第四十七話 帰る場所のない部屋
麗樹が和灯に来たのは、雨の夜だった。
蒼麻が何か言う前に、蓮二が温かい椀物を出した。
「まず食べてください」
麗樹は少しだけ驚いた顔をした。
「……まだ何も頼んでいないわ」
「顔が、先に食べた方がいい顔だったので」
蒼麻が小声で言う。
「蓮二の診断、だいたい当たります」
麗樹は少しだけ笑った。
「そう。では、いただくわ」
その笑みは薄かったが、奥之院で見た時より、人間らしかった。
麻那は隣に座り、緊張したように箸を持っている。
「麻那」
「はい」
「そんな顔をしなくていいわ。私は、まだ壊れていないから」
「まだ、は怖いです」
「そうね」
麗樹は椀物を一口飲んだ。
そして、目を伏せた。
「おいしい」
蓮二は軽く頭を下げただけだった。
真響は黙って酒を飲んでいる。
麗樹はその様子を見て、ぽつりと言った。
「不思議な場所ね」
蒼麻が聞く。
「和灯が?」
「ええ。神代でも、奥之院でも、家でもない。なのに、座っていていい感じがする」
蓮二が静かに言った。
「店ですから」
「いい店ね」
「ありがとうございます」
その普通の会話が、妙に染みた。
やがて麗樹は、自分から蘭の話をした。
「姉様は、片付けが下手だったの」
麻那が少し驚く。
「蘭様が?」
「ええ。表では完璧に見せるくせに、部屋は書物と札と羽織でいっぱい。私が文句を言うと、『必要なものが近くにあるだけ』と言い張っていたわ」
蒼麻は苦笑した。
「それ、片付けない人の言い訳ですね」
「そうなの。しかも強い口調で言うから、こちらが間違っている気になる」
麻那が小さく笑った。
「少し意外です」
「でしょう。姉様は、外では綺麗に整っていたから」
麗樹の声が少しだけ柔らかくなる。
「でも、私の前ではかなり雑だった。たぶん、それが嬉しかったのね」
真響が静かに目を伏せた。
蒼麻は何も言わなかった。
麗樹は盃を見つめる。
「だから、九尾側にいると言われても、まだ実感がないの」
「蘭さんが?」
「ええ。私の中の姉様は、散らかった部屋で、平然とお茶を飲んでいるような人だから」
麻那は静かに言った。
「麗樹さん」
「何?」
「蘭様のこと、探すなら私も手伝います」
麗樹は麻那を見る。
「危ないわよ」
「分かっています」
「あなたは蒼麻さんのことで手一杯でしょう」
「それでもです」
麻那の声は強かった。
「私は、隠される痛みも知っています。だから麗樹さんを一人にはしたくありません」
麗樹はしばらく麻那を見ていた。
そして、少しだけ笑った。
「麻那は、強くなったのね」
「強くなれているかは分かりません」
「十分よ」
その言葉に、麻那の目が揺れた。
蒼麻は少しだけ席を外すふりをして、厨房側へ寄った。
目が合った蓮二が小声で言う。
「妹さん、頑張ってるな」
「うん」
「お前も変に茶化すなよ」
「分かってる」
「本当に?」
蓮二はため息をついた。
その後、麗樹は長くは飲まなかった。
帰り際、蒼麻が言った。
「また来てください」
麗樹は振り返る。
「泣く場所として?」
「飯を食う場所としてですよ」
麗樹は一瞬黙り、それから穏やかに笑った。
「それなら、来やすいわね」
雨の中、麗樹は帰っていった。
麻那はその背を見送りながら、静かに言った。
「麗樹さん、泣かないですね」
真響が答える。
「泣ける場所まで、まだ辿り着いていない」
蒼麻は何も言えなかった。
その夜、麗樹は自宅へ戻ると、奥の一室の前で足を止めた。
蘭の部屋。
失踪してからも、片付けられない部屋。
机には古い書物。
壁には退色した札。
棚には、姉が好んだ香。
窓辺には、枯れかけた花。
麗樹は静かに花を替えた。
「姉様」
返事はない。
「私は、まだ怒っているわ」
花瓶の水を入れ替える。
「勝手にいなくなったことも。私に何も言わなかったことも。わたしにはまだ言わないで、なんて言ったことも」
指先が震えた。
「でも、探す」
部屋は静かだった。
散らかったままの机も、畳まれない羽織も、帰ってこない主を待っているように見えた。
麗樹はその場に膝をつき、床に手を置いた。
「帰ってこられなくてもいい」
声が震えた。
「でも、私に会いに来なさい」
初めて、涙が一粒だけ落ちた。
その時、窓の外で何かが動いた。
雨音に混じって、低い獣の気配がした。
麗樹は顔を上げる。
闇の向こうに、虎のような金色の目が一瞬だけ光った。
次の瞬間には、もう消えていた。
麗樹は立ち上がる。
涙を拭う。
「……誰」
返事はない。
ただ、雨の中に鋭い気配だけが残っている。
神代を狩るもの。
白虎の血を引くもの。
まだ名を知らぬその影が、麗樹の周囲に近づき始めていた。




