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第四十六話 返事待ちの風鈴

和灯の軒先に、古い風鈴が吊るされた。


蓮二が常連から譲り受けたものらしい。


青い硝子に、白い波模様。


短冊は少し黄ばんでいて、そこには何も書かれていない。


「涼しげでいいだろ」


蓮二は満足そうだった。


蒼麻はそれを見上げる。


「うん。怪異じゃなければいいな」


「最初から疑うな」


真響は風鈴を見た。


「……鳴っていないな」


「風がないからな」


蓮二が言った直後。


ちりん。


風はない。


なのに、風鈴が鳴った。


蒼麻、麻那、真響が同時に黙った。


蓮二は空を見た。


「……風、ないよな」


蒼麻はため息をつく。


「蓮二、最近引きが強いな」


「ただの小料理屋なんだけど」


風鈴がもう一度鳴る。


ちりん。


その音に混じって、声が聞こえた。


――今度、また飲みに行こう。


蒼麻は顔を上げる。


「誰の声だ」


蓮二が眉をひそめた。


「……昔の客の声だ」


短冊に、薄い文字が浮かんだ。


また連絡します。


麻那が近づく。


「返されなかった言葉ですね」


「未読メッセージみたいなものか」


「手紙、メール、電話、約束。返事を待ったまま止まっている縁」


真響が静かに言った。


「待ちすぎて、音になったか」


風鈴は、また鳴った。


今度は別の声。


――ごめん、あとで返す。


――大丈夫、怒ってない。


――落ち着いたら連絡して。


――読んでる?


――ねえ。


短冊に、文字が増えていく。


返事のない言葉。


返せなかった言葉。


返したくなかった言葉。


そのすべてが、風鈴の音になって和灯の軒先で鳴っていた。


圭吾が店に入ろうとして、足を止める。


「……なんか、心当たりのある音がする」


蒼麻は横目で見る。


「圭吾さん、未返信溜めるタイプですか」


「仕事のメールは返すよ」


「私用は?」


圭吾は目を逸らした。


「……善処しています」


麻那が冷静に言う。


「それは返していない人の言い方です」


ちりん。


風鈴が鳴る。


圭吾のスマートフォンが震えた。


画面には、三年前に返信しなかった友人の名前。


圭吾は青ざめる。


「怖っ」


真響が言う。


「自業自得だな」


蓮二は風鈴を見上げた。


「これ、祓うのか」


蒼麻は少し考えた。


「でも、全部が悪いわけじゃない気がする」


麻那が頷く。


「返事が必要な縁もある。でも、返さなくていい縁もある」


「そこを間違えると?」


真響が言った。


「待つ方も、待たせる方も、腐る」


その時、風鈴が大きく鳴った。


ちりん。


ちりん。


ちりん。


短冊から、白い糸のようなものが伸びる。


それは、店内にいる人々の手首へ絡もうとした。


蓮二には、昔の客。


圭吾には、返信していない友人たち。


麻那には、未処理の仕事連絡。


蒼麻には――


麻臣。


蒼麻の手首に、細い糸が触れた。


短冊に文字が浮かぶ。


話したいことがある。


蒼麻の息が止まった。


麻那がすぐに名前を呼ぶ。


「蒼麻」


真響の狐火が糸を焼き止める。


「触るな」


風鈴の音が揺れる。


蒼麻はしばらく黙っていた。


「……これは、ずるいな」


真響は答えない。


麻那も、何も言えなかった。


父からの返事。


父へ返せなかった言葉。


それは、蒼麻にとってまだ傷だった。


その時。


軒先に、蒼い水紋が広がった。


風もないのに、涼しい空気が流れる。


風鈴の音が澄んだ。


「止まった返事は、流した方がいいものもあるよ」


柔らかな声。


蒼狐・翠霞が、軒先に座っていた。


片膝を立て、風鈴を見上げている。


真響が露骨に嫌そうな顔をした。


「また勝手に来たのか」


翠霞は笑う。


「黒が抱え込みすぎるからね」


「お前は流しすぎる」


「停滞よりはいいでしょ」


「流せばいいものばかりではない」


「抱えればいいものばかりでもない」


二柱の視線がぶつかる。


蒼麻は小さく言った。


「……和灯の軒先で神話級の口喧嘩しないでくれ」


翠霞は蒼麻を見る。


「これは小さい怪異だよ。でも、小さいものほど面倒なんだ」


「分かる気がする」


「返事っていうのはね、縁の流れなんだ。返せば流れる。返さなくても、ちゃんと終わらせれば流れる。でも、見ないふりをすると淀む」


圭吾がスマホを握りしめる。


「すごく耳が痛い」


麻那も小声で言う。


「私も」


蒼麻は、自分の手首に残った父の糸を見た。


「返せない相手には?」


翠霞の表情が、少しだけ柔らかくなる。


「返事は、本人に届くだけじゃないよ」


「どういうことだ」


「自分の中で、返すこともある」


風鈴が鳴る。


短冊に、いくつもの言葉が浮かぶ。


ありがとう。

ごめん。

もう待たない。

元気で。

忘れない。

でも、進む。


蒼麻は風鈴を見上げた。


「全部返さなくていい。でも、全部放っておくのも違う」


翠霞が頷く。


「うん。分けよう」


麻那が弓を出す。


「返すべき縁と、終わらせる縁を分けるんですね」


「そう。麻那は分かりが早いね」


麻那は少しだけ警戒した顔をする。


「褒められている気がしません」


「褒めてるよ」


真響が冷たく言う。


「蒼は軽い。信用しすぎるな」


翠霞は笑う。


「黒は重い。聞きすぎると沈むよ」


蒼麻は額を押さえた。


「五柱、全員こんな調子なのか?」


真響と翠霞が同時に言った。


「そうだ」


「そうだよ」


蒼麻は深くため息をついた。


「そりゃ揃っちゃ駄目だわ」


それでも、やることは決まった。


蒼麻は赤ペンを取り出す。


蓮二は店の奥から小さな箱を持ってきた。


「返したい言葉を書く紙、いるか?」


「さすが店主」


「ただの小料理屋です」


麻那が札を並べる。


「返す縁はこちら。終わらせる縁はこちら。保留は?」


翠霞が指を鳴らす。


「流し棚を作ろう。今は返せないけど、腐らせない場所」


真響が言う。


「甘い」


「でも必要だよ」


蒼麻は頷いた。


「保留できるのも人間の特権らしいからな」


真響が一瞬だけ蒼麻を見た。


奥之院での言葉を思い出したのだろう。


蒼麻は短冊の下に線を引く。


「返すものは、言葉へ。

終わるものは、終わりへ。

待つものは、腐らず流れへ」


赤い線が光る。


麻那の矢が、絡み合った糸の中心を射抜く。


翠霞の蒼い水紋が糸をほどく。


真響の狐火が、呪いに変わりかけた言葉だけを静かに燃やす。


風鈴が大きく鳴った。


ちりん。


その音は、さっきまでの未練がましい音ではなく、涼しい夏の音に変わっていた。


圭吾はスマホを見て、ひとつだけメッセージを打った。


「今さらだけど、ごめん。元気でいるといいな」


送信せず、下書きにした。


「送らないのか」


蒼麻が聞く。


圭吾は少し笑った。


「送らない方がいい相手もいるかなって。でも、書いたら少し軽くなった」


蓮二も、小さな紙に何かを書いて箱に入れた。


麻那は未返信の仕事連絡を三件だけ返して、残りは明日に回した。


「全部返すと倒れる」


蒼麻が真顔で言う。


「ようやく気づいたか」


「お兄ちゃんに言われると腹立つ」


真響は何も書かなかった。


翠霞がからかうように言う。


「黒は書かないの?」


「書かぬ」


「返事、溜めてそうなのに」


「燃やすぞ」


「怖い怖い」


蒼麻は、最後に一枚だけ紙を取った。


しばらく悩んでから、短く書く。


怒ってる。

でも、酒は嫌いになってない。


宛名は書かなかった。


けれど、誰宛てかは分かっていた。


紙を箱に入れると、風鈴が一度だけ鳴った。


ちりん。


軽い音だった。


翠霞は満足そうに立ち上がる。


「いい流れになったね」


真響が言う。


「軽すぎる」


「重すぎるよりいい」


「時と場合による」


「それはそう」


蒼麻は二人を見る。


「今、ちょっと合ったな」


真響は嫌そうな顔をした。


翠霞は楽しそうに笑った。


「またね、蒼麻」


蒼い水紋が揺れる。


翠霞の姿は、風鈴の音に溶けるように消えた。


軒先には、青い硝子の風鈴だけが残った。


蓮二がそれを見上げる。


「これは、吊るしといていいのか?」


真響が答えた。


「今はよい」


蒼麻も頷く。


「たぶん、いい音になった」


風が吹いた。


風鈴が鳴る。


ちりん。


それは、返事を急かす音ではなかった。


止まっていた言葉が、少しだけ流れ出す音だった。

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