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第四十五話 循環しない酒樽

怪異というものは必ずしも呪いから生まれるわけではない。


憎しみ。執着。後悔。願い。


そして時には,善意から生まれることもある。


「発酵が止まる?」


和灯のカウンターで、蒼麻は首を傾げた。


蓮二が差し出した資料には、小さな酒蔵の名前が書かれていた。


相良酒造


創業百五十年の山間にある小さな蔵。


大量生産ではなく、地元向けの酒を造り続けている。


「三年くらい前かららしい」


蓮二が言う。


「最終的に酒はできる」


「でも?」


「毎年同じところで発酵がおかしくなる」


麻那が資料をめくる。


「麹は生きてる。酵母も問題なし。水も正常」


「なのに発酵だけが途中でおかしくなる」


蒼麻は眉を寄せた。


「酒蔵で発酵経過が狂うのは危険だよな」


「あちこちの酒蔵さんに相談しても原因がわからないままだって」


「それは本当に怪異なのか?」


麻那は少し考えた。


「たぶん半分かな」


「半分?」


「人間の問題も混ざってる気がする」


真響が酒を飲みながら呟く。


「また面倒な案件だな」


「最近そんなのばっかりだ」


「お前が近寄るからだろう」


「俺のせいじゃない」



翌日。

三人は相良酒造へ向かった。


山間の蔵だった。

清流と杉林に囲まれた古い木造建築。

風の抜ける静かな土地。


だが蒼麻は蔵へ入った瞬間に違和感を覚えた。


酒の香りはする。


しかし氣が流れていないのだ。


「これは……淀んでる」


麻那も頷いた。


「うん」


真響が目を細める。


「発酵が止まっているのではない。これは氣の流れが止まっている」


蔵元の相良は六十代の男性だった。


「父の代から守ってきた味なんです」


そう言う声には誇りがあった。


そして、少しだけ恐れもあった。


「変えたくないんです」


その言葉を聞いた瞬間。


蒼麻は原因の一端を悟った気がした。


そこには近隣の蔵から見学に来た、二十代後半の勉強熱心な若い蔵人もいた。


何か言いたそうにしていたが、結局は何も言わずに帰っていった。


古い設備。昔ながらの手法。

それ自体はなにも悪いわけではない。


だが。新しい試みが一切何もなかった。


何も変わらない。変えてはいけない。


変わってはいけない。変えることが許されない。


酒だけではない。何かに縛られたように蔵全体がそうなっていた。


蔵が創業当時のままの製法で、変わらぬ味を維持している。


蒼麻はそのような蔵はいくつも見てきたつもりだが、この蔵にはなにか違和感を感じるのだ。


なにか流れのない沼地の水を見ているような印象が残った。




許可をもらいその日の夜、蔵の中を巡回していると蒼麻は蔵の中で異変を見た。


樽の周囲に青白い紙片のようなものが漂っている。


古い仕込み帳。


昔の配合。先代の記録。


それらが半透明になって樽へ絡みついていた。


「なるほど」


蒼麻はため息を吐いた。


「先代の念がまったく離れてない」


麻那が頷く。


「うん」


「酒を守ろうとしてる」


「でも守りすぎてる」


その時だった。


樽の向こう側に青い光が揺れた。


風でもない。狐火でもない。


水が光ったような。


そんな青。


真響が顔を上げる。


「来たか」


蒼麻も気づく。


「誰だ」


青い光は静かに揺れる。


そして声がした。


「流れないものは腐るよ」


穏やかな女の声。


蒼麻は振り返った。


「はじめまして」


そこにいたのは。


蒼い髪に

エメラルドを溶かしたような瞳。


柔らかな笑みを浮かべている。


蒼狐(そうこ) 翠霞(すいか)


五柱の一柱。


彼女は酒樽を見つめた。


「懐かしいな、こういうの」


真響が冷たく言う。


「勝手に入ってくるな」


「固いなあ」


翠霞は笑う。


「黒はいつも抱え込む」


「蒼は流しすぎる」


「相性悪いね」


「知っている」


蒼麻は二人を見比べた。


「はじめまして。えっと、仲悪いの?」


「悪くないよ」


翠霞。


「良くもない」


真響。


そのやりとりは完全にただの姉妹だった。


翠霞は樽へ近づいた。


青い光が広がる。


すると。


先代杜氏の残した執着が姿を現した。


白い老人が酒を抱えたまま立っている。


「守らねば」


「変えてはならん」


「同じ味を」


「同じ酒を」


何度も繰り返す。


翠霞は悲しそうに見た。


「同じ酒なんて無いのに」


老人は気づかない。


「同じ味を届ける」


「同じ酒を届ける」


蒼麻は思い出した。


あの日の和灯で言った言葉。


“同じ酒は二度とできない”


翠霞は振り返る。


「蒼麻」


「ん?」


「君なら言えるでしょ」


「何を」


翠霞は笑った。


「終わったものを終わらせる言葉」


その瞬間。


蒼麻の胸の奥で。


何かが小さく震えた。


九尾の欠片ではない。


もっと別の。


縁を結ぶ力。


あるいは終わらせるための力。


遠く。


誰かが弓を引く気配。


誰かが核を見つめる気配。


麻那の背後に一瞬だけ、若き神の影が立った気がした。


天を穿つ弓。天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)


見えないほど一瞬。


そして蒼麻自身の影も揺れる。


縁と名を繋ぎ止める何か。


まだ名を見せぬ神の気配。


それはすぐに消えた。


翠霞だけが気づいたようだった。


「へぇ」


「面白い」


真響が睨む。


「何を見た」


「まだ秘密」


蒼麻は老人へ向き直った。


そして静かに言う。


「じいさん」


老人が振り返る。


「同じ酒はできないよ」


沈黙。


「でも。同じように大事にすることはできる」


老人の表情が揺れた。


「守ることと、時代の流れを止めることは違う」


蔵の空気が震える。


樽の中で。


止まっていた発酵が。


ふつりと動いた。


翠霞は微笑む。


「うん、それでいい」


滞っていた酒の氣が、再び流れ始めた。


そして蒼狐は蒼い水紋だけを残して静かに笑った。


「またね、蒼麻。同じ蒼同士だ。気が合うかもしれないね」


その姿は夜風と共に消えた。


真響は不機嫌そうだった。


「軽い狐だ」


蒼麻は苦笑する。


「でも、ちょっと分かる気がする」


真響は黙った。


抱える黒。


流す蒼。


そして。


そのどちらにもなりきれない蒼麻。


新しい酒の香りが戻った蔵で。


新たな循環が、静かに始まっていた。

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