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第五十四話 水違いの酒宴

名刺の角の一件が収まったあとも、交流会の空気はどこか落ち着かなかった。


表向きは何事もなかったように、参加者たちは笑顔を取り戻している。名刺で指を切った者たちも、ホテル側が用意した絆創膏を貼り、苦笑しながら「妙なこともあるものですね」と話していた。


けれど、蒼麻には分かっていた。


まだ終わっていない。


会場の奥に並ぶ日本酒の瓶。

氷水に浸された四合瓶。

燗酒用の徳利。

利き酒用の小さな猪口。


どれもきちんと管理されている。


温度も悪くない。

香りも立っている。

銘柄も、地方創生を謳う会合らしく、各地の小規模蔵からよく選ばれている。


なのに、何かがずれていた。


蒼麻は猪口を手に取り、香りを確かめた。


「……水が違う」


隣で麻那が顔を上げる。


「水?」


「酒そのものは悪くない。けど、水の縁が迷ってる感じがする」


麻那は眉を寄せた。


「それ、よくわかんないけど結構まずい表現だね」


「うん。俺もそう思う」


少し離れた場所で、その会話を聞いていた男がいた。


幕原 宴司(まくはら えんじ)


そう名乗った男。


本当の名は、神代宴(かみしろ うたげ)


彼は相変わらず柔らかな笑みを浮かべていたが、目だけは蒼麻から離していなかった。


名刺の角の怪異をほどいた時もそうだった。


蒼麻は、怪異を術式として見ていない。


場の歪み、人の縁、物に宿った意味。


そういうものへ、直接手を伸ばしているように見える。


宴は内心で評価を修正していた。


神代蒼麻。


弱いわけではない。


ただ、力の出方が一般的な術者と違いすぎる。


判断に困る。


警戒対象か。

保護対象か。

監視対象か。


現時点では、そのどれでもある。


「蒼麻さん」


幕原が声をかけた。


蒼麻は振り返る。


「あ、幕原さん」


「先ほどはお見事でした」


「名刺の件ですか。あれは、たまたまです」


「たまたまであれができるなら、世の術者はだいぶ困るでしょうね」


蒼麻は苦笑した。


「術者って言われるほど、ちゃんとしたものじゃないですよ」


宴はその言葉を聞き流さなかった。


ちゃんとしていない。


蒼麻自身は本気でそう思っているのだろう。


だが、だからこそ厄介だった。


自覚が薄い者ほど、境界を越える時に躊躇がない。


宴は視線だけで会場を見渡した。


「実は、もう一つ気になっていることがあります」


「俺もです」


「酒ですか」


「酒です」


即答だった。


宴は少しだけ笑った。


「本当に酒がお好きなんですね」


「そこは疑わなくていいです」


麻那が横から小さく言う。


「むしろ、そこだけは信用できます」


「妹からの信用が偏ってる」


「事実だから」


宴はそのやり取りを見ながら、蒼麻の周囲の空気を測っていた。


麻那は兄を守る位置にいる。


黒狐真響(こくこ まゆら)は、今は会場の外にいるらしい。神代系企業の会合に黒狐を入れるのは刺激が強すぎる、と麻那が判断したのだろう。


だが、それでも蒼麻の周りには妙な静けさがある。


神代の血。

九尾狐の欠片。

麻臣の封鎮。

そして、酒へ向かう異様な親和性。


宴は内心で呟いた。


麻臣さん。

やはり、あなたは隠しすぎた。


その時、会場の中央で笑い声が上がった。


いや、笑い声のはずだった。


しかし、次の瞬間、その声は急に硬くなる。


「いやあ、御社との提携は大変光栄で……本音を言えば、条件が悪すぎて腹立たしいですが」


言った本人が凍りついた。


周囲も静まり返る。


相手の企業役員は、顔を引きつらせた。


別の場所では、若い担当者が上司へ深々と頭を下げている。


「いつもご指導ありがとうございます。正直、毎回言うことが変わるので現場は地獄です」


蒼麻は顔をしかめた。


「本音と建前が混ざってる?」


麻那がすぐに端末を確認する。


「発言異常が複数。精神干渉というより、場の性質が変わってる」


宴が静かに猪口を置いた。


「酒席の向きが狂っています」


蒼麻が彼を見る。


「向き?」


「上座と下座。本音と建前。酌む側と酌まれる側。和ませる酒と、(あば)く酒。その境目がずれている」


宴は柔らかく言った。


「席が乱れると、人も乱れます」


「幕原さん、何者ですか」


「文化支援事業の外部顧問です」


「なんか嘘っぽいです」


「よく言われます」


麻那がじっと宴を見た。


彼女も気づき始めている。


この男は、ただの外部顧問ではない。


しかし、今は追及する場面ではなかった。


会場の奥で、また異変が起きた。


燗酒用の徳利を持った給仕の女が、ゆっくりと客へ酒を注いでいる。


だが、その女はホテルのスタッフではない。


薄い着物姿。

白粉を塗ったような顔。

唇だけが赤い。

目元は笑っているのに、瞳がない。


徳利から注がれる酒は澄んでいた。


しかし、注がれた相手は口にする前から、胸の奥に隠していた言葉を吐き出していく。


「あの蔵は、買い叩けると思っていました」


「地方文化支援なんて、看板にちょうどいいだけです」


「あなたの話はいつも長い」


「本当は、もう辞めたい」


場が壊れ始めていた。


宴の表情が変わる。


「水違いの酌女」


「知ってるんですか」


蒼麻が聞くと、宴は頷いた。


「酒宴に出る小怪異です。悪意よりも、歪んだ()()()()()に近い。嘘を飲ませるくらいなら、本音を出した方がよい、と考えている」


「迷惑すぎる」


「酒席ではよくあることです」


「よくあったらたまりませんね」


麻那が弓を出しかける。


だが、宴が手で制した。


「ここで射ると、会場中の本音が一気に噴き出します」


「最悪ですね」


「ええ。社会的にはかなりの惨事になります」


「社会的には?」


蒼麻が聞くと、宴は微笑んだ。


「霊的には小規模です」


「その分類、嫌ですね」


酌女は、次の客へ酒を注ごうとしていた。


蒼麻はその前へ出る。


「すみません。その酒、俺にももらえますか」


酌女が顔を向ける。


瞳のない目で、蒼麻を見る。


「お客様には、まだ早うございます」


「酒に早い遅いがあるなら、なおさら味を確認しておきたいですね」


麻那が小声で言う。


「お兄ちゃん、変なところで酒飲み根性出さないで」


「飲まない。んん、たぶん」


「たぶんはやめて」


酌女は静かに笑った。


「このお酒は、嘘を洗います。建前を流します。本音だけが残ります」


蒼麻は徳利を見る。


「違うな」


酌女の動きが止まる。


「それ、本音を出してるんじゃない。水の縁を入れ替えてるだけだ」


蒼麻は近くの猪口を取り、酌女が持つ徳利から一滴だけ受けた。


酒の香りが立つ。


しかし、その奥で水が迷っている。


本来この酒を育てた水脈ではない。


どこか別の土地の水の縁が、無理やり混ぜ込まれている。和ませるための酒に、暴くための水が差し込まれている。


酒が悪いのではない。


水が迷子なのだ。


宴はそれを聞いて、目を細めた。


「そんなことが分かるのですか」


「分かるというより、嫌な感じがします」


まただ。


宴は胸の内で思う。


この男は、術式の形ではなく、歪みの感触を見ている。

明らかに普通ではない。


蒼麻は猪口を置き、赤ペンを取り出した。


だが、すぐには線を引かない。


「幕原さん」


「はい」


「席の向きを整えるって、できます?」


宴の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


「席を整えるだけなら」


「だけ、ですか」


「ええ。私は外部顧問なので」


「その設定、いつまで続けます?」


「できるだけ長く続けます」


(うたげ)は盃を一つ取り、会場中央の卓へ置いた。


その動作は何気なかった。


だが、空気が変わる。


東西南北。

上座と下座。

酌む者と酌まれる者。

本音と建前。

酒と水。


それらの向きが、わずかに本来の位置へ戻る。


寒川の気配。


八方を鎮め、方位の乱れを整える神の影が、一瞬だけ宴の背後に立った。


麻那の目が鋭くなる。


「今の……」


宴は涼しい顔で言った。


「席を整えただけです」


「絶対それだけじゃない」


蒼麻はそう言いながらも、今は乗った。


会場の向きが整ったことで、酌女の持つ徳利から黒い水筋が見え始める。


蒼麻はその水筋へ赤い線を引いた。


「酒は酒へ。水は水へ。建前は建前へ。本音は本音へ」


赤い線が、徳利の表面を走る。


「混ぜるな。酔わせるな。暴くなら、本人が選べる時にしろ」


酌女が初めて表情を歪めた。


「嘘は、苦しゅうございます」


「嘘が必要な場もある」


蒼麻は言う。


「全部本音ならいいってもんじゃない。酒席は裁判所じゃないんだよ」


宴が小さく笑った。


「これは名言ですね」


「茶化さないでください」


「本気ですよ。水筋が出てきました」


麻那が矢を番える。


「撃てますか」


「撃てます」


麻那の矢が放たれた。


それは酌女を射抜くのではなく、徳利から伸びる黒い水筋だけを貫いた。


水筋が切れる。


宴が盃を軽く回す。歯車が噛み合う気配が周囲を支配する。


会場の空気がもう一度整う。


酌女の姿が薄れていく。


「本音を出すことは、悪ではございません」


消え際、酌女はそう言った。


蒼麻は頷いた。


「分かってる。でも、出す相手と場所を間違えたら、酒がまずくなるんだよね」


酌女は、それを聞いて少しだけ笑ったように見えた。


その姿は徳利の湯気に溶けるように消えた。


会場には、しばらく気まずい沈黙が残った。


だが、完全な破綻は避けられた。


本音を漏らした者たちは顔面蒼白になっているが、まだ修復できる範囲だろう。たぶん。蒼麻はそこまでは保証できない。


麻那は端末をしまいながら、低く息を吐いた。


「被害は最小限……かな」


「社会的には?」


蒼麻が聞く。


麻那は少し考えた。


「中程度」


「結構出たな」


宴は会場の端に移動し、何事もなかったようにグラスを手に取っていた。


蒼麻が近づく。


「幕原さん」


「はい」


「さっきの、席を整えただけじゃないですよね」


宴は笑った。


「おや、そう見えましたか」


「見えたというか、感じました」


「では、そうなのでしょう」


「はぐらかし方が神代っぽいんですよ」


宴の笑みが一瞬だけ薄くなった。


「神代っぽい、ですか」


「はい」


蒼麻はまっすぐ宴を見た。


「幕原さん、神代の人ですか?」


麻那が少し離れたところで振り返る。


宴は数秒、沈黙した。


そして名刺入れを閉じる。


「今は、幕原です」


「今は?」


「ええ。今は」


蒼麻は眉を寄せた。


「それ、答えてるようで答えてないですね」


「よく言われます」


宴は柔らかく笑った。


その表情は穏やかだったが、蒼麻を見る目だけはもう最初と違っていた。


軽く見ていた相手を見る目ではない。


警戒と興味。


そして、ほんの少しの困惑。


宴は思う。


神代蒼麻。


やはり判断に困る。


危険物にしては人が良い。

一般人にしては深すぎる。

術者にしては手順がない。

怪異にしては酒を美味そうに見る。


宴は盃を置いた。


「蒼麻さん」


「はい」


「今度、個人的に飲みに行きませんか」


蒼麻は一瞬で表情を明るくした。


「え、行きます」


麻那が即座に割って入る。


「お兄ちゃん、相手の素性を確認してから」


「でも酒」


「でもじゃない」


宴は声を立てずに笑った。


蒼麻の反応は、あまりにも普通だった。


そして、その普通さが妙に危うい。


会場の隅では、先ほど酌女が持っていた徳利が、空のまま静かに転がっていた。


その底に、ほんの一滴だけ、澄んだ水が残っている。


蒼麻はそれに気づき、そっと拾い上げた。


「この水、戻した方がいいな」


宴は目を細める。


「どこへ?」


「この酒を造った蔵の水へ」


当然のように言う蒼麻を見て、宴はまた思った。


――麻臣さん。

――あなたは、いったい何を隠したんですか。


その問いだけが、酒宴の余韻よりも長く残った。

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