由が見つからなくてね」
そう言って蔵元は笑った。
だが、その笑顔はどこか寂しかった。
萩は静かに頷く。
否定もしない。
励ましもしない。
ただ受け止める。
しばらくしてから、ようやく口を開いた。
「それでも、残していただきたい」
蔵元は苦笑した。
「簡単に言いますな」
「簡単な話ではありません」
萩は穏やかに答える。
「だからこそ、我々が支援するのです」
「なぜです?」
当然の問いだった。
利益だけを見れば、この蔵は決して優良案件ではない。
だが萩は迷わなかった。
「これからのこの国のためです」
蔵元も蒼麻も黙った。
萩は続ける。
「酒蔵が残れば祭りが残る。祭りが残れば人が集まる。人が集まれば神社が残る。神社が残れば土地の記憶が残る」
そして少しだけ声を低くして蒼麻に囁いた。
「怪異は結果です」
蒼麻は息を呑む。
「土地が忘れられ、人が諦め、祈りが途切れた先に現れる。だから神代は怪異を祓うだけではない。その前を守るのです」
帰り際、神社の石段へ腰を下ろしながら蒼麻は空を見上げた。
夕暮れの山々が赤く染まっている。
しばらく沈黙が続いた後、蒼麻はふと思ったことを口にした。
「結局、俺は何のために呼ばれたんです?」
萩は少しだけ笑った。
「気付かなかったか」
「何がです?」
「蔵元の息子さんだよ」
蒼麻は今日の会話を思い返す。
東京で働いている息子。
帰らないと言っている息子。
だが話題になる度に、どこか引っ掛かる違和感があった。
「……その人、もしかしたら本当は帰りたいんじゃないですかね」
萩は満足そうに目を細めた。
「そう思いましたか」
「違うんですか?」
「いや、おそらくその通りだ」
蒼麻は眉をひそめる。
「なら、なんで帰らないんです?」
「怖いからだろう」
萩はあっさり言った。
「失敗するかもしれない。蔵を潰すかもしれない。父親の期待に応えられないかもしれない。人間は案外、責任が重いほど逃げるものだ」
そして蒼麻を見た。
「私は数字を見る」
蒼麻は黙って聞く。
「菖蒲は市場を見る」
風が吹く。
「桃は未来を見る」
夕日が鳥居を照らしていた。
「だが君は人を見る」
蒼麻は思わず苦笑した。
そんな大層なものではない。
そう言おうとして、やめた。
萩が本気で言っている事がわかったから。
「神代には、そういう人間も必要なんだ」
その言葉には、どこか期待が滲んでいた。
長く神代を支えてきた男だからこそ分かる限界。
数字だけでは守れないものがある。
市場だけでは救えないものがある。
未来だけを見ていては見落とすものがある。
だから蒼麻という存在を見ている。
新しい風として。
その時だった。
萩の携帯が鳴る。
画面を見た瞬間、空気が変わった。
笑顔は変わらない。
だが目だけが鋭くなる。
柔らかな老人ではない。
百手先を読む策士の顔だった。
短い通話を終えた萩は、小さく息を吐く。
「何かあったんですか?」
「外資だ」
「例の?」
萩は頷いた。
「隣県の水源地を押さえ始めた」
その声は穏やかだった。
だがそこには一切の甘さがなかった。
「水は土地だ。土地は文化だ。文化は人間だ」
萩は遠くの山並みを見つめる。
「切り売りして良いものではない」
蒼麻はふと気付く。
この人は優しい。
本当に優しい。
だが同時に、日本の文化や土地を踏みにじろうとする相手には決して容赦しない。
だから神代一族の重鎮なのだ。
だから桃や菖蒲が信頼するのだ。
萩は立ち上がった。
「さて、帰るか」
「東京ですか?」
蒼麻が聞く。
萩は笑った。
「いや」
そして少しだけ楽しそうな顔をする。
「蔵元の息子さんに会いに行こう」
蒼麻は目を瞬かせる。
「今からですか」
「怪異になる前に潰さなくてはな?」
その言葉に、蒼麻は思わず笑ってしまった。
夕暮れの神社を後にする二人の背中を、山から吹く風が静かに押していた。
まだ何も終わっていない。
だが何かが始まろうとしている。
そんな気配が確かにあった




