表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
66/86

第六十四話 酒器を選ぶ狐

「今度の休み、合羽橋へ行ってみないか」


「合羽橋?」


「酒器専門の店を見てみたかったんだ。」


蒼麻が何気なくそう口にすると、真響は盃を置いて静かにこちらを見た。


「珍しいな」


「前から気になってた店があるんだ。酒ばかり買って、器は後回しだったからさ」


「ようやくそこへ辿り着いたか」


その言い方が妙に引っ掛かり、蒼麻は苦笑する。


「何だよ、その言い方」


「酒好きなら、いずれ器へ辿り着くだろうと思っていた」


真響はそれだけ言って、また一口飲む。


「付き合ってやる」



二人が訪れたのは、合羽橋の一角にある酒器専門店だった。


格子戸をくぐると、木の香りと土の匂いが混じった静かな空間が広がる。


棚には全国各地のぐい呑みや徳利が整然と並び、備前焼、信楽焼、有田焼、錫の酒器、江戸切子の猪口まで、産地も素材もさまざまだった。


「いらっしゃいませ」


白髪交じりの店主が穏やかに頭を下げる。


蒼麻は店内をゆっくり歩きながら、一つひとつ手に取っては眺めていく。


「やっぱり器って面白いよな。同じ酒でも、口当たりが全然違うし」


「分かっているじゃないか」


真響が静かに頷く。


「でも、正直まだ感覚なんだよな。『この酒にはこれが合う気がする』くらいで」


「感覚でわかるならそれで十分だ」


「理屈じゃないってことか?」


「酒は理屈だけでは飲めん」


ここに葵はいれば、選ぶ酒器によって同じ酒でも味の感じ方はまったく変わるぞ、と言い出しただろう。


真響は錫のぐい呑みを一つ手に取り、光へかざした。


「ただ、器には役目がある」


蒼麻も隣へ並ぶ。


「役目?」


「酒は蔵で生まれ、人に注がれ、この器で完成する」


蒼麻はぐい呑みを見つめる。


「完成する、か」


「器は酒の最後の蔵といってもいい」


その一言は、妙に胸へ落ちた。


酒蔵が酒を育てるように、器もまた酒を受け止め、最後の表情を決めるからだ。


そう考えると、一つひとつの器が急に違って見えてくる。


「そういう見方はしたことなかったな」


「だから来た意味がある」


蒼麻は笑った。


「勉強になります、先生」


「誰が先生だ」


「さっきから先生っぽいこと言ってるじゃないか」


真響は呆れたようにため息をついたが、どこか楽しそうでもあった。


その様子を見ていた店主が、ふっと笑う。


「お二人とも、日本酒がお好きなんですね」


「うむ。こいつなんか、酒蔵を見付けると予定を変更してでも寄るくらいだ」


「余計なことを言うな」


「否定はしないのだな」


「……しないけど」


店主は声を立てて笑った。


「でしたら、焦らずゆっくり選んでください。器は不思議なもので、人が選ぶようでいて、器の方が人を選ぶこともありますから」


「器が?」


蒼麻が首を傾げる。


「ええ。同じ器でも、ある人にはしっくり来るのに、別の人にはまったく響かない。長くこの仕事をしていますが、そういう場面を何度も見てきました」


蒼麻は棚へ視線を戻し、何気なく一つのぐい呑みを手に取った。


灰青色の釉薬が静かに溶け合い、派手さはない。少し小ぶりで、手へ吸い付くような収まりの良さがあった。


「これ、いいな」


その瞬間、店主が目を丸くした。


「お客さん、本当にそれを選ばれますか」


「何か問題ありました?」


「その器、三年売れなかったんです」


蒼麻は思わず器を見直した。


「え、こんなに良さそうなのになんで?」


「見た目が地味で、皆さんもっと華やかなものを選ばれるんですよ。でも、このシリーズは酒を注ぐと驚くほど味が柔らかくなる。不思議な器なんです」


真響が器を覗き込み、小さく笑った。


「だからお前が選んだ」


「どういう意味だ?」


「お前は派手さより、中身を見るからな」


「そんな立派なもんじゃないよ。ただ手に馴染んで持ちやすかっただけ」


「それでも十分だ」


店主が静かに頷く。


「その器を焼かれた方は、もう窯を閉じられました。後継ぎがおられなくて」


蒼麻はもう一度器を眺めた。


酒蔵と同じだ。


守る人がいなければ、技も文化も静かに終わっていく。


「じゃあ、この器も最後の作品なんですね」


「そうなります」


蒼麻は迷わずそれを手に取った。


「これにします」


会計を済ませ、紙袋を受け取ると、蒼麻はどこか嬉しそうに抱えた。


店を出る頃には夕方の柔らかな光が商店街を照らしている。


「今夜はこれで飲もう」


紙袋を大事そうに抱えながら蒼麻が言うと、真響は少しだけ目を細めた。


「そのために買ったのだろう」


「まあ、そうなんだけど」


「どんな酒を合わせるつもりだ」


「昨日買った純米吟醸かな。それとも燗をつけてみるか……いや、この器なら冷やもいいな」


ぶつぶつと独り言を始めた蒼麻を見て、真響は小さく笑う。


「結局、お前は酒のことしか考えていない」


「悪いか?」


「悪くはない」


真響は夕暮れの空を見上げた。


「酒を造る者は、酒を育てる。器を作る者は、その最後を預かる」


蒼麻は紙袋へそっと手を添える。


「だから器は、酒の最後の蔵……か」


「そういうことだ」


二人は肩を並べて歩き出す。


夕焼けに染まる商店街を抜け、今夜飲む酒の話をしながら。


怪異も事件もない、ただ穏やかな一日だった。


だが蒼麻は、その日新しく手に入れたのは器だけではない気がしていた。


酒を受け継ぐということ。


文化を受け継ぐということ。


それは、酒蔵を守ることと、どこか同じなのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ