第五十九話 返送される祈り
その相談は、神代商工会ではなく和灯へ持ち込まれた。
持ってきたのは蓮二だった。
「蒼麻、お前こういうの得意だろ」
そう言って差し出されたのは、一枚の絵馬だった。
どこにでもある木製の絵馬である。
だが蒼麻は受け取った瞬間に眉をひそめた。
重い。
木の重さではない。
願いの重さだった。
「どこから?」
「知り合いの神社」
蓮二は答える。
「木山神社の氏子地域にある小さい神社だよ。宮司さんが困ってるらしい」
蒼麻は絵馬を裏返した。
そこには願い事が書かれていた。
商売がうまくいきますように。
その下に、新しい文字がある。
後から書き足されたものだ。
うまくいきました。でも今度は失敗するのが怖いです。
蒼麻はしばらく黙った。
嫌な予感がした。
翌日。
蒼麻は一人で現地へ向かった。
麻那は別案件だった。
「一人で大丈夫?」
と聞かれたが、
「たぶん大丈夫だろ」
と答えている。
真響は当然のようについて来た。
「お前は仕事か」
「暇だった」
「絶対嘘だな」
「酒が出るかもしれん」
「本音出たな」
神社は小さかった。
古い石段。
小さな拝殿。
氏神を祀る地域の神社。
参拝客も少ない。
だが静かで良い神社だった。
宮司は初老の男性だった。
蒼麻を見るなり深々と頭を下げる。
「助かります」
「何が起きてるんです?」
宮司は社務所へ案内した。
そして蒼麻は思わず足を止めた。
部屋いっぱいに絵馬が積まれていた。
百枚。
二百枚。
もっとある。
願い事が書かれた絵馬。
そして、その全てが一度奉納されたはずのものだった。
「返ってくるんです」
宮司が言う。
「夜になると」
蒼麻は絵馬を手に取った。
大学に合格しますように。
その下には、
合格しました。でも友達ができません。
別の絵馬。
結婚できますように。
その下には、
結婚しました。でも不安です。
さらに別の絵馬。
会社が成功しますように。
その下には、
成功しました。でも怖いです。
蒼麻は小さく息を吐いた。
「願いの続きか」
宮司は苦笑した。
「そうなんでしょうね」
願いは叶っている。
だから神は仕事を果たしている。
だが人間はそこで終わらないのだ。
次の不安。
次の願い。
次の迷い。
それが絵馬へ戻ってきている。
暗くなるまで蒼麻と真響は境内へ残った。
静かに風が吹き、虫の声が聞こえる。
どこにでもある田舎の神社の夜だった。
異変が起きたのは日付が変わる頃だった。
絵馬が鳴った。
かたん。
小さな音だった。
続いてもう一枚。
さらにもう一枚。
やがて境内中の絵馬が鳴り始める。
かたん。
かたん。
かたん。
まるで返事を待っているような音だった。
蒼麻は赤ペンを取り出した。
真響は静かに酒瓶の蓋を閉める。
「来るぞ」
次の瞬間だった。
無数の絵馬が空へ浮かび上がった。
木札が集まり、一人の女の形を作る。
顔はない。
代わりに願い事が浮かんでいる。
叶いました。
叶いました。
叶いました。
重なった声が響く。
だがそれは喜びではなかった。
迷いだ。
不安だ。
怯えだ。
そして怪異は小さな声で言った。
「次はどうすればいいのですか」
蒼麻は思わず苦笑した。
「知らんよ」
怪異が止まる。
予想外の返事だったのだろう。
「神様なら知っているでしょう」
「神様だって全部は知らないだろ」
「では誰が知っているのですか」
「本人だ」
即答だった。
怪異が揺れる。
理解できないらしい。
蒼麻は続けた。
「願いが叶った後の人生まで神頼みするな」
真響が横で笑った。
「言うな」
「事実だろ」
怪異は困惑していた。
願いを抱えることしか知らない。
叶った後を知らない。
だから立ち止まっている。
その時だった。
境内の奥から足音が聞こえた。
蒼麻は振り返る。
真響はため息をついた。
「来たか」
月明かりの下に一人の女性が立っていた。
毛先がカールした長い金髪。
穏やかな碧い瞳。
どこか黄昏の色を帯びた気配。
黄狐・深宵だった。
彼女は怪異を見る。
そして困ったように笑った。
「また溜め込んだのね」
怪異が震える。
深宵は近づいた。
叱らない。
責めない。
ただ静かに隣に立つ。
「怖いの?」
怪異が頷く。
「叶った後が分かりません」
「そうね」
深宵は否定しなかった。
「分からないわよね」
怪異は泣き出した。
「願いが叶ったのに不安なんです」
「そういうものよ」
深宵は静かに答える。
「願いが叶うと、今度は自分で歩かなきゃいけないから」
怪異の輪郭が揺らぐ。
蒼麻には見えていた。
一本の縁。
願いへ縋り続ける縁。
終わった願いにしがみつく縁。
それだけが怪異の核だった。
深宵が蒼麻を見る。
蒼麻も頷いた。
赤ペンを握る。
「願いは残していい」
一本の赤線を引く。
「でも執着は返してこなくていい」
縁がほどける。
怪異の姿がゆっくりほどけていく。
絵馬が夜空へ舞い上がった。
木札は光になり、一枚ずつ消えていく。静かな終わりだった。
最後に残った一枚には、
ありがとうございました。
とだけ書かれていた。
静寂が戻る。
深宵は夜空を見上げた。
「人間って大変ね」
「狐も大変そうだけどな」
蒼麻が言う。
深宵は小さく笑った。
そして蒼麻を見つめる。
ほんの数秒。
何かを確かめるように。
「面白い子」
そう呟いて姿を消した。
真響は額を押さえた。
「またか」
「何がだ」
「お前は気に入られた」
蒼麻は嫌な予感しかしなかった。
夜風だけが静かに境内を吹き抜けていた。
だがこの日を境に、黄狐・深宵は蒼麻へ少しずつ関わるようになっていくのだった。




