第五十五話 未完了タスクの怪異
麻那の目が死んでいた。
和灯に入ってきた瞬間、蒼麻はそう思った。
普段の麻那は、どれだけ疲れていても最低限の身だしなみと表情を保っている。仕事用の顔、妹の顔、神代の術者としての顔。それらを器用に切り替えながら、蒼麻を軽く叱るだけの余裕は必ず残していた。
だが、その夜の麻那は違った。
席に着くなり、鞄を下ろし、静かに額を押さえた。
「お兄ちゃん」
「何」
「仕事が終わらない」
蒼麻は真顔で頷いた。
「それは怪異じゃなくても怖いな」
蓮二は何も聞かず、今日は温かい湯豆腐を出した。昆布の香りがふわりと立ち、刻み葱と柚子皮が小皿に添えられている。
「まず食べて。胃に優しいやつ」
「ありがとうございます……」
麻那は箸を取ろうとした。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
画面には、神代商工会の業務管理システムからの通知。
未完了タスクがあります。
麻那の手が止まる。
「……今、完了処理したはず」
もう一度端末を操作する。画面上のタスク一覧には、確かに完了済みの表示が並んでいる。麻那はそのうちの一つを開き、完了ボタンを押した。
表示が変わる。
完了しました。
三秒後。
未完了タスクがあります。
麻那の目が、さらに死んだ。
蒼麻は隣から画面を覗き込む。
「嫌すぎる」
「本当に嫌ぁ」
真響は静かに盃を置いた。
「仕事の怪異か」
「一番出てほしくない種類ですぅ」
麻那の声には、実感がこもっていた。
その時、麻那の端末だけではなく、蒼麻のスマートフォンも震えた。蓮二の店のFAXも鳴る。圭吾の端末にも通知が飛ぶ。
圭吾は青ざめた顔で画面を見た。
「俺、今日休みなのに、三年前の修正依頼が未完了になってる」
蒼麻は思わず眉を寄せた。
「三年前?」
「広告案件。もう納品した。請求も終わった。打ち上げもした。なのに今さら“確認中”に戻ってる」
蓮二が店の電話を見た。
「うちは、一昨年仕入れた焼酎の納品確認が未完了になってる」
「2年前納品の請求はさすがに執念ですね」
麻那が端末を操作しながら言う。
「神代商工会の業務管理システムに何か入り込んでいます。完了済みの作業が、次々と未完了に戻されている」
「誰がそんな地獄みたいなことを」
蒼麻が呟いた瞬間、和灯の照明が一度だけちらついた。
カウンターの上に、小さな付箋が一枚落ちた。
黄色い付箋。
そこには、丸い字でこう書かれていた。
あとでやる。
蒼麻、麻那、蓮二、圭吾が同時に黙った。
真響だけが淡々と言う。
「人間の呪文だな」
「やめろ。刺さる」
蒼麻が言うと、付箋はひとりでに増えた。
あとで確認。
要対応。
一旦保留。
念のため再確認。
誰か返事して。
担当者不明。
差し戻し。
至急。
なる早。
圭吾が悲鳴に近い声を出す。
「なる早は駄目だ! あれは人類を滅ぼす言葉だ!」
麻那が静かに頷く。
「同意します」
黄色い付箋は和灯の壁、カウンター、椅子、酒瓶にまで貼りつき始めた。貼られた場所から、細い影のようなものが伸びる。それは人の手首に絡み、何かを終わらせようとする気力をじわじわ吸っていく。
蓮二は眉をひそめた。
「うちの酒瓶に“要確認”を貼るな」
そこには、本気の怒りがあった。
真響の黒い狐火が灯る。
「燃やすか」
麻那がすぐに止めた。
「待ってください。全部燃やすと、未完了のものまで消える可能性があります」
「消えて困るのか」
「困ります。完了していないものも混ざっているので」
蒼麻は額を押さえた。
「そこが一番嫌だな」
付箋の束が、店の中央で人の形を取り始めた。
薄い灰色のスーツ。手にはクリップボード。顔の代わりに、無数のチェックボックスが並んでいる。目に当たる場所にも、口に当たる場所にも、ただ四角い未チェック欄がある。
それは感情のない声で言った。
「未完了です」
麻那の表情が険しくなる。
「何が」
「すべてです」
「それは違います」
「再確認が必要です」
「確認済みです」
「差し戻しです」
麻那のこめかみに、薄く青筋が浮いた。
蒼麻は小声で言う。
「麻那が本気で怒る五秒前」
「もう怒ってる」
麻那は静かに立ち上がった。
「完了したものを未完了に戻すのは、業務妨害です」
「確認が必要です」
「確認済みです」
「念のため再確認を」
「念のためで人を殺す気ですか」
圭吾が震えながら呟く。
「麻那さん、社会人の怒り方だ……」
未完了タスクの怪異は、麻那を見た。
「あなたは抱えすぎています」
麻那の動きが一瞬止まる。
「兄の監視。神代商工会の業務。奥之院への報告。蒼麻周辺の結界管理。蘭の件。麗樹の件。酒蔵案件。怪異対応。未完了です。未完了です。未完了です」
付箋が一斉に麻那へ向かう。
蒼麻が立ち上がった。
「麻那!」
真響の狐火が走り、付箋の群れを焼き止める。だが、焼かれた付箋は灰になる直前、別の付箋へ転写された。
再発行。
真響が目を細める。
「しつこいな」
「仕事ってしつこいんだよ」
圭吾が妙に実感のこもった声で言った。
麻那は深く息を吸った。
「大丈夫。これは私がやる」
蒼麻はすぐに言い返す。
「その台詞が危ないんだよ」
「でも、私の仕事だから」
「全部お前の仕事か?」
麻那は答えられなかった。
その沈黙を狙うように、怪異が言う。
「あなたが処理しなければ、終わりません」
麻那の顔がこわばる。
その時、軒先の風鈴が鳴った。
ちりん。
涼しい音が和灯に入ってくる。
付箋の一部が、水に濡れたように淡く滲んだ。
「それは半分嘘だね」
蒼い水紋が床を流れた。
蒼狐・翠霞が、カウンターの端に腰かけていた。相変わらず、いつからそこにいたのか分からない。
真響が不機嫌そうに言う。
「また来たか」
翠霞は笑った。
「滞ってるものがあると、ついね」
「仕事の滞りにまで来るのか」
「流れないものは腐るよ。仕事もね」
麻那は翠霞を見た。
「では、全部流せば終わりますか」
翠霞は首を振る。
「全部流したら、必要なものまで流れる。だから分けるんだよ。終わったもの。終わっていないもの。誰かに渡すもの。今は置いておくもの」
「保留ですか」
蒼麻が聞くと、翠霞は楽しそうに頷いた。
「保留。でも、腐らない保留」
真響が静かに言う。
「逃げの保留ではなく、置き場のある保留だな」
「そういうこと」
珍しく二柱の意見が合った。
麻那は端末を見つめる。
画面には、無数の未完了タスクが並んでいる。だがよく見ると、本当に未完了のもの、確認済みなのに戻されたもの、麻那が抱えなくていいもの、誰かに渡すべきものが混ざっていた。
麻那は小さく息を吐いた。
「……全部、私がやる必要はない」
言葉にした瞬間、付箋のいくつかが剥がれ落ちた。
蒼麻は赤ペンを取り出す。
「じゃあ、分けようか」
未完了タスクの怪異が迫る。
「再確認が必要です」
「必要な確認だけな」
蒼麻はカウンターの上に赤い線を引いた。
「終わったものは、終わりへ。未完了のものは、担当へ。抱えすぎたものは、持ち主へ。今は置くものは、置き場へ」
麻那が弓を構える。背後には天穿日子の気配。
「システムの核を出します」
天羽々矢と呼ばれる霊的な矢が端末の画面へ向けて放たれる。
物理的に端末を壊す矢ではない。画面の奥に潜む怪異の核だけを射抜く神代の矢だった。
表示が揺れ、膨大な付箋の奥から黒いチェックボックスが浮かび上がる。
未完了。
その一語だけが、異様に濃い。
翠霞の水紋が店内を巡り、付箋を分類していく。真響の狐火は、すでに終わったはずのものへ絡みついた執着だけを焼いた。
蒼麻は赤ペンで、黒いチェックボックスに線を引く。
「終わったものを、戻すな」
線が光った。
チェックボックスに、ひとつだけ印が入る。
完了。
その瞬間、怪異の体が大きく崩れた。
「再確認が――」
「必要なものだけ」
麻那が矢を二本目につがえる。
「差し戻しは、理由を明記してください」
矢が放たれる。
付箋の束が弾けた。
「担当者不明は、担当を決めます」
三本目。
「なる早は、期限ではありません」
四本目。
圭吾が感動したように呟いた。
「今の、社会に広めたい」
蓮二が頷く。
「額に入れて貼りたいな」
未完了タスクの怪異は、最後に麻那へ手を伸ばした。
「あなたがやらなければ」
麻那はまっすぐそれを見た。
「私がやるものはやります。でも、私が全部やるとは言いません」
その言葉で、怪異の輪郭が完全に崩れる。
大量の付箋は、店内を舞い上がり、やがていくつかの束に分かれた。
完了済み。
未完了。
委任。
保留。
破棄。
麻那の端末が震える。
画面には、正常化されたタスク一覧が表示されていた。
麻那はそれを見て、深く息を吐いた。
「……終わった」
蒼麻がすぐに言う。
「今日はもう仕事するな」
「でも、未完了が三件残ってる」
「明日」
「でも」
蓮二が湯豆腐を麻那の前へ押し出した。
「今はこれが未完了」
麻那は一瞬きょとんとした。
真響が言う。
「食え」
翠霞も笑う。
「それは今日中に完了しよう」
麻那は少しだけ笑った。
「……はい」
彼女はようやく箸を取り、湯豆腐を口に運んだ。温かさに、張り詰めていた肩が少し下がる。
圭吾は端末を見ながら言った。
「俺の三年前の修正依頼、消えた」
「よかったですね」
「でも、別の未返信が三件出てきた」
「それは自力で返してください」
蒼麻が言うと、圭吾は泣きそうな顔をした。
蓮二は酒瓶についた最後の付箋を剥がした。
そこには小さく、
要味見。
と書かれていた。
蓮二は蒼麻を見た。
「これは?」
蒼麻は真顔で言った。
「重要タスクです」
麻那がすぐに言う。
「却下」
「厳しいな」
真響は盃を差し出した。
「私は確認する」
「真響さんまで」
翠霞の姿は、いつの間にか薄れていた。
消える直前、彼女は麻那へ言った。
「流すのと、放り出すのは違うよ」
麻那は小さく頷いた。
「覚えておきます」
翠霞は満足そうに笑い、蒼い水紋とともに消えた。
和灯に、いつもの静けさが戻る。
ただ、麻那の端末はその後しばらく鳴らなかった。
蒼麻は盃を持ち上げる。
「未完了って、怖いな」
蓮二が答える。
「でも、全部終わらせようとするのも怖いな」
麻那は湯豆腐を食べながら、少しだけ笑った。
「今日は、食べるところまでで完了にします」
真響が頷く。
「よい判断だ」
その夜、麻那は珍しく仕事の話をせずに酒を飲んだ。
そして帰る頃には、目が少しだけ生き返っていた。




