第五十三話 名刺の角
神代グループ関連企業が主催する交流会は、都内の格式あるホテルで開かれていた。
表向きは地方創生と地域産業支援を目的とした会合である。
酒蔵、流通、観光、物流、金融、海外販路開拓――様々な企業の関係者が集まり、情報交換と親睦を深める場だった。
当然、日本酒も並ぶ。
その時点で、蒼麻は半分仕事を忘れていた。
「お兄ちゃん」
隣で麻那が呆れた声を出す。
「何?」
「開始してまだ十分だよ」
「うん」
「もう酒しか見てない」
蒼麻は並べられた瓶を眺めながら首を傾げた。
「だって見たことない銘柄があるし」
「仕事」
「してる」
「してない」
即答だった。
蒼麻は反論しようとしたが、反論材料がなかった。
少し離れた場所で、そのやり取りを眺めている男がいた。
黒いスーツに身を包み、柔らかな笑みを浮かべている。年齢は二十代後半にも三十代前半にも見える。童顔だが、その目だけは妙に冷静だった。
名札には、
幕原 宴司
と書かれている。
もちろん偽名だった。
神代宴。
現在は別任務で動いている。
今日は神代系列企業への脅迫案件と、あるテロ未遂の可能性を追ってこの会場へ潜り込んでいた。
警察機構へ潜入している彼にとって、この種の会合は情報収集の場でもある。
そして、その途中で神代蒼麻を見つけた。
名前だけは知っていた。
麻臣の息子。
九尾狐の欠片を大きく宿す者。
一族内でも扱いに困る存在。
酒好き。
怪異遭遇率異常。
だが、それだけだ。
宴の第一印象は単純だった。
思ったより普通だな。
それが正直な感想だった。
ところが、その認識はすぐに崩れることになる。
最初に異変が起きたのは名刺交換の場だった。
「痛っ」
小さな悲鳴が上がる。
名刺を受け取った男性が指を押さえていた。
血が滲んでいる。
「紙で切ったんですか?」
誰かが聞く。
男は困惑した顔で首を振った。
「いや……名刺の角で」
その言葉に、宴の意識が切り替わった。
一件。
二件。
三件。
立て続けに周囲で同じ現象が起きる。
名刺の角が異常なほど鋭くなり、人の指を切っているのだ。
小さな異常。
しかし確実な怪異だった。
宴は会場を見回した。
術者の気配はない。
露骨な呪術も見当たらない。
だが何かがおかしい。
その時だった。
「名刺そのものかな」
蒼麻が呟いた。
宴は眉をひそめる。
早い。なぜ分かった?
蒼麻は床に落ちた名刺を拾い上げる。
そして角を指でなぞった。
「痛っ」
自分で切った。
麻那が即座に突っ込む。
「お兄ちゃん何してるの」
「確認」
「確認方法がおかしい」
蒼麻は真顔だった。
「でも分かった」
そう言いながら名刺を見つめる。
「これ、名刺じゃないな」
宴は内心で首を傾げた。
何を言っている。
どう見ても名刺だろう。
だが蒼麻は続けた。
「肩書きだ」
その瞬間、宴は妙な違和感を覚えた。
蒼麻は怪異を見ていない。
名刺そのものも見ていない。
もっと別のものを見ている。
蒼麻の視線は会場を巡った。
社長。
専務。
理事。
顧問。
肩書き。
名誉。
権力。
人を押しのけ、人の上に立ち、人を従わせてきたもの。
その重みが、名刺に刺さっている。
「なるほどな」
蒼麻は小さく息を吐いた。
「肩書きで人を刺してた連中の名刺か」
宴は思わず蒼麻を見た。
普通の術者なら呪いを見る。
術式を見る。
霊を見る。
だがこいつは違う。
怪異の核を見ている。
蒼麻は胸ポケットから赤ペンを取り出した。
宴はさらに違和感を覚える。
なんだ、それは。
術具にも神具にも見えない。
ただのペンにしか見えない。
蒼麻は名刺の上へ一本、線を引いた。
すると、それまで誰にも見えていなかったものが現れた。
黒い棘。
名刺の角から伸びる棘だった。
会場がざわめく。
宴もまた、それを見ていた。
今まで見えなかったものが見えている。
蒼麻は淡々と言った。
「名刺は人を紹介するためのものだろ」
もう一本、赤い線を引く。
棘が軋む。
「刺すためのものじゃない」
ぱきり、と音を立てて黒い棘が砕けた。
会場中の名刺から伸びていた棘が次々に崩れていく。
怪異がほどけていく。
宴は黙ってその光景を見ていた。
軽く見ていた。
そのはずだった。
酒好き。
一般人寄り。
戦闘能力不明。
そんな認識だった。
だが違う。
この男は術を見ていない。
もっと根っこの、人と人との関係や意味そのものへ触れている。
宴は思った。
――麻臣さん。
――あなたは何を隠した。
その時だった。
蒼麻がふと振り返る。
視線がぶつかった。
数秒。
ほんの短い時間だった。
蒼麻は人懐こく笑った。
「名刺交換します?」
宴は一瞬だけ固まった。
そして柔らかく微笑む。
「ええ、ぜひ」
差し出された名刺には、
幕原 宴司
という名前。
蒼麻はそれを受け取り、少しだけ首を傾げた。
初対面のはずなのに。
なぜだろう。
どこか神代の匂いがする。
だが、今は分からない。
宴もまた、名刺を受け取りながら蒼麻を見ていた。
神代蒼麻。
思っていたより、ずっと厄介な男かもしれない。
そんな予感だけが、静かに胸の中へ残った。
そして会場の片隅では、まだ一本だけ棘を残した名刺が、誰にも気づかれないまま静かに転がっていた。




