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第四十一話 封印の声

鏡の奥から、九尾狐の声が響いた。


甘く、静かで、懐かしい。


聞いたことがないはずなのに、知っている声だった。


――久しいな、牡丹。


神代牡丹の肩が震えた。


「……呼ばないで」


――お前が私を呼び続けた。


紫苑の祝詞が強くなる。


桜が黒いマスク越しに息を沈めた。

呼吸音は聞こえない。


だが、空気がわずかに歪む。


麻那は蒼麻の袖を掴んだまま、必死に兄の名を呼んだ。


「蒼麻。神代蒼麻」


その声が、細い糸のように蒼麻を繋ぎ止める。


蒼麻の胸の奥で、九尾狐の欠片が熱を持つ。


鏡の中に、九つの尾が広がった。


――神代蒼麻。


呼ばれた。


それだけで、膝が揺れた。


「……呼ぶな」


蒼麻は奥歯を噛む。


九尾狐は笑った。


――呼ばれたくないのか、人の子よ

――名は、呼ばれてこそ形になるのに。


「お前が呼ぶと、意味が違う気がする」


――鋭いな。


牡丹が、震える手で胸元を押さえた。


「蒼麻。聞いては駄目」


「聞こえます」


「聞こえても、渡しては駄目」


「何を」


「あなたの名を」


その瞬間、鏡の中に別の景色が映った。


雨守酒造。


和灯。


木山神社。


水守酒造。


紅谷酒造。


今まで蒼麻が関わった場所が、次々と映る。


九尾狐の声が囁く。


――お前は戻せる。

――名を戻し、縁を戻し、責任を戻し、願いを土へ戻した。

――人はお前を必要とする。


蒼麻の息が詰まる。


必要とする。


それは毒だと、桃が言った。


君ならできるという言葉は、人を簡単に道具にする。


九尾狐は、その毒を最も美しい声で差し出してくる。


――世界は、いつも少し間違っているのだ。

――お前なら、それを直せる。


「違う」


蒼麻は呟いた。


「俺は世界を直したいわけじゃない」


――では、目の前の者だけ直すか?


鏡の中に、牡丹が映る。


壊れたまま生かされている初代。


次に、麻那。


兄を守るために疲弊する妹。


次に、真響。


鳥居の外で待つ黒狐。


九尾狐は甘く言う。


――救いたいであろう?


蒼麻は答えられなかった。


救いたい。


それは嘘ではない。


だからこそ、危険だった。


麻那が叫ぶ。


「蒼麻!」


その声で、蒼麻は息を吸い戻した。

救いたいと思っただけで、何かが胸の奥に食い込んでくるような感覚があった。


「……今の、かなり危なかった」


桜が低く言う。


「鏡を閉じます」


紫苑が頷く。


「やれ」


桜の手に、見えない槍の輪郭が現れる。


霊槍 天逆鉾(あまのさかほこ)


黒いマスクの奥で、呼吸が変わった。


一拍。


二拍。


その呼吸に合わせて、部屋の空気が裂ける。


桜が槍を振るう。


鏡の前に、透明な刃のような結界が立った。


九尾狐の声が少し遠のく。


――相変わらず不器用な一族だ。


牡丹が鏡を睨んだ。


「あなたに言われたくない」


その声は、さっきまでの壊れた響きではなかった。


ほんの一瞬だけ。


初代神代牡丹が、そこにいた。


「九尾。あなたは、また世界を縫いつけるつもりなの」


――いや。


九尾狐は答えた。


――我は、ほつれを整えるだけ。


「それを支配と言うのよ」


――人は、支配されている時の方が安心する。


「黙りなさい」


牡丹の声が鋭くなる。


部屋の札が一斉に震えた。


麻那が息を呑む。


紫苑が目を見開く。


牡丹の霊気が膨れ上がる。


天陽と冥陰。


光と闇が、彼女の体内で混ざり、軋んでいる。


美しい。


だが、痛々しい。


牡丹は蒼麻を見た。


「蒼麻」


「はい」


「あなたは、九尾の欠片を抱いている。でも、それはあなたの全部ではない」


「分かっています」


「本当に?」


蒼麻は言葉に詰まった。


牡丹は微笑んだ。


「分からなくなる日が来る」


その言葉が、静かに刺さった。


「あなたが誰かを救いたいと思うほど。あなたが戻したいと思うほど。あなたの中の欠片は、その願いを食べるでしょう」


麻那の顔が青ざめる。


「そんな……」


牡丹は優しく言った。


「だから、名前を呼びなさい。呼び続けなさい。救う者にも、救われる者にも、名がいる」


九尾狐が笑う。


――名は縛るものでもある。


「縛られてでも、人は人でいられる」


牡丹は言った。


「あなたには、それが分からない」


鏡の中で、九つの尾が揺れた。


その時、奥之院全体が軋んだ。


遠くで、鳥居が鳴る。


外にいる真響の狐火が反応したのだと、蒼麻にはなぜか分かった。


黒い火が、鳥居の外で揺れている。


九尾狐の気配に、真響が耐えている。


蒼麻は拳を握った。


「真響」


名を呼んだ瞬間、胸の熱が少しだけ静まった。


鏡の奥で九尾狐が笑う。


――黒を呼ぶのか。


「呼ぶよ」


――大切?


「いなくなると困る」


以前と同じ答え。


けれど今は、前よりはっきり言えた。


九尾狐は楽しそうだった。


――十分だ。


「勝手に判定するな」


牡丹が、ほんの少しだけ笑った。


「いい子ね」


「子ども扱いですか」


「私は、だいたいの神代を子どもだと思っているわ」


紫苑が目を伏せた。


「耳が痛いですね」


「あなたもよ、紫苑」


「承知しております」


この状況で説教される大祭司。


蒼麻は少しだけ、場違いに笑いそうになった。


その一瞬の人間らしさが、彼を戻した。


麻那も気づいたのか、袖を握る手が少し緩む。


九尾狐の声が、ふっと冷えた。


――牡丹。

――お前はまだ、我を憎んでいるのか?


牡丹は答えなかった。


長い沈黙。


やがて、静かに言った。


「憎んでいるわ」


鏡の中の尾が止まる。


「でも、それだけではない」


牡丹の声が震えた。


「あなたを封じたことで、神代は力を得た。欠片を分け、神を降ろし、怪異を祓い、世界を守ると言った」


「でも、本当は」


牡丹の目から涙が落ちた。


「あなたを滅ぼせなかっただけ」


部屋の空気が沈んだ。


神代一族の根の部分。


九尾狐を封じた誇り。


世界を守った歴史。


その奥にある、失敗。


滅ぼせず、分けて、抱え込んだ。


だから今も、欠片は神代の血と術に残っている。


牡丹は言った。


「蒼麻」


「はい」


「神代を信じすぎてはいけない」


紫苑は何も言わなかった。


麻那も、ただ唇を噛んだ。


「でも、神代を捨てきることもできない。あなたの名は神代。麻臣の名も、麻那の名も、そこにある」


「……はい」


「なら、選びなさい」


「何を」


牡丹は、鏡の九尾を見た。


「あなたの欠片を、誰のものにするか」


蒼麻は息を止める。


九尾狐が静かに笑う。


牡丹は続けた。


「九尾へ戻すのか。神代へ差し出すのか。それとも、自分のものにするのか」


蒼麻の胸の疼きが強くなる。


自分のものにする。


そんなことを、考えたことがなかった。


九尾狐の欠片。


危険なもの。


封じるもの。


抑えるもの。


戻らせてはいけないもの。


それを、自分のものにする。


麻那が小さく言った。


「お兄ちゃん……」


蒼麻は目を伏せた。


「今すぐには、選べません」


牡丹は頷いた。


「それでいいわ」


九尾狐が低く笑う。


――保留が好きだな、人間は。


蒼麻は鏡を見た。


「保留できるのも人間の特権だろ」


紫苑がわずかに目を見開いた。


桜の目元が笑う。


麻那は、少しだけ泣きそうな顔をした。


牡丹は、静かに微笑んだ。


「いい答え」


だが次の瞬間。


鏡の奥から、別の声が響いた。


女の声。


若く、澄んでいて、どこか麗樹(れいじゅ)に似た声。


――牡丹様。


麻那の顔色が変わる。


「この声……」


紫苑が息を呑む。


「蘭」


牡丹が震えた。


「……来ては駄目」


鏡の中に、長い髪の女の影が映る。


神代蘭。


失踪した奥之院の術者。


麗樹の姉。


彼女は鏡の奥で、優しく微笑んでいた。


――蒼麻さん。


呼ばれた。


麻那がすぐに叫ぶ。


「蒼麻!」


蒼麻は踏みとどまる。


蘭の声は、九尾狐ほど甘くない。


むしろ人間らしい。


だから、余計に危うかった。


――あなたに会いたかった。


牡丹が震える声で言った。


「蘭。戻りなさい」


蘭は笑った。


――戻る場所など、もうありません。


九尾狐の尾が、蘭の背後で静かに揺れる。


蘭は言った。


――奥之院は、九尾狐を封じたのではありません。

――神代は、九尾狐に生かされてきたのです。


紫苑の祝詞が止まりそうになる。


桜が槍を構え直す。


麻那が弓へ手を伸ばす。


蘭はただ、優しく微笑んでいた。


――麗樹には、まだ言わないでくださいね。


その一言で、麻那の表情が変わった。


「あなたは……」


蘭は鏡の奥からこちらを見た。


――あの子は、まだ泣いてしまうから。


そして、鏡の曇りが一気に晴れた。


九尾狐の気配も、蘭の影も消える。


部屋に残ったのは、冷えた空気と。


牡丹のすすり泣きだけだった。


紫苑は低く言った。


「桜。封鎖を二重に」


「はい」


桜の呼吸が変わる。


部屋の結界が閉じていく。


麻那は、蒼麻の袖を握ったまま震えていた。


蒼麻は、言葉を探す。


だが、見つからなかった。


神代蘭は生きている。


九尾狐側にいる。


そして、麗樹は知らない。


牡丹は、涙を拭わずに蒼麻を見た。


「これで、始まってしまったわ」


蒼麻は答えた。


「もう、とっくに始まってたんだと思います」


牡丹は涙もそのままに呟いた。


「あなた、麻臣に似て本当に嫌なところを見る子ね」


蒼麻は力なく苦笑した。


その時、遠くで鳥居が鳴った。


黒狐が、まだ外にいる。


待っている。


蒼麻は深く息を吸った。


「麻那」


「なに」


「戻ろう」


麻那は頷いた。


「うん」


牡丹が言う。


「また来なさい」


蒼麻は振り返った。


「いいんですか」


「来てしまったもの。もう遅いわ」


それは、ひどく静かな宣告だった。


蒼麻は一礼した。


「また来ます」


牡丹は、壊れた美しさのまま微笑んだ。


「人としてね」


奥之院の深い静けさの中で。


蒼麻は、自分の名をもう一度確かめた。


神代蒼麻。


まだ、人間。


まだ。

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