第四十八話 棚卸し女
その案件を持ち込んだのは、神代檀だった。
和灯の暖簾をくぐった時点で、檀の表情はいつもより硬かった。
蒼麻は盃を置く。
「どうしたんですか。檀さんがその顔で来る時、大体ろくでもないんですよね」
檀は静かに頷いた。
「今回は、かなり地味です」
「地味ならいいんですけど」
「地味に嫌です」
「最悪じゃないですか」
蓮二が小鉢を置きながら言った。
「で、何が出たんです?」
檀は一枚の資料を差し出した。
「これを見てください」
蒼麻は資料を見る。
神代グループの古い物流倉庫で、現在はほとんど使われていない棟。
「倉庫がどうしたんですか」
「増えています」
蒼麻は顔を上げた。
「荷物が?」
「はい」
「誰かが入れてる?」
「いいえ」
檀の声は淡々としている。
「監視カメラにも搬入記録にも、入庫履歴にもありません。ですが、毎朝、荷物が増えている」
麻那が眉を寄せる。
「内容は?」
檀は少しだけ言いにくそうにした。
「捨てられなかった物です」
蒼麻は黙った。
「捨てられなかった物?」
「古い手紙、写真、壊れた時計、退職願、ランドセル、片方だけのイヤリング、婚姻届の控え、未提出の離婚届、誰にも渡されなかった贈り物」
蓮二が静かに言った。
「なんか重たそうな案件ですね」
真響が盃を置く。
「人間は物に縁を溜めるからな」
檀は頷いた。
「そして倉庫内に、一人の女が出ます」
「怪異ですね」
「はい」
「何をするんですか」
檀は資料を閉じた。
「棚卸しをしています」
翌日。
蒼麻、麻那、真響、檀は神代グループの旧物流倉庫へ向かった。
都心から少し離れた湾岸の一角。
新しい物流センターの裏に、古い棟だけが取り残されている。
外壁は灰色。
窓は少なく、昼間なのに薄暗い。
蒼麻は倉庫の前で立ち止まった。
「……本当に重たい雰囲気が漂ってるな」
麻那も頷く。
「願い過負荷とは違う。もっと生活に近い感じの」
真響が言う。
「未練だな」
檀は鍵を開けた。
重い扉が軋む。
中には、物が溢れていた。
ランドセル。壊れた腕時計。古い写真立て。手紙の束。
使い込まれた財布。ほつれたぬいぐるみ。欠けた湯呑み。
花の枯れた髪飾り。
どれも一見、ただの不要品だった。
けれど、ひとつひとつに持ち主の未練を纏った重さがある。
蒼麻は古い写真を拾った。
若い夫婦と、小さな子どもが写っている。
裏には、鉛筆の薄い文字。
捨てられない。
蒼麻は息を吐いた。
「これはきつい」
麻那が隣で別の箱を開ける。
そこには、未投函の手紙が入っていた。
宛名だけ書かれている。
差出人の名前はない。
真響が倉庫の奥を見る。
「いるぞ」
倉庫の一番奥。
古い事務机の前に、女が座っていた。
白い割烹着。
古い帳簿。
短く削られた鉛筆。
年齢は分からない。
若くも見える。
年老いても見える。
女は帳簿に何かを書きつけていた。
かりかり。
かりかり。
鉛筆の音だけが、倉庫に響く。
蒼麻は声をかけた。
「何をしてるんですか」
女は顔を上げた。
表情は薄い。
怒っていない。
悲しんでもいない。
ただ、困ったように言った。
「棚卸しです」
「何の」
「人生の」
蓮二がいなくてよかった、と蒼麻は思った。
いたらたぶん、味噌汁を出していた。
女は帳簿をめくる。
「捨てる」
かり。
「残す」
かり。
「保留」
かり。
「捨てる」
かり。
「保留」
かり。
「保留」
かり。
女は少しだけ眉をひそめた。
「保留が多すぎます」
真響が低く言った。
「人間だからな」
女は真響を見る。
「黒狐」
「そうだ」
「あなたも多い」
真響の目が鋭くなる。
「何が」
「保留」
空気が一瞬、冷えた。
蒼麻は慌てて口を挟んだ。
「ええと、勝手に集めてるんですか?」
女は首を傾げた。
「勝手にではありません」
「じゃあ誰が」
「捨てられない人たちです」
女は倉庫に積まれた物を見た。
「置き場がない。捨てられない。持っていると苦しい。けれど手放せない。だから、ここへ集まって来る」
「集まって来るって、物が?」
「はい」
「本人達は知らない?」
「知りません」
麻那が眉を寄せた。
「無意識の廃棄場……」
檀が頷く。
「神代の倉庫が、未練の保管庫にされている」
女は淡々と続ける。
「整理しなければ、腐りますから」
その言葉に、真響が少しだけ反応した。
蒼麻は帳簿を覗いた。
そこには、いくつもの名前が並んでいる。
知らない名前。
見覚えのある名前。
そして――
神代蒼麻
蒼麻の背筋が冷えた。
帳簿の横には、いくつもの項目があった。
麻臣の酒器。
雨守の酒の記憶。
言えなかった文句。
返せなかった返事。
和灯のレシート。
真響と飲んだ酒の銘柄。
蒼麻は低く言った。
「やめろ」
女は首を傾げる。
「棚卸しです」
「俺のものを勝手に分けるな」
「必要です」
真響が一歩前へ出た。
足元に黒い狐火が灯る。
「違うぞ」
女は真響を見る。
「違いますか」
「人は、そんなに綺麗に分けられない」
「でも、溜まります」
「溜まるものなのだ」
「それでは腐ります」
「腐る前に受け入れることもある」
女は帳簿に視線を落とした。
「黒狐は、受け入れすぎます」
真響の狐火が強くなる。
燃やしてしまおうかと考え始めた時に、麻那が小さく言った。
「真響さん」
その時、倉庫の天井から、蒼い水紋が落ちた。
水ではない。
光だった。
涼しい風が流れ、埃が静かに舞う。
蒼狐・翠霞が、棚の上に腰掛けていた。
「それは半分正しいね」
真響が露骨に嫌そうな顔をした。
「また来たか」
翠霞は笑う。
「面白そうだったから」
「お前はいつも軽い」
「黒はいつも重い」
蒼麻は額を押さえた。
「倉庫で五柱の口喧嘩しないでくれ」
翠霞は棚卸し女を見る。
「整理は必要だよ。でも、全部今すぐ決める必要はない」
女は首を傾げた。
「何故」
翠霞は軽く答えた。
「人間だからね」
女は納得していない。
「人間は保留が多すぎます」
蒼麻は苦笑した。
「それは否定できない」
翠霞は帳簿を覗き込んだ。
「でも、保留は停滞じゃない。緩やかな動きなのさ。ちゃんと置き場があれば、流れの途中になる」
真響が言う。
「置き場を間違えればそのまま沈む」
「だから分けるんだよ。黒」
「呼ぶな」
「はーい」
蒼麻は帳簿の別のページに目を止めた。
そこには、三つの名前があった。
神代麗樹 残す
神代蘭 保留
神代葉月 未計上
蒼麻は眉を寄せた。
「葉月?」
麻那が顔を上げる。
「誰?」
檀も表情を変えた。
「未確認名です。少なくとも、神代商工会の登録にはありません」
女は淡々と言った。
「まだ来ていません」
「来るのか」
蒼麻が聞くと、女は帳簿を見たまま答えた。
「来ます」
その瞬間、真響と翠霞が同時に反応した。
黒い狐火と蒼い水紋が、倉庫の床を走る。
遠くで、低い獣の唸りのような音がした。
蒼麻は、鳥居の外で感じた虎の気配を思い出した。
「……未計上って、何だ」
女は鉛筆を止めた。
「まだ、どこへ分類されるか分からないもの」
翠霞が少しだけ目を細める。
「流れに入ってないってことだね」
真響が言う。
「だが、近いぞ」
麻那が端末を操作する。
「葉月という名前、奥之院記録にも照会します」
檀は静かに頷いた。
「私も監査部で調べます」
蒼麻は帳簿を見る。
棚卸し女はまた鉛筆を動かし始めた。
かり。
かり。
「捨てる」
かり。
「残す」
かり。
「保留」
かり。
「保留」
かり。
「保留」
女は、少し困ったように呟いた。
「やはり多すぎます」
蒼麻は赤ペンを取り出した。
「人のものを勝手に捨てちゃダメだ」
女が顔を上げる。
「では、どうしますか」
「置き場を作る」
「置き場」
「捨てる場所じゃない。残す場所でもない。考えるための場所」
翠霞が笑った。
「いいね」
真響は静かに言った。
「腐らせるなよ」
「分かってる」
「本当に?」
それでも、真響は止めなかった。
蒼麻は倉庫の床に線を引く。
「捨てるものは、捨てる者の手へ。
残すものは、残す者の名へ。
保留するものは、腐らぬ場所へ」
赤い線が、倉庫の中央に円を描く。
麻那が札を打つ。
檀が矢を番え、倉庫の四隅へ札矢を放つ。
真響の狐火が、腐りかけた未練だけを静かに焼く。
翠霞の水紋が、置き場を失った物の気配を流れへ戻す。
棚卸し女は、それをじっと見ていた。
「保留棚」
「そう」
蒼麻は頷いた。
「人間用だ」
「非効率です」
「人間なので効率良くは、いかない時もある」
女はしばらく考えた。
そして帳簿に新しい項目を書き加えた。
保留棚
かり。
かり。
かり。
倉庫の荷物が、少しずつ薄れていく。
持ち主の元へ戻るもの。
自然に消えるもの。
保留棚へ移るもの。
すべてが、無理に処分されず、少しずつ場所を変えていった。
最後に、女は蒼麻のページを開いた。
神代蒼麻
その下に、短く書く。
保留
蒼麻は苦笑した。
「俺も保留か」
女は真面目に言った。
「はい。かなり」
真響が横で言う。
「妥当だな」
麻那も小さく頷く。
「妥当だね」
檀まで静かに言う。
「監査上も妥当です」
「檀さんまで?」
翠霞は楽しそうに笑った。
「保留だらけの人間って、面白いよね」
蒼麻はため息をついた。
「褒められてる気がしない」
「褒めてるよ」
女は帳簿を閉じた。
「本日の棚卸しは終了しました」
「あなたはもう現れないんですか」
「保留棚がある限り、毎日は出ません」
「毎日は?」
「年に一度は必要です」
蒼麻は真顔になった。
「年末の大掃除みたいだな」
女は少しだけ首を傾げた。
「それに近いです」
「怪異版棚卸しか」
「はい」
女は、倉庫の奥へ消えていった。
完全に祓われたのではない。
役割を変えたのだ。
真響は静かに言った。
「悪くない落としどころだ」
翠霞も頷く。
「うん。流れも止まってない」
麻那は帳簿の写しを見つめる。
「葉月、未計上……」
檀が低く言った。
「調べます」
蒼麻は倉庫の出口を見る。
外は雨が上がりかけていた。
葉月という名。
まだ会っていない誰か。
神代麗樹の近くに現れた獣の気配。
それが、少しずつ帳簿に載り始めている。
蒼麻は小さく呟いた。
「保留のままでいてくれたら楽なんだけどな」
真響が答える。
「無理だろうな」
翠霞も笑って言う。
「流れは来るよ」
蒼麻は肩をすくめた。
「それは知ってた」
倉庫の外へ出ると、濡れたアスファルトの匂いがした。
雨は止みかけている。
けれど遠くの空には、まだ黒い雲が残っていた。




