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第六十二話 紅の残り香

その依頼は怪異退治というには少し変わっていた。


相談を持ち込んできたのは温泉街の老舗旅館の女将だった。


「火が出るんです」


そう言われて蒼麻は首を傾げる。


「火事ですか?」


「いえ、燃えないんです」


それは怪異案件でよく聞く言葉だった。


燃えるはずのものが燃えない。


あるいは燃えていないのに燃えたように見える。


だが今回の話は少し違った。


「お酒だけなんです」


女将は困ったように続ける。


「宴会で出したお酒から、急に焦げたような香りが立つんです。でも酒そのものは傷んでいないんですよ」


蒼麻は思わず真響を見る。


真響も嫌そうな顔をしていた。


「覚えがあるな」


「あるな」


二人は同時に答えた。


現地へ向かったのは翌日だった。


飛騨山脈の麓に広がる温泉街「紅葉(くれは)温泉」。


飛騨川沿いに木造旅館が軒を連ね、古くから湯治客と酒蔵の蔵人たちが疲れを癒してきた土地。


今でも旅館では地酒が振舞われ、夜になると川霧が街を包み込む。


山間の温泉街は観光客で賑わっていた。


川のせせらぎと硫黄の香りが漂う。


のんびりした良い場所だった。


問題の旅館も繁盛している。


だが宴会場へ案内された蒼麻は、すぐに異変へ気付いた。


酒の香りが混じっている。


そして、その奥。


微かに焦げた匂い。


炭火ではない。


木でもない。


もっと妖しい匂いだった。


「残り香だな」


真響が言う。


蒼麻も頷く。


確かにそうだった。


何かが通った後の匂い。


それもかなり最近だ。


調査を続けていると、不思議な話が見えてきた。


焦げた香りが現れるのは決まって宴会の終盤だった。


酒が進み人が酔い、本音が漏れ始める頃。


決まってその現象は現れる。


そして、その香りを嗅いだ人間は妙に気分が高揚する。


普段は言えないことを言う。


忘れていた夢を語る。


無茶な計画を口にする。


まるで心の奥に火が付いたようになるのだ。


「怪異か?」


蒼麻が聞く。


真響は少し考えた。


「半分」


「半分?」


「残りは性格が悪い」


蒼麻は嫌な予感がした。


その夜。


旅館の露天風呂へ向かう途中だった。


ふと風が吹く。


甘い香りがした。


酒でも花でもない。


どこか危険な香り。


蒼麻が振り返る。


そこにいた。


束ねた赤い髪。


夕焼けのような紅の瞳。


挑発的な笑み。


そして恐ろしく整った顔立ち。


女性は欄干へ腰掛けながら楽しそうにこちらを見ていた。


「やっと会えたね」


蒼麻はため息を吐いた。


「狐だな」


「失礼ね。君に会いに来たというのに」


女性は笑う。


朱狐(しゅこ)よ。紅沙(くれさ)


五柱の一柱だった。


「お前が原因か?」


蒼麻が聞く。


紅沙は肩を竦める。


「半分はわたしかな?」


その返答に蒼麻は頭を抱えたくなった。


最近の狐はみんな同じ答えを返すらしい。


紅沙は楽しそうに足を組みかえる。


「でも面白いでしょう?」


「何がだ」


「人間」


彼女は温泉街を見下ろした。


提灯の灯り。


笑い声。


酔客たち。


夜の宴。


その全てを眺めながら、両手を広げて言う。


「火が付いた時の顔」


蒼麻は黙る。


紅沙は続けた。


「恋もそう」


「夢もそう」


「怒りもそう」


「執着もそう」


その瞳が細められる。


「人間は燃えてる時が一番綺麗なのよ」


蒼麻の隣に現れた真響が露骨に嫌そうな顔をした。


「相変わらずだな」


「褒め言葉かしら?」


「違う」


即答だった。


紅沙は声を上げて笑う。


本当に楽しそうだった。


だが蒼麻は気付く。


この狐は危険だ。


深宵のように受け止めない。


雫瑠のように終わらせない。


真響のように抱え込まない。


少し強く燃やすのだ。


人の感情を。願いを、情熱を。


その時だった。


旅館の宴会場から悲鳴が上がる。


蒼麻たちは駆け出した。


宴会場では無数の狐火が舞っていた。


赤い火。


揺れる火。


人々の盃の上を踊る火。


そしてその中心には怪異がいた。


酒宴から生まれた怪異だった。


酔い。熱気。願望。見栄。


この場に蓄積された思念が積み重なり、一つの塊になっている。


怪異は囁く。


もっと飲め。


もっと語れ。


もっと燃えろ。


もっと熱くなれ。


蒼麻は赤ペンを取り出した。


しかしその前に紅沙が動いた。


指先を軽く振る。


眼前に五つの赤い狐火が踊る。


怪異が笑う。


紅沙も笑う。


まるで酒飲み同士が盃を交わしているようだった。


そして次の瞬間。


狐火が怪異を包む。


激しく燃える。


だが消滅はしない。


余分な熱だけが焼かれていく。


蒼麻は目を見開いた。


「燃やしてるのか」


「違う」


紅沙は笑う。


「酔いを醒ましてあげてるの」


怪異の輪郭が崩れる。


蒼麻はそこへ赤線を引いた。


過剰な執着。


過剰な願望。


暴走した感情。


それらを切り分ける。


やがて怪異は静かに消えた。


騒ぎが収まり、人々も落ち着きを取り戻す。


旅館には再び穏やかな夜が戻った。


紅沙は欄干へ腰掛けたまま夜空を見上げていた。


「つまらないわね」


「何がだ」


蒼麻が聞く。


紅沙は笑う。


「終わっちゃった」


その言い方は本気だった。


蒼麻は思う。


この狐は間違いなく五柱の中で一番面倒そうだ。


帰り際、紅沙は蒼麻へ視線を向けた。


そして楽しそうに笑った。


「ねえ」


「なんだ」


「あなた、本当に面白いわね。隣に居たら面白いものが見れそう」


蒼麻はまた嫌な予感しかしなかった。


真響は隣で深くため息を吐く。


「また始まったか」


「何が」


「おまえは紅沙にも気に入られた」


蒼麻は空を見上げた。


深宵にも言われた。


どうやら自分は狐に好かれやすいらしかった。


それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からなかった。

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