第六十四話 酒器を選ぶ狐
「今度の休み、合羽橋へ行ってみないか」
「合羽橋?」
「酒器専門の店を見てみたかったんだ。」
蒼麻が何気なくそう口にすると、真響は盃を置いて静かにこちらを見た。
「珍しいな」
「前から気になってた店があるんだ。酒ばかり買って、器は後回しだったからさ」
「ようやくそこへ辿り着いたか」
その言い方が妙に引っ掛かり、蒼麻は苦笑する。
「何だよ、その言い方」
「酒好きなら、いずれ器へ辿り着くだろうと思っていた」
真響はそれだけ言って、また一口飲む。
「付き合ってやる」
二人が訪れたのは、合羽橋の一角にある酒器専門店だった。
格子戸をくぐると、木の香りと土の匂いが混じった静かな空間が広がる。
棚には全国各地のぐい呑みや徳利が整然と並び、備前焼、信楽焼、有田焼、錫の酒器、江戸切子の猪口まで、産地も素材もさまざまだった。
「いらっしゃいませ」
白髪交じりの店主が穏やかに頭を下げる。
蒼麻は店内をゆっくり歩きながら、一つひとつ手に取っては眺めていく。
「やっぱり器って面白いよな。同じ酒でも、口当たりが全然違うし」
「分かっているじゃないか」
真響が静かに頷く。
「でも、正直まだ感覚なんだよな。『この酒にはこれが合う気がする』くらいで」
「感覚でわかるならそれで十分だ」
「理屈じゃないってことか?」
「酒は理屈だけでは飲めん」
ここに葵はいれば、選ぶ酒器によって同じ酒でも味の感じ方はまったく変わるぞ、と言い出しただろう。
真響は錫のぐい呑みを一つ手に取り、光へかざした。
「ただ、器には役目がある」
蒼麻も隣へ並ぶ。
「役目?」
「酒は蔵で生まれ、人に注がれ、この器で完成する」
蒼麻はぐい呑みを見つめる。
「完成する、か」
「器は酒の最後の蔵といってもいい」
その一言は、妙に胸へ落ちた。
酒蔵が酒を育てるように、器もまた酒を受け止め、最後の表情を決めるからだ。
そう考えると、一つひとつの器が急に違って見えてくる。
「そういう見方はしたことなかったな」
「だから来た意味がある」
蒼麻は笑った。
「勉強になります、先生」
「誰が先生だ」
「さっきから先生っぽいこと言ってるじゃないか」
真響は呆れたようにため息をついたが、どこか楽しそうでもあった。
その様子を見ていた店主が、ふっと笑う。
「お二人とも、日本酒がお好きなんですね」
「うむ。こいつなんか、酒蔵を見付けると予定を変更してでも寄るくらいだ」
「余計なことを言うな」
「否定はしないのだな」
「……しないけど」
店主は声を立てて笑った。
「でしたら、焦らずゆっくり選んでください。器は不思議なもので、人が選ぶようでいて、器の方が人を選ぶこともありますから」
「器が?」
蒼麻が首を傾げる。
「ええ。同じ器でも、ある人にはしっくり来るのに、別の人にはまったく響かない。長くこの仕事をしていますが、そういう場面を何度も見てきました」
蒼麻は棚へ視線を戻し、何気なく一つのぐい呑みを手に取った。
灰青色の釉薬が静かに溶け合い、派手さはない。少し小ぶりで、手へ吸い付くような収まりの良さがあった。
「これ、いいな」
その瞬間、店主が目を丸くした。
「お客さん、本当にそれを選ばれますか」
「何か問題ありました?」
「その器、三年売れなかったんです」
蒼麻は思わず器を見直した。
「え、こんなに良さそうなのになんで?」
「見た目が地味で、皆さんもっと華やかなものを選ばれるんですよ。でも、このシリーズは酒を注ぐと驚くほど味が柔らかくなる。不思議な器なんです」
真響が器を覗き込み、小さく笑った。
「だからお前が選んだ」
「どういう意味だ?」
「お前は派手さより、中身を見るからな」
「そんな立派なもんじゃないよ。ただ手に馴染んで持ちやすかっただけ」
「それでも十分だ」
店主が静かに頷く。
「その器を焼かれた方は、もう窯を閉じられました。後継ぎがおられなくて」
蒼麻はもう一度器を眺めた。
酒蔵と同じだ。
守る人がいなければ、技も文化も静かに終わっていく。
「じゃあ、この器も最後の作品なんですね」
「そうなります」
蒼麻は迷わずそれを手に取った。
「これにします」
会計を済ませ、紙袋を受け取ると、蒼麻はどこか嬉しそうに抱えた。
店を出る頃には夕方の柔らかな光が商店街を照らしている。
「今夜はこれで飲もう」
紙袋を大事そうに抱えながら蒼麻が言うと、真響は少しだけ目を細めた。
「そのために買ったのだろう」
「まあ、そうなんだけど」
「どんな酒を合わせるつもりだ」
「昨日買った純米吟醸かな。それとも燗をつけてみるか……いや、この器なら冷やもいいな」
ぶつぶつと独り言を始めた蒼麻を見て、真響は小さく笑う。
「結局、お前は酒のことしか考えていない」
「悪いか?」
「悪くはない」
真響は夕暮れの空を見上げた。
「酒を造る者は、酒を育てる。器を作る者は、その最後を預かる」
蒼麻は紙袋へそっと手を添える。
「だから器は、酒の最後の蔵……か」
「そういうことだ」
二人は肩を並べて歩き出す。
夕焼けに染まる商店街を抜け、今夜飲む酒の話をしながら。
怪異も事件もない、ただ穏やかな一日だった。
だが蒼麻は、その日新しく手に入れたのは器だけではない気がしていた。
酒を受け継ぐということ。
文化を受け継ぐということ。
それは、酒蔵を守ることと、どこか同じなのかもしれない。




