第四十三話 麗樹への告知
麗樹へ連絡を入れたのは、麻那だった。
場所は、神代商工会の一室。
奥之院ではない。
和灯でもない。
麗樹の私室でもない。
あまりにも公的すぎず、あまりにも私的すぎない場所。
誰かが崩れた時に、逃げ道を残す場所だった。
蒼麻は部屋の隅で腕を組んでいた。
「俺、いた方がいいのか」
麻那は資料を閉じる。
「いた方がいい」
「麗樹さんからしたら、俺はほぼ巻き込まれた部外者だろ」
「今はもう、部外者じゃない」
それは、嬉しくない認定だった。
真響は窓際に立っている。
奥之院から戻って以降、彼女は少しだけ静かだった。
九尾の声。
蘭の影。
黒狐にとっても、それは軽いものではなかったのだろう。
「麗樹は、蘭を大切に思っていたのか」
真響が問う。
麻那は頷いた。
「実の姉妹です。麗樹さんは、ずっと蘭様の失踪を追っていました」
「なら、心が痛むか」
「はい」
蒼麻は息を吐く。
「知らせない方が優しい、って言いたくなるやつだな」
麻那は静かに言った。
「でも、それをやったら神代と同じになる」
その言葉で、蒼麻は何も言えなくなった。
少しして、扉が開いた。
入ってきたのは、神代麗樹。
整った顔立ちの女性だった。
涼やかで、凛としていて、簡単には揺れなさそうに見える。
だが、その目は入室した瞬間から警戒していた。
「麻那。急ぎと聞いたけれど」
そして、蒼麻を見る。
「神代蒼麻さん」
「はい」
「あなたもいるのね」
「すみません、いた方がいいらしくて」
麗樹は真響へ視線を向けた。
「黒狐 真響まで」
真響は答えない。
麗樹の表情が、ほんの少し硬くなる。
「もしかせて蘭姉様のこと?」
麻那が息を止め、蒼麻も言葉を失う。
麗樹は静かに笑った。
「その顔で分かるわ」
誰も、すぐには答えられなかった。
麻那が椅子を勧める。
「座ってください」
「座らないと聞けない話?」
「はい」
麗樹は少しだけ目を伏せ、椅子に座った。
背筋は伸びている。
手も震えていない。
それが逆に痛々しかった。
麻那は、ゆっくり話し始めた。
「奥之院で、蘭様の名が出ました」
麗樹の睫毛が微かに揺れる。
「名簿に?」
「牡丹様の封印帳に」
麗樹の顔色が変わった。
「牡丹様の……?」
麻那は頷く。
「それだけではありません。奥之院の神鏡に、蘭様の影が現れました」
沈黙。
麗樹は、静かに聞いた。
「生きているのね」
麻那はすぐには答えなかった。
蒼麻が口を開く。
「たぶん」
麗樹が蒼麻を見る。
「たぶん?」
「少なくとも、声はありました。意思も。俺たちに話しかけてきた」
麗樹の指が、膝の上で強く握られる。
「何を言ったの」
麻那が顔を歪める。
だが、隠さなかった。
「麗樹さんには、まだ言わないでください、と」
麗樹の表情が消えた。
きれいに。
あまりにもきれいに消えた。
「そう」
たった一言だった。
蒼麻は、その一言の下で何かが折れた音を聞いた気がした。
麗樹は続ける。
「姉様らしいわ」
麻那が声を震わせる。
「麗樹さん」
「優しいふりをして、私を置いていく」
その声は、冷静だった。
冷静すぎた。
「昔からそうだった。私が泣くと思って、痛いことは隠す。私が怒ると思って、本当のことは後にする。自分だけ先に見て、自分だけ先に決める」
麗樹は、そこで初めて唇を噛んだ。
「……姉様らしい」
真響が静かに目を伏せる。
蒼麻は、麻臣のことを思い出していた。
守るために隠す。
愛しているから言わない。
その優しさが、残された者をどれほど傷つけるのか。
自分も、痛いほど知っている。
麗樹は顔を上げた。
「それで、蘭姉様はどこにいるの」
麻那が答える。
「分かりません」
「奥之院の最奥?」
真響が口を開いた。
「違う」
麗樹の視線が真響へ向く。
「では、どこだというの」
「九尾狐側だ」
部屋の空気が凍った。
麗樹の瞳が、わずかに見開かれる。
「……何を言っているの」
真響は静かに続けた。
「蘭は、九尾狐と対話した。対話しすぎた。牡丹は、そう言った」
「牡丹様が?」
蒼麻が頷く。
「蘭さんは、九尾の思想に染まってしまったって」
麗樹は笑った。
一瞬だけ。
「嘘」
誰も答えない。
麗樹は、もう一度言った。
「嘘でしょう」
その声は、少しだけ震えていた。
「姉様は、奥之院のために動いていた。封印を守るために。神代を守るために。私に、そう言っていた」
麻那は目を伏せた。
「はい」
「なのに、九尾狐側?」
真響が言う。
「優しい者ほど、九尾の声を聞きやすい」
麗樹が真響を睨む。
「慰め?」
「違う」
「では何」
「警告だ」
真響の声は冷たくない。
むしろ、静かだった。
「九尾狐は、救いたい者に近づく。正したい者に近づく。世界を良くしたい者に近づく」
蒼麻の胸がざわつく。
麗樹は、ゆっくり目を伏せた。
「姉様は、救いたがる人だった」
「なら、狙われたのだろう」
真響はそう言った。
麗樹の肩が震えた。
だが、涙は出なかった。
まだ、泣く場所までたどり着いていないのだろう。
「私は、何も知らなかった」
麻那が言う。
「私たちも、知りませんでした」
麗樹は首を横に振った。
「そうじゃなくて。私は妹なのに、何も知らなかった」
その言葉が、麻那に刺さったのが分かった。
麻那もまた、兄に隠してきた妹だったから。
蒼麻は静かに言った。
「あなたは知らされなかったんです」
麗樹が彼を見る。
「どういう意味かしら?」
蒼麻は、父のことを思い出しながら言った。
「知らなかったことまで、自分の責任にしなくていいと思います」
麗樹の表情が揺れた。
「あなたがそれを言うの」
「言いますよ。俺も、知らされなかった側なので」
長い沈黙。
麗樹は、やっと目を伏せた。
「そうね」
その声は、小さかった。
「あなたは、そうだったわね」
麻那が、そっと資料を差し出す。
「麗樹さん。これが、奥之院で確認された記録です。まだ全部ではありません。隠さず渡します」
麗樹は資料を見つめた。
すぐには受け取らない。
「渡していいの」
「本当は、紫苑様と桜さんの確認を取るべきかもしれません」
「では、なぜ」
麻那はまっすぐ答えた。
「本人には知る権利があるからです」
麗樹の目が揺れた。
「……麻那」
「はい」
「あなた、変わったわね」
麻那は少しだけ笑った。
「兄に怒られました」
蒼麻は横から言う。
「そこ、俺の手柄なのか」
「うん」
「照れるな」
真響が淡々と言った。
「照れるところではない」
蒼麻が静かになる。
麗樹は、そのやり取りを見て、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑いではない。
でも、泣き出す一歩手前の緊張が、わずかにほどけた。
そして、資料を受け取った。
「読むわ」
麻那が頷く。
「はい」
麗樹は一枚目を開いた。
そこには、神代蘭の名。
そして、九尾を聞く者、という記録。
麗樹の目が止まる。指先が震える。
それでも彼女は、最後まで読んだ。
その間、誰も口を挟まなかった。
やがて、麗樹は資料を閉じて言った。
「姉様を探す」
麻那が息を呑む。
「麗樹さん」
「止めても無駄よ」
蒼麻は苦笑した。
「その台詞、最近よく聞きます」
麗樹は蒼麻を見た。
「あなたも来る?」
「え」
「姉様は、あなたに接触したのでしょう。なら、あなたの周囲にまた現れる可能性がある」
真響が低く言う。
「危険だ」
麗樹は真響を見る。
「危険でも、私は探す」
「そうだろうな」
「止めないの?」
「止めても無駄だと、言ったのはお前だ」
麗樹は、少しだけ意外そうに真響を見た。
「黒狐はもっと冷たいものだと思っていた」
「黒は五気でいえば寒。わたしは冷たいぞ」
「そう」
麗樹は静かに立ち上がる。
「なら、その冷たさで見ていて。私が蘭姉様の声に飲まれそうになったら」
少し間を置いて。
「止めて」
真響は、しばらく麗樹を見ていた。
そして短く答えた。
「分かった」
麻那が目を伏せる。
蒼麻は、麗樹の背筋を見ていた。
崩れそうで、崩れない。
泣きそうで、泣かない。
強い人だ。
けれど、強いから壊れないわけではない。
「麗樹さん」
蒼麻が呼ぶ。
麗樹が振り返る。
「何」
「泣く場所が必要なら、和灯って店があります」
麗樹は一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
蒼麻は続ける。
「酒も飯もあるんです。たぶん店主が何か出します」
真響が小さく言う。
「ひどいな勧誘だな」
麻那は少しだけ笑った。
麗樹は、しばらく蒼麻を見ていた。
そして、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「考えておくわ」
「はい」
「でも、まだ泣けないかな」
「それもいいと思います」
麗樹は資料を抱え、扉へ向かう。
出ていく直前、彼女は振り返らずに言った。
「麻那」
「はい」
「隠さず伝えてくれて、ありがとう」
麻那の目が潤む。
「はい」
扉が閉じた。
部屋に、長い沈黙が落ちる。
蒼麻は椅子に座り直した。
「……きついな」
麻那が小さく頷く。
「うん」
真響は窓の外を見た。
「これで、九尾もさらに動くだろう」
「だろうな」
蒼麻は息を吐いた。
その時だった。
廊下の奥で、警報が鳴った。
短く、鋭く。
麻那がすぐに端末を見る。
「結界反応」
「どこ」
「麗樹さんの退出経路」
蒼麻が立ち上がる。
「早すぎないか」
真響の目が鋭くなる。
「獣の匂いだ」
蒼麻の背筋に、山で感じた気配が蘇る。
虎のような、鋭い匂い。
まだ名を知らない襲撃者。
麻那が弓を取り出す。
「麗樹さんが狙われてる」
真響は、すでに扉へ向かっていた。
「行くぞ」
蒼麻も走り出す。
麗樹は、蘭の真実を知った。
その直後に、獣の気配が動いた。
あまりにも出来すぎている。
九尾狐か。
神代か。
それとも、まったく別の理屈で動く者か。
廊下の先で、何かが砕ける音がした。
そして、獣の唸り声が響いた。
物語は、麗樹の涙を待ってはくれなかった。
神代商工会の廊下を切り裂くように殺気が膨れ上がる。
かつて神代一族が対九尾狐として、虎神を降ろし兵器化しようとした者の血族。
神代 葉月
中性的で整った顔立ちだが、そこには野生の凄みが、殺意を纏って構えていた。
鋭く伸びた爪が麗樹を引き裂くために迫る。
葉月が鋭く麗樹の足元まで一瞬で踏み込んだ。
床が弾ける。
獣のような速度だった。
振るわれた爪が空を裂く。
麗樹は紙一重でそれを躱す。
床が砕け、廊下の壁に深い裂傷が走った。
常人なら反応すらできない一撃だった。
しかし麗樹は慌てない。
ただ静かに距離を取る。
葉月は舌打ちした。
「避けるな」
「避けなければ死ぬからね」
「なら死ね」
再び踏み込む。
今度は横薙ぎ。
風が鋭く鳴る。
だが麗樹はまた躱した。
戦っていない。
攻撃もしない。
ただ受け流している。
それが葉月には気に入らなかった。
「だせ」
低く唸る。
「何をだい」
「武器だ」
「持っていない」
「ふざけるな」
葉月の声に怒気が混じる。
麗樹は困ったように笑った。
「本当に持っていないんだ」
それは事実だった。
麗樹は戦う人間ではない。
繋ぐ人間だ。
だからこそ葉月は苛立つ。
神代の中枢にいる者が。
神代を支える者が。
目の前にいるのに。
どうして敵にならない。
どうして憎しみを返してこない。
どうして言い訳をしない。
葉月は再び刃を構えた。
「お前たちは変わらない」
麗樹は黙って聞く。
「神を兵器にし、人を器にし、都合の良い理屈を並べて切り捨てた」
葉月の周囲で空気が軋む。
空間そのものが呼吸しているようだった。
白虎の気配。
そして久久能智神の気配。
二つの異質な力の両方が葉月の中で唸っている。
「俺もその一つだ」
その言葉は吐き捨てるようだった。
「神代は滅びるべきだ」
麗樹は静かに目を伏せた。
「そう思う理由はあるだろうね」
葉月の表情が歪む。
その答えが一番気に入らない。
否定しろ。
反論しろ。
正当化しろ。
そうすればすぐに殺せる。
だが麗樹は違った。
「君が怒るのは当然だ」
葉月の足が止まる。
「だが」
麗樹はゆっくり顔を上げた。
「君が背負わなくてもいい怒りまで背負っているようにも見える」
その瞬間だった。
葉月の爪が麗樹の首元で止まった。
あと数ミリ。
引き裂けばそれで終わる距離。
だが振り切れない。
葉月自身が理解できなかった。
なぜだ。
なぜオレはこいつを斬り裂けない。
神代なのに。
敵なのに。
目の前にいるのに。
長い沈黙が落ちる。
やがて葉月は爪を下ろす。
「……おまえは甘いな」
吐き捨てるように言った。
麗樹は少し笑った。
「よく言われる」
「だからすぐに死ぬだろう」
「かもしれないね」
葉月は苛立ったように背を向けた。
廊下の非常灯が白い髪を照らす。
「次は殺す」
「そうかもしれない」
「お前は本当に神代なのか」
その問いに麗樹は少し考えた。
そして静かに答えた。
「神代でありたいとは思っているよ」
葉月は振り返らなかった。
暗い廊下の奥へ歩いていく。
やがて気配も消えた。
その場には静寂だけが残り、麗樹はその場に立ち尽くしていた。
失ったものは戻らない。
許されない過去も消えない。
それでも歩くしかない。
繋ぐしかない。
そうしなければ、もっと多くのものが失われてしまうから。
背後からは蒼麻たちが駆け寄ってくる音が響いていた。




