第五十七話 飲み友達と勧誘
その夜、蒼麻は珍しく一人で飲みに出ていた。
和灯ではない。
神代の仕事も入っていない。
ただ純粋に酒が飲みたかった。
そういう日がある。
ふらりと入ったのは駅から少し離れた場所にある小さな居酒屋だった。観光客はほとんど来ない。地元客ばかりの店だが、日本酒の品揃えだけは妙に良い。
蒼麻はカウンターへ座り、燗酒を頼んだ。
しばらくして出された徳利から、ふわりと米の甘い香りが立ち上る。
思わず頬が緩んだ。
「いい酒だなぁ」
独り言のつもりだった。
すると隣から声が返ってきた。
「分かりますか」
蒼麻は振り向いた。
そこにいた男を見て、最初に思ったことは一つだった。
圧倒的に顔がいい。
年齢は三十代前半くらいだろうか。
黒髪は自然に流し、服装も地味だ。だが妙に目を引く。俳優のような整った顔立ちで、柔らかな雰囲気がある。威圧感はなく、むしろ人当たりが良さそうだった。
そんな男が、一人で燗酒を飲んでいた。
「熱すぎず、この温度がいい」
蒼麻は頷いた。
「分かります。燗って熱ければいいってものじゃないんですよね」
男も頷く。
「整ったアルコールがまた分離してしまう」
「そうなんですよ」
それだけだった。
だが酒飲み同士には十分だった。
二人は自然に話し始めた。
米の話。
酵母の話。
燗の温度。
蔵ごとの癖。
肴との相性。
話題は尽きなかった。
蒼麻は途中で思った。
この人、酒の事しか考えてないな。
だが気づけば自分も同じだった。
飲んで、語って、また飲む。
店主まで途中から笑っている。
「珍しいなぁ」
「何がです?」
蒼麻が聞く。
「その人が初対面の人とこんなに話すの」
男は少しだけ苦笑した。
「酒の話だからだろう」
その返答に蒼麻は妙に納得した。
気づけば閉店時間だった。
男が立ち上がる。
「楽しかった」
「俺もです」
「また飲もう」
「ぜひ」
名前も聞かなかった。
酒の話だけして別れた。
それで十分だった。
翌日。
神代商工会。
蒼麻は麻那に昨夜の話をしていた。
「すごかったんだよ」
「へぇ」
「酒にめちゃくちゃ詳しい」
「へぇ」
「全然酔わない」
「へぇ」
「しかも話が面白いイケメン」
麻那は書類から顔を上げない。
「それで?」
「また飲もうってなった」
「良かったね」
反応が薄い。
蒼麻は少し不満そうな顔をした。
その時、扉が開いた。
「失礼する」
聞き覚えのある声だった。
蒼麻が振り向く。
昨日の男が立っている。
「あ」
向こうも気づいた。
「お」
麻那が固まった。
数秒後、深いため息を吐く。
「なんで」
蒼麻は嬉しそうに立ち上がった。
「昨日の人!」
男は頷く。
「昨日の人だ」
「知り合いだったの?」
蒼麻が麻那へ聞く。
麻那は逆に聞き返した。
「知らなかったの?」
「知らない」
「名前も?」
「聞いてない」
「なんで聞いてないの?」
「飲んでたから」
麻那は額を押さえた。
男はそんな二人を見て少し笑う。
そして蒼麻へ手を差し出した。
「神代葵だ」
蒼麻は固まった。
「神代だったのか」
「神代だ」
「知らなかった」
「だろうな」
葵は当然のように席へ腰を下ろした。
麻那はまだ頭を抱えている。
「お兄ちゃん」
「何」
「その人、神代一族でもかなり上の人だからね」
「へぇ」
「へぇじゃない」
蒼麻は本当に驚いていなかった。
昨日はただの飲み友達だった。
今日もその延長にしか見えない。
葵はそんな蒼麻をじっと見ていた。
かなり長く。
蒼麻が落ち着かなくなるくらい。
「なんです?」
葵は真顔だった。
「剣やらないか」
麻那が机に突っ伏した。
「始まった」
蒼麻は首を傾げる。
「剣ですか?」
「才能がある」
「どういう流派ですか?」
「分からん」
「分からんのかい」
葵は腕を組んだ。
「だが絶対に才能がある」
「嘘っぽいなー」
「剣やってみないか」
「やりません」
即答だった。
葵は少し残念そうな顔をする。
「即答か」
「酒の方が好きなんで」
「もったいない」
「そんなこと言われても」
麻那が横から口を挟む。
「諦めてください」
「まだ早い」
「何がですか」
「勧誘終了が」
蒼麻は嫌な予感がして、麻那は確信していた。
この人は諦めない。
葵は蒼麻を見ながら言う。
「昨日、酔っていたのに足運びがまったく崩れなかった」
「そうですか?」
「反応も悪くない」
「酒飲んでただけじゃないですか」
「それでもだ」
葵は真面目だった。
冗談ではない。
本気で蒼麻を見ている。
そして蒼麻自身は気づいていないが、葵には分かっていた。
この男は戦うために鍛えられた人間ではない。
なのに身体の使い方には古式に通じる妙な無駄のなさがある。
何より、相手と向き合う時の視線がいい。
斬るためではない。
見極めるための目だ。
それが気になって仕方なかった。
利用したいわけではない。
試したいわけでもない。
ただ育ててみたい。
そんな感覚だった。
「剣術やってみないか」
葵はもう一度言った。
蒼麻は笑う。
「酒の方が好きなんで」
「そうか」
葵は頷いた。
だが諦めた顔ではなかった。
麻那が呟く。
「終わらないなこれ」
その日から神代葵は、蒼麻を見るたびに言うようになる。
「剣術やってみないか」
そして蒼麻も毎回同じように答える。
「酒の方が好きなんで」
神代一族屈指の剣士と、酒好きの調査員。
奇妙な縁は、そんな酒席から始まったのだった。




