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第四十四話 怪異より厄介な趣味

奥之院から戻って三日が過ぎた。


珍しく。


本当に珍しく。


ここ数日は怪異案件が何もなかった。


和灯の夜。


蓮二はカウンターの向こうで、ふと気づいた。


静かだ。


怪異がいない。


黒い影もいない。


呪いもいない。


九尾狐も出てこない。


平和だった。


そして。


その代わりに。


神代蒼麻がいる。


「蓮二」


なんだか嫌な予感がした。


「ん?」


蒼麻は一冊の冊子を開いている。


全国酒造一覧。


蓮二は思った。


怪異の方が平和だったかもしれない。


「見ろ」


「嫌だ」


「なんでだ」


「その顔をしてる時、話が長いんだよ」


麻那が吹き出した。


「始まった」


真響が首を傾げる。


「何がだ」


麻那は即答した。


「兄の酒オタクモード」


真響は少し考えた。


「危険なのか」


「長いです」


「どれくらい」


「一時間くらいは軽く」


真響は黙った。


「危険だな」


蒼麻が抗議する。


「怪異みたいに言うな」


蓮二が口を挟む。


「怪異より厄介」


麻那が追随する。


「怪異より厄介」


真響頷きながら言った。


「それは怪異より厄介だな」


全員一致だった。


蒼麻は納得していない。


「おかしいだろ」


「どこが」


「俺はただ酒が好きなだけだ。守るべき伝統文化じゃないか」


真響が聞いた。


「何故そこまで好きなのだ」


蒼麻は一瞬だけ考えた。


そして。


「美味いから」


真響は沈黙した。


数秒。


「理解できない」


「だろうな」


「理解できない」


「二回言ったな」


真響は本気だった。


「酒とは液体だろう」


「そうだな」


「酒は酒だろう」


「違う」


蒼麻が即答した。


ここからだった。


本当の怪異は。


「まず米がいろいろあって」


「あーあ」


蓮二と麻那が声を揃える。


「?」


真響が首を傾げる。


「山田錦、五百万石、雄町、愛山、秋田酒こまち、美山錦、酒未来、亀の尾」


真響は途中から何を言ってるのか分からなくなった。


「全部米なのだろう?」


「全部特徴が違うんだよ」


即答。


恐ろしいほど即答。


「まず雄町はな」


蓮二は時計を見た。


まだ三分だった。


先は長い。


「雄町は現存する最古の酒米系統で」


「ほう」


「柔らかくて膨らみがあって溶けやすい」


「ほう」


「それで、山田錦は酒米の王様みたいに言われてるけど、とにかく扱いやすい」


「ほう」


「それで五百万石は」


「まだ続くのか」


「たくさんあるんだよ。成分の差異はわずかかもしれないけど、扱いやすさというのも味に確実に影響を与えるだろうな」


真響は聞かなければ良かったと少し後悔した。


しかし蒼麻は楽しそうだった。


本当に楽しそうだった。


奥之院でも見なかった顔。


九尾狐相手でも見なかった顔。


怪異相手でも見なかった顔。


麻那が苦笑する。


「兄はね」


「うん」


「本当はこういう人」


真響は蒼麻を見る。


なるほど。


確かに。


怪異。


神代。


九尾狐。


そういうものがない方が。


この男は自然だった。


蒼麻は続く。


「そして面白いのは酵母で、味わいを左右する重要なファクターってわけだ」


酵母の話を始めた蒼麻を遮って真響がいう。


「まだ話の種類が増えるのか」


「増える」


「何種類ある」


「話せばキリがない。説明すると少し長くなる」


「もう十分長い」


蓮二が深く頷いた。


「正論」


蒼麻は聞いていない。


「さらに水だ。酒の成分の8割が水なんだから、ここは外せないよ。仕込み水の硬度や性質によって発酵速度も変わってくるし」


「出た」


麻那がそれはなんべんも聞きましたという顔をしていた。


「酒は水で決まる」


「また始まった」


「始まったな」


真響は少しだけ笑った。


珍しく。


本当に少しだけ。


「この話は面白いのか」


麻那が答える。


「聞いてると楽しいよ」


「そうか」


「兄が楽しそうだから」


その言葉に。


真響は少し黙った。


蒼麻はまだ喋っている。


止まらない。


本当に止まらない。


だが。


真響は思った。


九尾狐の話をする時より。


神代の話をする時より。


ずっと。


人間らしい。


その時。


蒼麻が言った。


「だから同じ酒なんて一つもないんだよ」


真響が聞いた。


「何が違う」


「全部」


「雑だな」


「本当だ」


蒼麻は盃を持ち上げた。


「同じ米でも、同じ蔵でも、同じ人間でも、同じ酒は二度とできない」


一口飲んで噛みしめるように続ける。


「その年の気候も違う、水も違う、人の気分も違う。だから面白い」


真響は少し考えた。


それは。


人間にも似ている。


同じ人間などいない。


同じ人生もない。


同じ後悔もない。


同じ救いもない。


だから。


蒼麻は怪異に関わるのかもしれない。


蒼麻は続けた。


「酒ってな」


蓮二が辛そうに言う。


「まだ続くのか」


真響はふと聞いた。


「その中で一番好きな酒はあるのか」


蒼麻は黙った。


意外だった。


即答しない。


しばらく考えて。


それから笑った。


「ない」


「ないのか」


「選べない」


真響は少し理解した。


怪異。


人。


酒。


蒼麻は。


一つを選んで切り捨てるのが苦手なのだ。


だから抱える。


だから戻す。


だから面倒なことになるのかもしれない。


真響は静かに言った。


「なるほど理解した」


蒼麻は顔を上げる。


「理解した?」


真響は首を振った。


「いや、酒の事はまだ理解できない」


「うん?」


「だが」


少しだけ間を置いて。


「お前が酒を好きな理由は分かった」


蒼麻は少し驚いた。


そして笑った。


「まぁ、それで十分だ」


窓の外では。


山の風が吹いていた。


九尾狐も。


奥之院も。


葉月も。


まだ動いている。


けれど今だけは。


ただ酒を飲みながら。


怪異より厄介な趣味を語る男がいた。


そして。


和灯の誰もが思っていた。


たぶん。


これが神代蒼麻の本来の姿なのだろう、と。

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