第四十九話 萱の謝罪
神代菖蒲ほどの人物が、和灯のような小さな店へ姿を見せることは滅多にない。
神代グループの流通網。
地方酒蔵との折衝。
海外市場との交渉。
酒だけでなく、人と土地の流れそのものを扱う彼女は、多忙という言葉では足りないほど忙しい人間だった。
そんな菖蒲が、この夜和灯にいる理由は一つしかない。
酒税印の鬼。
あれは単なる怪異事件ではなかった。
神代萱が、菖蒲の流通術式を真似て起こした案件だったからだ。
自分の名と術式を使われた以上、放置はできない。
後始末をするのは当然だった。
もっとも菖蒲自身は、
「後始末が八割、興味が二割」
くらいのつもりだった。
その二割が誰なのかは、本人も認めたがらないだろうが。
少なくとも、酒蔵の名前を妙に覚えていて、怪異より酒の話をしている時の方が生き生きしている男――神代蒼麻という存在を、彼女が少し面白がり始めていたのは確かだった。
酒税印の鬼の後始末は、まだ終わっていなかった。
次に和灯に現れたのは、神代萩だった。
穏やかな顔をした男で、理知的でいかにも根回しが得意そうな空気をまとっている。
そして、その隣に立つ女性。
三十代半ば。
隙のないスーツと整った髪。美人だが黙っていると冷たい印象を受ける。
目元も少し硬い。
神代萱。
萩は、席に着く前に深く頭を下げた。
「蒼麻くん。菖蒲様。このたびは、うちの者が迷惑をかけた」
菖蒲は静かに盃を置いた。
「萩。あなたが頭を下げる必要はあるわね」
「はい」
萩は苦笑しなかった。
本当に、申し訳なさそうだった。
蒼麻は萱を見る。
「酒税印の鬼を仕掛けたのは、あなたですか」
萱は唇を結び、それから答えた。
「はい」
麻那の表情が険しくなる。
真響の気配も冷えた。
蓮二は何も言わず、温かい茶を出した。
萱は茶に手をつけない。
「私は、蔵を救うには市場価値を高める必要があると思っています。希少性、銘柄力、海外評価、投資価値。それらがなければ、地方の小さな蔵は残れません」
蒼麻は黙って聞いた。
萱は続ける。
「菖蒲様の流通術式は、美しいです。酒の流れを支配し、品質を守り、価値を落とさない。私は、それに近づきたかった」
菖蒲が静かに言った。
「近づくなら、まず責任の取り方を覚えなさい」
萱の肩が震えた。
「……はい」
萩が重く息を吐く。
「萱は、蒼麻くんが本当に酒の事を理解しているのかを見ようとした」
蒼麻は眉を寄せる。
「俺を?」
萱は顔を上げた。
「神代蒼麻。あなたは酒を土地の記憶だと言った。蔵の名を守ると言った。ですが、それは綺麗事に聞こえました」
「綺麗事」
「はい」
萱の声は震えていない。
「私は、潰れかけた蔵を見てきました。どれほど誇りがあっても、売れなければ終わる。どれほど文化だと言っても、資金が尽きれば瓶一本買えない。だから私は、商品価値を最大化することが救済だと考えました」
蒼麻は、少しだけ目を伏せた。
言っていることは分かる。
だからこそ、腹が立った。
「それで、酒税印の鬼を?」
「あなたが、酒の価値を市場から切り離して語るのなら、どこまで耐えられるのか見たかった」
真響が低く言う。
「試すために酒を穢したのか」
萱の顔が強張る。
「穢すつもりはありませんでした」
「結果は同じだ」
真響の声は冷たかった。
菖蒲も言う。
「私の術式に似せたのも、いただけないわ」
萱は、菖蒲の前で初めて目を伏せた。
「菖蒲様なら、どう裁くか見たかったのです」
「私を試したの?」
菖蒲の声は柔らかい。
柔らかいから怖い。
萱は小さく頷いた。
「はい」
萩が額を押さえた。
「萱。そこはもう少し言い方があるだろう」
菖蒲は微笑んだ。
「いいのよ、萩。正直で」
蒼麻は小声で麻那に言った。
「正直で許される空気じゃないな」
麻那も小声で返す。
「全然許されてない」
菖蒲は萱を見た。
「私に憧れたのなら、まず覚えなさい。流れを支配する者は、流れが濁った時に最初に責任を取るの」
「はい」
「蔵を救うために価値を上げる。それは間違いではない。でも、酒を値札に変えた瞬間、あなたは蔵ではなく市場を見ている」
萱の指が震えた。
蒼麻は静かに言った。
「俺も、売れることが悪いとは思ってません」
萱が蒼麻を見る。
「ただ、売るために蔵の名前を貼り替えたり、酒の縁を横取りしたり、飲む人間より値段を先に見たりするのは嫌です」
「それでは救えない蔵もあります」
「助かる蔵もあると思います」
萱の目がわずかに揺れる。
蒼麻は続けた。
「でも、救うって言いながら声を奪ったら、それはもう蔵を残してるんじゃなくて、看板だけ残してるんじゃないですか」
萱は答えなかった。
萩が深く頭を下げる。
「萱の処分はこちらで行う。もちろん、被害を受けた蔵への補償も」
菖蒲が言う。
「萩。処分だけで終わらせないこと」
「分かっています」
「萱には、蔵へ行かせなさい」
萱が顔を上げる。
菖蒲は静かに言った。
「資料ではなく、人に会いなさい。杜氏に会いなさい。蔵人に会いなさい。売上表ではなく、仕込み蔵の匂いを覚えなさい」
萱の目に、初めて迷いが浮かんだ。
「私は……まだ、蔵に関わってよいのですか」
蒼麻は少し驚いた。
萱は、自分が正しいと思っていた。
だが、完全に無感覚な人間ではなかった。
萩が言う。
「関わらせる。逃がさないからな」
「萩様」
「お前は失敗した。だから、現場で学べ」
菖蒲が微笑む。
「それが一番効く罰ね」
真響が低く言った。
「酒に謝れ」
萱は真響を見る。
「酒に?」
「蔵にも、人にもだ。だが、その前に酒に謝れ」
蒼麻は少しだけ笑った。
「真響らしいな」
萱はしばらく黙り、それから深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
それが誰に向けた謝罪なのか。
蒼麻には分からなかった。
でも、少なくとも最初よりは、言葉に重みがあった。
蓮二が、ようやく茶を勧める。
「冷める前にどうぞ」
萱は戸惑ったように茶を見た。
萩が小さく言った。
「飲みなさい。こういう場所で出されたものを残すと、さらに怒られる」
「誰にですか」
萩は菖蒲と真響を交互に見た。
「主に、そちらの方々に」
蒼麻は思わず吹き出した。
麻那も少し笑った。
菖蒲は涼しい顔で茶を飲む。
真響は否定しなかった。
その夜、和灯には少し重い空気が残った。
けれど、完全な敵意ではなかった。
萱は間違えた。
かなり派手に間違えた。
だが、その間違いをこれからどう棚卸しするかは、まだ保留だった。




