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第五十二話 冷めない燗酒

その夜、和灯には珍しく、年配の男が一人で座っていた。


常連ではない。蓮二も初めて見る客だと言った。


男は六十代の半ばほどで、背筋は伸びているが、どこか影が薄い。濡れた傘を丁寧に畳み、カウンターの端へ腰を下ろすと、静かな声で言った。


「お勧めの燗酒を。できれば、ぬる燗で」


蓮二は頷き、いつものように酒を選んだ。


蒼麻は少し離れた席で真響と飲んでいた。麻那は仕事帰りで、今日は少し遅れて来る予定だった。


「珍しい客だな」


蒼麻が小声で言うと、蓮二は徳利を湯煎(ゆせん)しながら答えた。


「うん。けど、悪い感じはしない」


真響は男の方を見ないまま、盃を傾けた。


「悪くはない。ただ、(ぬる)い」


「燗酒だからな」


「そういう意味ではない」


その言葉の意味は、すぐに分かった。


蓮二が徳利を出してから、しばらく経っても酒が冷めなかったのだ。


男はゆっくり飲んでいる。盃に注がれた酒は、時間が経てば当然冷める。だが、湯気がずっとうっすら立ち続けている。


蓮二が不審そうに目を細めた。


「……蒼麻」


「うん。冷めていかないな」


男は、気づいていない様子だった。


いや、違う。


気づいている。


ただ、気づかないふりをしている。


蒼麻は席を少し移り、男の近くへ座った。


「そのお酒、いい温度ですね」


男は穏やかに笑った。


「ええ。妻が好きだった温度です」


その一言で、和灯の空気が少し変わった。


蓮二は何も言わず、小鉢を一つ出す。だし巻きだった。


男はそれを見て、目元を緩めた。


「これも、妻が好きでした」


蒼麻は黙って酒を見た。


徳利からは、ただ酒の香りだけではないものが立っている。温度。記憶。誰かの手の温もり。


それは怪異というほど荒れてはいない。


けれど、確かに冷めない。


真響が静かに言った。


「温もりを、離せずにいるのか」


男は盃を持つ手を止めた。


「……見える方ですか」


蒼麻は少しだけ苦笑して曖昧に答えた。


「僕たちは見えるというか、たまに巻き込まれます」


「そうですか」


男は、盃の中の酒を見つめた。


「妻が亡くなって、三年になります。最後に二人で飲んだのが、ぬる燗でした。熱すぎず、冷たすぎず、ちょうどいいねと笑っていました」


酒の湯気が、少し濃くなった気がした。


「それから、燗酒を頼むたびに冷めなくなりました。最初は、妻がそばにいてくれるようで嬉しかった。でも最近は……飲み終えることができない」


「飲み終えたら、終わる気がする?」


蒼麻が聞くと、男は小さく頷いた。


「馬鹿げているでしょう」


「いいえ」


蒼麻は即答した。


「そういうこと、あると思います」


男は少しだけ目を伏せた。


その時、盃の中で酒が揺れた。


湯気が細い糸のように立ち上がり、空中で輪を作る。湯気の糸はほどけず、また結ばれ、またほどける。


まるで、見えない機で織られているようだった。


蒼麻の胸の奥で、何かが静かに反応した。


九尾狐の欠片ではない。


神代の血の奥にある、もっと古い響き。


布を織る音。


縦糸と横糸が交わる気配。


荒ぶるものを鎮め、縺れたものをほどき、もう一度かたちにする神の気配。


蒼麻は、思わず自分の手を見た。


指先に、淡い光の糸が絡んでいるように見えた。


真響が目を細める。


「蒼麻」


「分かってる。たぶん、これ……俺だけじゃない」


声に出した瞬間、和灯の空気がわずかに張った。


男の盃から立ち上る湯気の糸が、今度は蒼麻の指先へ伸びてくる。


麻那が店に入ってきたのは、その時だった。


「お兄ちゃん」


彼女は一目で状況を察し、弓には手を伸ばさなかった。


代わりに、静かに言う。


「切らない方がいい」


蒼麻は頷いた。


「うん。これは、切るものじゃない」


湯気の糸は、男と、盃と、亡き妻の記憶を繋いでいる。


切れば楽になるかもしれない。


だが、それはたぶん違う。


蒼麻は赤ペンを出しかけて、やめた。


今回は、線を引くのではない。


糸を見る。


縺れを探す。


どこで止まっているのか。


どこが、冷めることを拒んでいるのか。


「奥さんは、その燗酒をずっと温かいままにしてほしかったんですかね」


男は顔を上げた。


「え?」


「最後に一緒に飲んだ温度を、残したい気持ちは分かります。でも、その酒を飲まないと、次の酒を飲めない」


男は盃を見る。


湯気はまだ消えない。


「次の酒……」


「忘れるって意味じゃなくて」


蒼麻は言葉を探した。


「その温もりを、ずっと同じ形で握りしめるんじゃなくて、別の形に織り直すというか」


自分で言っていて、不思議な感覚だった。


「織り直す?」


男が聞く。


蒼麻は頷いた。


「最後の燗酒だけじゃなくて、他にもあったでしょう。奥さんと飲んだ酒。食べたもの。喧嘩したこと。笑ったこと。そういうもの全部を、一枚の布みたいにして持っていたら、たぶん、その一杯だけに縛られなくて済むはずです」


麻那が、少し驚いたように蒼麻を見た。


真響も黙っている。


蒼麻の指先に絡む光の糸が、少しずつ形を変えていた。


湯気の糸が、細い織物のように広がっていく。


男の周囲に、いくつもの記憶が浮かんだ。


妻が笑う横顔。


熱すぎる燗酒に顔をしかめる姿。


冷めた酒を「これはこれでいい」と言う声。


台所でつまみを作る手。


二人で黙って飲んだ夜。


その全部が、一杯の燗酒に押し込められていたのだ。


男の目から涙が落ちた。


「……ああ」


声が震える。


「そうだ。あいつは、ぬる燗だけ好きな人じゃなかった」


湯気が揺れた。


盃の酒が、ほんの少しだけ冷める。


それは寂しいことではなかった。


むしろ、自然なことだった。


蒼麻の指先の糸が、静かにほどける。


その瞬間、彼の背後に一瞬だけ、誰かの影が立った。


力強い神ではない。


荒々しい武神でもない。


機の前に座り、縺れた糸を見つめる静かな神格。


布を織り、縁を織り、荒ぶるものを鎮める神。


名はまだ、蒼麻の口からは出ない。


けれど麻那は、その気配に気づいた。


「……建葉槌命(たけはづちのみこと)


小さく、ほとんど息だけで呟く。


蒼麻は振り返らなかった。


振り返れば消えてしまう気がした。


男は、盃を持ち上げた。


酒はもう湯気を立てていない。


ぬる燗から、常温へ近づいている。


男はそれを見て、泣きながら笑った。


「冷めましたね」


蒼麻も頷く。


「はい」


「冷めても、嫌じゃない」


「それなら、よかったです」


男は盃の酒を、ゆっくり飲み干した。


その瞬間、和灯の空気がふっと軽くなる。


怪異は消えた。


いや、怪異になる前にほどけた、という方が近かった。


蓮二は、何も言わずに新しい小鉢を置いた。


男はそれを見て、また少し笑った。


「もう一杯、いただけますか」


「燗にしますか」


蓮二が尋ねる。


男は少し考えた。


「いえ。今度は常温で」


蒼麻は黙ってその言葉を聞いた。


真響が隣へ来る。


「今のは、お前の力か」


「分からない」


「神の気配がした」


「麻那も気づいた?」


麻那は静かに頷いた。


「うん。でも、いつもの戦う神降しとは違った。糸をほどいて、織り直すみたいな……」


「建葉槌命とか?」


蒼麻がその名を口にした瞬間、指先にかすかな温もりが残った。


真響は盃を見つめる。


「お前には、そういう神の方が似合うかもしれぬな」


「戦わないから?」


「壊すより、ほどく方が性に合っている」


蒼麻は苦笑した。


「褒めてる?」


「少し」


麻那も笑った。


「私も、そう思う」


その夜、和灯では燗酒がよく出た。


けれど、どの酒もちゃんと冷めた。


冷めることは、終わることではない。


温もりがあったことを、なかったことにするわけでもない。


ただ、同じ温度のままではいられないだけだ。


男は帰り際、蓮二に深く頭を下げた。


「また来ます」


「お待ちしています」


外は、少し冷えていた。


男はマフラーを巻き直し、夜の道へ出ていく。


その背中は、来た時より少しだけ軽かった。


蒼麻は、空になった徳利を見つめる。


そこにはもう湯気はない。


けれど、確かに温もりの記憶は残っていた。

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