第五十六話 水路の迷い紙
依頼が持ち込まれたのは、梅雨入りを間近に控えた六月の終わりだった。
和灯の暖簾をくぐったのは、神奈川県西部で代々続く小さな酒蔵の若い蔵元だった。酒造りに使う仕込み水を引く山水路で、奇妙な出来事が続いているという。
「紙が流れてくるんですよ」
その一言に、蒼麻は箸を止めた。
「紙、ですか?」
「はい。白い和紙なんですが、ただ流れてくるだけじゃありません」
蔵元は困ったように笑う。
「水路を掃除して捨てても、翌朝にはまた流れてくるんです。それに、その和紙を拾った蔵人が決まって道に迷うようになりまして……」
酒蔵は山裾に建っていた。
仕込み水はさらに山奥の沢から木樋と石造りの水路を通って引かれている。
長年使われてきた水路で、土地の人々にとっては生活の一部だった。
しかしここ数週間、白い紙片が絶え間なく流れてくるようになったという。
紙を取り除いても翌日には元に戻る。
放っておけば水路は詰まる。
そして紙に触れた者は、帰り道や山道で方角を失う。
山を知り尽くした猟師ですら、一時間ほど同じ場所を歩き続けたという。
「なにかの怪異ですね」
真響も静かに言う。
「しかも土地に根を張ってるようだな」
蒼麻は翌日、酒蔵へ向かった。
今回は麻那を呼ぶほどの規模ではない。
同行したのは真響だけだった。
山へ入ると空気が変わる。
水の匂い。
苔の匂い。
長く人に守られてきた山独特の静けさ。
その中を、細い水路が静かに流れていた。
「これか」
蒼麻が身を屈める。
水面には白い紙が一枚、また一枚と流れている。
不思議なのは、上流には紙が見当たらないことだった。
まるで水そのものが紙を生み出しているようだった。
蒼麻が一枚拾い上げる。
和紙には何も書かれていない。
真っ白だった。
だが指先へ触れた瞬間、景色が揺らぐ。
沢の流れる音が遠ざかる。
山道が増える。
木々の位置が少しずつ変わる。
「蒼麻」
真響の声で意識が戻った。
気付けば、ほんの数歩先にいたはずの真響がずいぶん遠くに見えていた。
「今、一瞬迷ったな」
「……ああ」
蒼麻は紙を見つめる。
「道を隠してるんじゃない」
真響も頷いた。
「帰る場所を忘れさせる怪異だ」
二人は水路を上流へ辿った。
源流近くまで来ると、古びた石祠が姿を現した。
半ば苔に埋もれ、屋根も崩れかけている。
蔵元の話では、昔は毎年この祠へ酒を供えていたらしい。
だが蔵人が減り、代替わりを重ねるうちに、誰も訪れなくなったという。
「忘れられたか」
真響が小さく呟く。
その瞬間だった。
水路いっぱいに白い紙が溢れ出した。
何百枚もの紙片が渦を巻きながら空へ舞い上がる。
風もないのに舞う紙は、やがて人影のような形を作り始めた。
顔のない白い影。
輪郭だけが人を模している。
得体の知れないそれは一歩ずつ蒼麻へ近付いてきた。
「帰れ」
幾重にも重なる声が響く。
「そして帰る場所を忘れろ」
紙が足元へ絡み付いていく。
視界が白く染まり、意識が白濁してゆく。
山道が消える。
木々のさえずりも遠のいてゆく。
水路のせせらぎも届かない。
真響の姿さえも認識できなくなる。
これは、まずい。
蒼麻は静かに息を吐いた。
胸の奥で何かが応える。
鼓動が一つ、大きく鳴った。
その瞬間、蒼麻の瞳に金色の神紋が浮かび上がる。
空気が静かに鳴動する。
瞳の奥には、幾重にも重なる光の輪が宿る。
呼吸と共に周囲の空気が張り詰め、足元の水面が細かく震えた。
建葉槌命。
機織りの神であり、国土を切り拓き、道を定める神。
二大軍神である経津主神、武御雷神をもってしても制圧できなかった天津甕星という星神を平定した多くの別名を持つ神。
強力な武神なので本来は武刃槌命ではないかという説もある。
そんな謎の機織りの神が、強力な神気が蒼麻に宿り顕現しつつある。
神降しは完全ではない。
それでも、その権能の一端が蒼麻の身体へ流れ込みはじめる。
蒼麻は静かに右手を掲げた。
「道は、人が歩いたから道になる」
その言葉と同時に、水路の流れが大きく脈打った。
全ての白い和紙が一斉に裂ける。
迷いを生み出していた流れそのものへ、建葉槌命の力が楔を打ち込んだ。
「忘れられたなら、思い出せばいい」
光が水面を弾けるように駆け抜けた。
紙片は次々と水へ溶け、白い影も輪郭を失っていく。
最後に残った一枚が、ゆっくりと石祠の前へ落ちた。
それは初めて文字を浮かび上がらせた。
『ありがとう』
風が吹く。
紙は静かに崩れ、水へ還った。
神降しを解いた蒼麻は小さく息をつく。
指先が少し痺れていた。
建葉槌命の力を借りた代償だ。
真響はその様子を横目で見ながら、石祠へ盃を供えた。
「長い間、待たせたな」
昔、酒蔵には落ち葉を取り除き、枝を払い、水が迷わないようにする水番がいた。
水量をみて祠へ酒を供えて、今年も水を使わせてくださいと挨拶をする。
初めて使う水の一部を神に返し、水害除けとして願いを紙に書いて流す風習。
いつしか受け継がれなくなった水の番。
忘れられた風習。
忘れられた祠。
蒼麻は役目を終えられなかった存在を送り出したのだった。
帰り際、蔵元は深々と頭を下げた。
「明日からまた酒が仕込めます」
蒼麻は笑って頷く。
「いや、まだやることが残ってますよ」
「え?」
蒼麻は石祠を振り返った。
「来年からでもいいです。一本だけでも、ここへ酒を供えてくれませんか」
蔵元はしばらく黙っていたが、やがて力強く頷いた。
「そうですね。それが一番大事なことでした」
山から吹く風が水路を渡る。
水は何事もなかったように静かに流れていた。
白い紙は、もう一枚も浮かんではいなかった。




