第六十三話 神代はなぜ酒蔵を守るのか
その話を初めて聞いた時、蒼麻は正直よく分からなかった。
「利益が出ない酒蔵を買う?」
神代商工会の会議室で資料を眺めながら、蒼麻は首を傾げる。
向かいには麻那、その隣には菖蒲が座り、大型モニターには地方へ出張中の萩が映し出されていた。
議題は、とある地方の小さな酒蔵についてだった。
創業百四十年。生産量は少なく、全国的な知名度も決して高くはない。設備は老朽化し、後継者もいない。数字だけを並べれば、投資先として魅力があるとは言い難かった。
「普通に考えたら厳しいですよね」
蒼麻が率直な感想を口にすると、麻那も「経営だけ見ればね」と静かに頷く。
だが、菖蒲だけは資料から目を離さなかった。
「だから普通の企業は手を出さないの」
「じゃあ、どうして神代は出すんです?」
その問いに、菖蒲はようやく顔を上げた。穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳には迷いがない。
「御神酒だからよ」
答えの意味は分かる。しかし、それだけでは答えになっていない気もした。
蒼麻の表情を見た菖蒲は、小さく微笑む。
「説明するより見た方が早いわ。明日、現地へ行きましょう」
翌日、蒼麻は菖蒲とともに山あいの町を訪れていた。
高速道路を降り、さらに山道をしばらく進んだ先にある小さな集落。人影はまばらで、商店街には閉まったままの店も目立つ。典型的な過疎の町だった。
目的の酒蔵は、その町の中心から少し離れた場所に建っていた。
決して大きくはない。それでも手入れは行き届き、黒く艶を帯びた梁や白壁には、長い年月を生き抜いてきた蔵ならではの風格が宿っている。
迎えてくれた蔵元は七十代の男性だった。
「遠いところをありがとうございます」
深々と頭を下げるその姿に、菖蒲も同じように頭を下げ返す。
蒼麻はその様子を見て少し驚いた。
神代一族の重鎮である菖蒲が、相手の年齢や人生へ自然に敬意を払っている。その所作には肩書きも打算も感じられなかった。
蔵を案内されながら話を聞く。
後継者はいない。
売上は年々減少している。
設備を更新する余裕もない。
廃業は、時間の問題だった。
「やっぱり厳しいですね」
蒼麻がそう漏らすと、菖蒲は答えず、そのまま蔵の裏手へ歩き出した。
そこには、小さな石祠がひっそりと建っていた。
酒蔵よりもさらに古く見える祠には、長い年月の風雨が刻まれている。
「これを見なさい」
蒼麻が近づくと、不思議な感覚が胸をよぎった。
静かだった。
けれど、それは何もない静けさではない。
目には見えない何かが、この土地をゆっくりと巡っている。
まるで地下を流れる伏流水のように。
「気付いた?」
菖蒲が尋ねる。
蒼麻は静かに頷いた。
「土地が……生きてる」
「そう」
菖蒲は祠へそっと手を添える。
「この土地には昔から水が流れ、人が暮らし、祈りが積み重なってきた。水だけじゃないの。人の願いも、祈りも、土地の記憶も、この場所には流れている」
蒼麻は黙って耳を傾ける。
「酒蔵はね、酒を造る場所じゃないのよ」
思わず振り返る。
「え?」
「土地を繋ぐ場所なの」
その意味は、すぐには理解できなかった。
しかし町を歩くうちに、少しずつその言葉が形になっていく。
神社がある。
田んぼがある。
水路がある。
祭りがある。
そして酒蔵がある。
それぞれが独立して存在しているようで、実際には一本の糸で結ばれていた。
農家が米を育てる。
酒蔵が酒を醸す。
酒は祭りで振る舞われ、神前へ奉納され、人々が集う。
人が土地を忘れず、土地が人を育てる。
そこには経済もあり、文化もあり、信仰もあった。
帰路についた車の中で、蒼麻は窓の外を眺めながらぽつりと尋ねる。
「でも、やっぱり利益は出ませんよね」
菖蒲は穏やかに笑った。
「出るわよ」
「どこからです?」
「百年後には、ね」
蒼麻は言葉を失った。
冗談ではなかった。
菖蒲は本気で言っている。
「百年後……ですか」
「ええ」
夕日に染まる山並みを見つめながら、菖蒲は静かに続けた。
「その蔵が残る。祭りが残る。土地が残る。人が残る。祈りが残る」
少しだけ間を置いて、穏やかな声のまま言葉を重ねる。
「そして、怪異が生まれにくくなる」
その瞬間、蒼麻の中で全てが繋がった。
怪異は突然現れるものではない。
土地が衰え、人が離れ、祈りが絶え、営みが失われる。
その積み重ねが歪みとなり、やがて怪異を生む。
神代一族は怪異を祓う。
しかし本当に守ろうとしているのは、そのずっと手前にある日常なのだ。
酒蔵を守る。
神社を守る。
祭りを守る。
土地を守る。
そうして怪異の芽そのものを育たせない。
「神代って……退魔師じゃないんですね」
蒼麻が呟くと、菖蒲は少し考えるように目を細めた。
「退魔師なんて、結果よ」
「結果?」
「怪異が現れてから動くのは二流。本当にやるべきなのは、その前を守ること」
その言葉には、不思議な重みがあった。
車は夕暮れの高速道路を静かに走っていく。
赤く染まる山々は次第に遠ざかり、やがて街の灯りが一つ、また一つと窓の向こうに浮かび始めた。
百年後。
蒼麻にはまだ想像もつかない時間だった。
だが、桃も、萩も、菖蒲も、麗樹も、その未来を見据えて動いている。
怪異を斬るだけではない。
社会を動かし、土地を守り、人の営みを未来へ繋ぐ。
そのために神代一族は企業を興し、経済へ関わり続けている。
「思ってたより、ずっと面倒なことやってるんですね」
蒼麻が苦笑すると、菖蒲も肩を揺らして笑った。
「今さら気付いたの?」
「もう少し単純な人たちかと思ってました」
「失礼ね」
そう言いながらも、菖蒲は否定しなかった。
車は夕暮れの街へと吸い込まれていく。
窓の外に灯る無数の明かりを眺めながら、蒼麻は思う。
あの一つ一つの灯りにも、神代が守ろうとしている誰かの日常があるのかもしれない、と。




