第五十話 口止め箸
和灯がおかしい。
最初にそう言い出したのは蓮二だった。
「静かすぎる」
閉店間際、カウンターを拭きながら呟いたその言葉に、蒼麻も頷く。
確かに静かだった。
和灯は元々、賑やかな居酒屋ではない。だが、それでも常連たちの愚痴や笑い声、酒談義くらいは聞こえてくる。
ところが今夜は違った。
誰もが何か言いかけては飲み込み、話が続かない。
圭吾ですら妙に大人しい。
蒼麻はその異常さに気づいていた。
「圭吾さん」
「ん?」
「今日は英語読みしないんですね」
「……」
圭吾は何か言い返そうとした。
だが口を開いたまま止まる。
数秒後、首を傾げた。
「何を言おうとしたんだっけ」
「重症だな」
蒼麻が呟く。
麻那も店内を見回した。
「誰も本音を話していない感じがします」
「それだな」
蒼麻は盃を置いた。
「いや、本音を話してないんじゃなくて、話そうとして止まってる」
真響は黙って酒を飲んでいたが、不意に視線を卓上へ落とした。
「箸だ」
「箸?」
蒼麻が聞き返す。
その瞬間だった。
圭吾の手元にあった割り箸が、小さく震えた。
ちき。
乾いた音。
誰もが顔を向ける。
「今、鳴った?」
蓮二が眉をひそめる。
麻那は箸を手に取った。
札を当てる。
すると、木目の中から文字が浮かび上がった。
言わない方がいい。
蒼麻は顔をしかめた。
「嫌な予感しかしないな」
別の箸を調べる。
そこには、
空気を読め。
さらに、
黙っておけ。
波風を立てるな。
今じゃない。
どれも、人間なら一度は考えたことがある言葉だった。
真響は静かに呟く。
「ずいぶんと人間らしい怪異だな」
蒼麻も苦笑した。
「そうだな」
原因はすぐに分かった。
三日前。
和灯で小さな口論があった。
大した事件ではない。
だが、その場にいた者たちは皆、同じことを思った。
言わなければよかった。
黙っていた方が丸く収まった。
本音なんて言うものじゃない。
その思いが積み重なり、箸へ宿った。
口止め箸。
人の言葉を飲み込ませる怪異だった。
閉店後。
常連たちは帰され、蒼麻たちだけが残った。
呼び水役として残された圭吾は、不満そうな顔をしている。
「俺ばっかりこういう役じゃない?」
「適材適所ですよ」
麻那が即答する。
「褒めてないですよね?」
蓮二が燗酒を出した。
「まあ飲んでください」
圭吾は諦めて盃を傾ける。
一杯。
二杯。
三杯。
だんだん口が滑らかになってくる。
「いや、今日さ」
ちき。
箸が鳴る。
「上司が――」
ちき。
止まる。
「上司が?」
蒼麻が促す。
圭吾は顔をしかめた。
「上司が……」
ちき。
「上司が嫌いだ!」
その瞬間だった。
箸立ての中の割り箸が一斉に跳ね上がる。
卓上の箸。
厨房の箸。
棚の箸。
店中の箸が集まり、一つの人影を形作った。
白木でできた女だった。
髪も箸。
指も箸。
着物も箸。
恐ろしいというより、妙に地味である。
蒼麻は思わず言った。
「地味だな」
麻那も頷く。
真響まで、
「地味だな」
と言った。
怪異は少し傷ついた顔をした。
「失礼です」
「喋れるのか」
蒼麻が驚く。
怪異は真面目な顔で答えた。
「喋れます」
「じゃあ何で人を黙らせる」
「言わない方がいいからです」
即答だった。
怪異は続ける。
「人間は言葉で傷つきます。後悔します。壊れます。ならば言わなければいい。人間を守りたい」
蒼麻は少し考える。
理屈は分かる。
だが。
「ありがとうも止めるのか」
怪異が黙った。
「好きだ、も?」
沈黙。
「ごめん、も?」
怪異の表情が揺れる。
蒼麻は肩をすくめた。
「言葉で傷つくこともある。でも言葉で救われることもあるだろ」
その時だった。
ちりん。
軒先の風鈴が鳴る。
返事待ちの風鈴。
蒼い水紋が店内へ流れ込む。
蒼狐・翠霞だった。
「黒の言うことにも一理あるね」
真響が露骨に嫌そうな顔をする。
「立て続けに来るとは珍しいな」
「たまに絡まないと」
翠霞は笑う。
「流すためには、まず言わなきゃいけないからね」
真響も盃を置いた。
「抱えるにも言葉は必要だ」
蒼麻は思わず笑った。
「珍しく意見が合ったな」
「今回は」
「今回はね」
二柱の声が重なる。
箸の女は迷っているようだった。箸でできた指先が小さく震えている。
「ですが、言葉は危険です」
だが、言葉は人を繋ぐ。
「危険だから考える。全部言えば良いわけでもないし、何も言わないことが良いことでもない。そこを一緒にしてしまっているから、おまえは怪異になっている」
「ではなにを止めればよいのですか?」
「それを考えるのが人生だよ」
「非効率です」
「人間だからな」
翠霞の水紋が床を流れ、止まっていた言葉の気配を外へ逃がす。
やがて怪異は、自分の腕から一本の箸を抜いた。
そして折る。
ぱきん。
乾いた音が響く。
その瞬間、和灯の空気が変わった。
圭吾が息を吐く。
「上司が嫌いだ」
誰も止めない。
圭吾は続ける。
「でも仕事はできる。だから余計腹立つ」
蓮二が吹き出した。
「それですよ」
圭吾は少し笑った。
「あと俺も甘えてるんだと思う。あの人なら何とかしてくれるって」
愚痴ではない。今度は言葉が止まらなかった。
刺すためではなく、自分の中のつまりを外へ押し流す整理するための言葉だった。
怪異はそれを見ていた。
蒼麻は赤ペンを取り出し、箸立ての下に小さく線を引いた。
「言うべき言葉は、口へ。飲み込むべき言葉は、腹へ。捨てるべき言葉は、火へ」
赤い線が光った。
「そしてすべてを黙らせるな」
箸の女の身体がほどけ始める。消える寸前、彼女は頭を下げた。
「人間は、面倒です」
「そうだな」
蒼麻は苦笑した。
箸の女は割りばしの細い光となって、静かに消えていった。
翌日。
和灯にはいつもの声が戻っていた。
愚痴もある。
笑い声もある。
少し余計な一言もある。
だが、それでいい。
ただ一つだけ。
箸立ての中の一本だけが、今も残っている。
誰かが言葉を飲み込みすぎた時。
その箸だけが小さく鳴る。
ちき。
まるで、
「本当にそれでいいのか」
と問いかけるように。
蓮二はそれを見るたびにため息をつく。
「結局この箸は残ったのか」
蒼麻は笑った。
「全部止める怪異じゃなくて、言いすぎ注意の箸になったんだろ」
真響は盃を傾ける。
「便利だな」
風鈴の音に混じって、翠霞の笑い声が聞こえた気がした。
和灯の夜は今日も続く。
言わなければよかった言葉もある。
それでも、言わなければ届かなかった言葉もある。
だから人は酒を飲み、語り、時々後悔しながら生きていくのだろう。




