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第四十二話 鳥居の外の黒狐

奥之院の扉が閉じた瞬間、蒼麻はようやく息を吐いた。


吐けた、という方が近かった。


胸の奥では、まだ九尾狐の欠片が熱を残している。


牡丹の声。

蘭の声。

九尾狐の声。


どれも耳の奥に残って、消えない。


麻那は隣で、ずっと蒼麻の袖を掴んでいた。


「お兄ちゃん」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない時の声」


「今日、それ何回目だよ」


麻那は笑わなかった。


「必要なだけ言うって言った」


桜は前を歩いている。

黒いマスクの奥から、やはり呼吸音は聞こえない。


けれど、奥之院へ入る前よりも少しだけ、空気が鋭い。


「桜さん」


蒼麻が呼ぶと、桜は振り返った。


「はい」


「蘭さんのこと、どこまで知ってました?」


桜は少しだけ沈黙した。


「失踪したことだけです」


「本当に?」


「少なくとも、私が知っていたのはそこまでです」


「神代語じゃないですよね、それ」


桜の目元が少しだけ笑った。


「努力します。私は、蘭さんが九尾狐と対話し、その思想に染まっているということは知りませんでした」


麻那が静かに息を吐く。


「麗樹さんには伝える必要があります」


桜は即答した。


「ただし、誰が、どの順番で、どこまで伝えるかは慎重に決めるべきです」


蒼麻は苦笑した。


「また慎重」


「神代は隠しすぎる。ですが、考えなしにそのまま明かしても人は壊れます」


それは否定できなかった。


廊下を抜ける。


白木の鳥居が見えてきた。


その先に、山の空気がある。


奥之院の内側とは違う、湿った土と木々の匂い。


蒼麻は、その匂いに少し救われた。


「人間の世界だ」


麻那が小さく頷く。


「うん」


そして。


四つ目の鳥居の外。


黒い着物の女が立っていた。


真響。


蝋梅の香りが、風に混じって届く。


蒼麻はその姿を見た瞬間、胸の奥の熱が少しだけ引いた。


本当に、待っていた。


当たり前のように。


けれど、当たり前ではない。


真響は、こちらへ歩いてこなかった。


鳥居の外で、静かに立っている。


「戻ったか」


短い言葉。


蒼麻は頷いた。


「戻った」


「名は」


「神代蒼麻」


真響の目が少しだけ細くなる。


「よい」


たったそれだけで、蒼麻は肩の力が抜けた。


麻那も、袖を握る手をようやく離した。


「真響さん」


「よく呼び続けた」


麻那は少しだけ目を見開いた。


真響が褒めた。


本当に珍しい。


麻那は静かに頭を下げる。


「ありがとうございます」


真響は視線を逸らした。


「礼はいらぬ」


蒼麻は少し笑った。


「照れてる?」


「違う」


「即答」


「うるさい」


それだけで、少し日常が戻った。


けれど、戻りきるには、いま見てきたものが重すぎた。


真響は蒼麻をじっと見ている。


「中で、何があった」


聞かないかと思っていた。


でも聞いた。


蒼麻は、少しだけ意外だった。


「聞くんだな」


「聞かねばならぬことがある顔をしている」


「便利な顔判定だよな」


「お前は分かりやすいからな」


蒼麻は息を吐いた。


鳥居の前に立ったままでは、話せそうになかった。


桜が静かに言う。


「少し下に、休める場所があります」


真響は桜を一瞥した。


「お前は来るな」


桜は素直に頷いた。


「承知しました」


「素直だな」


「あなたに嫌われている自覚はありますので」


「嫌ってはいない」


「そうですか」


「好ましくないだけだ」


蒼麻は小声で言った。


「真響、それほぼ嫌いだぞ」


桜は目元だけで笑い、会話の聞こえない少し離れた場所へ下がった。


石段の途中に、古い休み処があった。


屋根だけの小さな東屋。


苔むした石の長椅子。


山風。


そこで三人は腰を下ろした。


真響は座らず、柱にもたれている。


蒼麻は蓮二の握り飯の包みを取り出した。


麻那が少し驚く。


「今、食べるの?」


「人間確認」


真響が静かに言う。


「食え」


麻那も小さく頷いた。


「食べて」


蒼麻は包みを開いた。


梅干しの握り飯。


塩気がある。


ひと口食べる。


その瞬間、奥之院の甘く冷たい空気が、少しだけ体から抜けた気がした。


「……うまい」


真響が目を細める。


「よい」


「蓮二に報告しないとな」


「するべきだ」


麻那も、ようやく少しだけ笑った。


その笑いを見てから、蒼麻は話し始めた。


「九尾狐が出た」


真響の表情は変わらない。


けれど、周囲の空気が少しだけ黒く沈んだ。


「声か」


「鏡の中から」


「何を言った」


「俺なら世界を直せる、みたいなこと」


真響の目が冷える。


「いつもの手だ」


「いつもの?」


「人の善意に手を入れる。救いたい心を、支配に変える」


蒼麻は頷いた。


「桃さんの言ってた毒と同じだった」


「君ならできる、か」


「そう」


真響は低く言った。


「聞くな」


「聞きたくなくても聞こえるんだよ」


「なら、信じるな」


「信じてない」


「完全にそうか?」


蒼麻は答えられなかった。


真響は責めなかった。


ただ、静かに言った。


「そういうものだ」


麻那が手を握る。


「蘭様も出た」


真響の気配が、今度こそ明らかに変わった。


黒い狐火が、足元に一瞬だけ灯る。


「蘭が」


蒼麻は真響を見る。


「知ってるのか?」


「直接は多くない。だが、奥之院の中でも九尾の声に近い者がいるとは聞いていた」


「それが蘭さん?」


「かもしれぬと思っていた」


麻那が息を呑む。


「真響さんは、蘭様が九尾側にいると?」


「確信はなかった」


「今は?」


真響は目を伏せる。


「ほぼ、そうだろう」


風が冷たくなる。


麻那の顔色が悪い。


「麗樹さんには……」


「伝えるべきだ」


真響は即答した。


麻那は少し驚く。


「真響さんも?」


「隠せば、九尾に先を越される」


蒼麻はその言葉に、ぞっとした。


「九尾狐が麗樹さんへ直接言う可能性がある?」


「ある」


真響の声は重い。


「しかも、最も優しい形で言うだろう」


「最悪じゃないか」


「最悪だ」


蘭は鏡の中で言った。


――麗樹には、まだ言わないでくださいね。

――あの子は、まだ泣いてしまうから。


優しい声だった。


だが、それは麗樹を守る言葉ではない。


麗樹の知らないところで、麗樹を置き去りにする言葉だった。


蒼麻は握り飯を見た。


食欲が少し戻ったところだったのに、また重くなる。


「麗樹さん、壊れるかな」


麻那が言う。


「分からない。でも、知らないままでいる方が、後で壊れると思う」


真響は頷いた。


「妹は、それを知っている」


麻那が少しだけ目を伏せる。


「……はい」


麻那自身、隠される痛みと、隠す痛みを知っている。


だから言葉が重い。


蒼麻は、静かに言った。


「伝えよう」


「お兄ちゃん」


「ただし、いきなり全部ぶつけるんじゃなくて。ちゃんと、本人の名前を呼べる場所で」


真響が蒼麻を見た。


「少しは学んだな」


「かなり学んでるよ」


「まだ足りぬ」


「厳しいな」


真響は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


その時、山の奥で鳥居が鳴った。


一度だけ。


かん、と乾いた音。


真響の目が鋭くなる。


麻那が弓に手を伸ばす。


蒼麻も立ち上がった。


「何だ」


桜がすぐさま離れた場所から戻ってくる。


「内側ではありません」


「外?」


桜は頷く。


「鳥居の外縁に、何者かが触れました」


真響が低く言う。


「獣の匂いがする」


「獣?」


蒼麻が聞く。


麻那が周囲を見回す。


「怪異?」


真響は首を振った。


「人に近い。だが、人だけではないな」


木々の間で、何かが動いた。


黄色でも黒でもない。


虎のような、鋭い気配。


その気配は一瞬だけ現れ、すぐに消えた。


桜が目を細める。


「結界を測っただけですね」


麻那の表情が険しくなる。


「奥之院を?」


「あるいは、誰かを」


蒼麻は、さっきまで話していた名前を思い出した。


麗樹。


蘭。


そして、まだ会っていない者。


葉月。


虎人の血を引き、後に麗樹の伴侶となる者。


最初は、麗樹を殺しに来る者。


蒼麻はまだその名を知らない。


だが、物語だけが先に動き始めていた。


真響が言う。


「近いうちに、血が動く」


「なんだその怖すぎる予言は」


「予言ではない。匂いだ」


「なお嫌だ」


麻那はスマートフォンを取り出した。


「麗樹さんに連絡します」


蒼麻は頷く。


「俺も行く」


「まずは紫苑様と桜さんに確認を」


「また神代会議?」


「今回は必要」


蒼麻はため息をついた。


「神代、会議多いな」


桜が目元だけで笑う。


「その代わり、決まった後は速いですよ」


真響が冷たく言う。


「決まるまでが遅い」


「否定しません」


山を下りる道。


真響は蒼麻の少し後ろを歩いていた。


いつもなら隣に来る。


今日は、少しだけ距離がある。


蒼麻は振り返った。


「真響」


「何だ」


「距離、戻ってないぞ」


真響は一瞬黙った。


「奥之院の残り香がある」


「俺に?」


「お前にも、私にも」


「じゃあ、和灯に帰ったら酒でほどくか」


真響は呆れたように見た。


「またそれか」


「またそれだ」


「……悪くない」


蒼麻は笑った。


麻那も、前を歩きながら少しだけ笑った。


桜は何も言わない。


山の風が吹く。


蝋梅の香りが、ようやく少し濃く戻ってきた。


奥之院の声は、まだ消えない。


牡丹の涙。


蘭の微笑み。


九尾狐の誘い。


そして、どこかから近づく獣の気配。


蒼麻は鳥居の、結界の外へ戻った。


黒狐が待っている場所へ。


名前を呼べば、届く場所へ。


まだ、戻れるから。

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