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第五十八話 剣と酒と縁結び

神代(あおい)は諦めなかった。


蒼麻がそう確信したのは、最初に飲んでから三日後のことだった。


麻那に頼まれた雑務を終え、和灯へ向かう途中、後ろから声がかかる。


「蒼麻」


振り返ると、そこには葵がいた。


相変わらず顔がいい。


俳優のように整った顔立ちに、人当たりの良い穏やかな雰囲気。初対面の相手なら剣士よりも営業職や研究職だと思うだろう。


だが蒼麻は知っている。


この人は酒が好きだ。


たぶん、自分と同じくらい。


「飲まないか」


「飲みます」


蒼麻は即答した。


葵は満足そうに頷く。


「剣術は?」


「やりません」


「そうか」


残念そうではあったが、諦めた顔ではなかった。


蒼麻は嫌な予感しかしなかった。


その夜の店は和灯ではない。


葵のお気に入りだという古い居酒屋に案内してくれた。


暖簾は色褪せているが、手入れは行き届いている。焼き魚が旨く、肴も丁寧で、日本酒の品揃えも良い。


蒼麻としては非常に評価が高かった。


「良い店ですね」


「そうだろう」


葵は少し嬉しそうだった。


注文した燗酒が運ばれてくる。


二人は盃を合わせ、ゆっくり飲み始めた。


酒の話は尽きなかった。


蒼麻は途中で思った。


やっぱりこの人、酒しか考えていない。


だが気づけば自分も同じだった。


「そういえば葵さん」


「なんだ」


「神代では何してる人なんです?」


葵は少し考え、そして真面目に答える。


「剣だな」


「仕事じゃなくて生き方じゃないですか」


「そうかもしれん」


否定しなかった。


蒼麻は苦笑する。


「流派とかあるんですか?」


「ある」


「一つですか?」


「いくつか」


嫌な予感がした。


「いくつです?」


「数えていない」


「適当な返事だな」


葵は酒を飲みながら続ける。


「覚えているだけでも十は超えている」


蒼麻は危うく酒を吹きそうになった。


「十?」


「もう少しあるかもしれん」


「そんなに手をだしてどうする気ですか」


「勉強だ」


全然参考にならなかった。


その時だった。


店の奥から小さな悲鳴が聞こえた。


女性客が青ざめた顔で空席を見つめている。


蒼麻もそちらへ目を向けた。


誰も座っていない席。


そこへ酒が注がれていた。


誰も触れていない徳利がひとりでに傾き、猪口へ酒を注ぎ続けている。


とくとく、と静かな音だけが響く。


店内の空気が変わった。


蒼麻は眉をひそめる。


「怪異か」


「らしいな」


葵も立ち上がった。


徳利は止まらない。


猪口から酒が溢れても注ぎ続ける。


まるで存在しない誰かへ酒を捧げているようだった。


葵はそれを見て静かに呟く。


「縁結びだな」


蒼麻は目を細めた。


彼の目には別のものが見えていた。


空席の周囲に絡み合う無数の糸。


赤い糸。


白い糸。


黒い糸。


数え切れないほどの縁が複雑に絡み合っている。


「違うな」


蒼麻は言った。


「どう見える」


葵が聞く。


「結んでるんじゃない」


蒼麻は糸を見つめたまま答えた。


「結べなかった縁を、無理やり結び直してる」


葵が少し笑った。


「やはり面白いな」


普通の術者なら怪異を見る。


霊を見る。


術式を見る。


だが蒼麻は違う。


縁を見る。


それが葵には興味深かった。


その時、一人の男が席を立った。


目が虚ろになっている。


ふらふらと空席へ向かい、そこへ手を伸ばした。


「待ってくれ」


声が震えている。


「行かないでくれ」


誰もいない。


だが男には何かが見えている。


終わったはずの関係。


終われなかった想い。


怪異はそれらを無理やり繋ぎ直していた。


葵が静かに聞く。


「蒼麻。どうする」


「ほどく」


即答だった。


葵は頷いた。


「だろうな」


怪異が膨れ上がる。


店中の縁を引っ張り始めた。


失恋。


未練。


後悔。


別れ。


忘れられない記憶。


様々な感情が糸となって集まってくる。


蒼麻は赤ペンへ手を伸ばした。


だが、その前に空気が変わった。


葵だった。


穏やかな雰囲気が消える。


ただ静かに立つ。


それだけなのに、店内の空気が張り詰めた。


黒髪の奥を黄金の光が走る。


瞳の奥には剣を思わせる紋様。


肌が光るわけでも、髪色が変わるわけでもない。


だが、そこに立つだけで周囲が理解してしまう。


強い。


理屈ではなく、本能でそう感じる。


経津主神。


軍神であり、武神。


その気配が一瞬だけ葵の背後へ現れた。


抜刀の構えをとる葵をみて、蒼麻は思わず息を呑む。


「斬るぞ」


葵が言った。


「縁は切らないでくださいね」


「分かっている」


次の瞬間だった。


葵の指がわずかに動く。


刀は抜いていない。


そもそも刀を持ってすらいない。


それなのに怪異の中心だけが裂けた。


蒼麻は目を見開く。


「今何をしたんです?」


「斬った」


「何も持ってないじゃないですか」


「お前に見えるのはまだ早い」


嫌な返事だった。


しかしその一撃で怪異の核が露出する。


蒼麻は赤ペンを取り出した。


「終わった縁は終わりへ」


赤い線を引く。


「結ばなかった縁は自由へ」


さらに線を重ねる。


「無理やり結ぶな」


赤い線が光り、怪異の核を貫いた。


絡み合っていた糸がほどけていく。


重なり合っていた未練が解けていく。


やがて怪異は静かに崩れた。


店内の空気が軽くなる。


虚ろだった男も我に返った。


「あれ……?」


未練だけが残る。


怪異は消える。


蒼麻は息を吐いた。


「終わったか」


葵は何事もなかったように席へ戻った。


そして酒を飲む。


本当に何事もなかったかのように。


「蒼麻」


「なんです」


「お前、やっぱり剣術やってみないか」


蒼麻は吹き出した。


「今その流れですか」


「今だからだ」


「やりません」


葵は少し残念そうな顔をした。


そして笑った。


「そうか」


蒼麻は盃を持ち上げる。


変な人だ。


だが良い人でもある。


そして、とんでもなく強い。


そんなことを思いながら、二人は再び酒の話へ戻っていった。


後日。


麻那は提出された報告書を読みながら深いため息を吐いていた。


怪異案件そのものは問題ない。


だが備考欄が良くない。


そこにはこう書かれていた。


なお、神代葵は蒼麻への剣術勧誘を継続中。


麻那は静かに頭を抱えた。




その頃、葵は(すみれ)と酒を飲んでいた。


「あいつは面白いぞ」


不意にそう言う。


菫は盃を置いた。


「誰がですか?」


「蒼麻だ」


菫は少しだけ笑った。


また一人、師匠が気に入ったのだと理解したからだ。


そして葵は気づいていない。


酒の席で語るその顔が、剣の話をしている時より少しだけ楽しそうだということに。

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