第四十話 奥之院
奥之院の扉は、音を立てずに開いた。
開いた、というより。
長く閉じていたものが、ようやく訪れた者を認めたようだった。
中は暗い。
けれど、闇ではない。
白い帳。
古い檜の柱。
磨かれた黒い床。
行灯の淡い火。
天井から垂れる注連縄。
空気には、香と紙と水の匂いが混じっていた。
そして、その奥に。
狐の気配がある。
蒼麻は一歩入った瞬間、胸の奥を押さえた。
九尾狐の欠片が、静かに疼き震えている。
暴れるのではない。
怯えるのでもない。
帰り道を見つけたように、震えている。
「お兄ちゃん」
麻那の声が隣で聞こえた。
その声で、蒼麻は息を吸った。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない時の声」
「……今日はそれ、何回目だ」
「必要なだけ言う」
麻那の手が、蒼麻の袖を軽く掴んでいた。
強くではない。
逃がさないためではなく、戻すための手だった。
桜が先を歩く。
黒いマスクに隠された口元からは、呼吸音がほとんど聞こえない。
本当に、呼吸が見えない男だ。
廊下は長かった。
左右には、古い名簿棚が並んでいる。
そこには神代一族の名が記されていた。
代々の術者。
神降しを行った者。
封印を守った者。
怪異に喰われた者。
九尾狐の欠片に飲まれた者。
生きた者。
消えた者。
名だけが残った者。
蒼麻は、棚の前を通るたびに、自分の内側で何かが鳴るのを感じた。
小さな狐火が、名の奥で揺れている。
本当に。
神代一族は、九尾狐を封じたのではなく、分けたのだ。
「気分は?」
桜が振り返らずに問う。
「最悪です」
蒼麻は正直に答えた。
「それは良かった」
「良くないですよ」
「ここで気分が良い者は、たいてい危険です」
麻那が小さく頷いた。
「それは本当」
蒼麻はため息をつく。
「神代語、今日も絶好調だな」
廊下の先に、広い間があった。
畳ではない。
黒く磨かれた床。
中央には、白い円座。
奥には神鏡。
その前に、神代紫苑が立っていた。
黒衣。
静かな目。
大祭司としての気配は、いつ見ても重い。
だが、今日はそれだけではない。
紫苑の背後に、奥之院そのものがある。
そう感じた。
紫苑は、深く一礼した。
「神代蒼麻」
蒼麻も頭を下げる。
「……お招きいただきました」
「招いたというより、来るべき時が来た」
「そういう言い方、苦手です」
「麻臣もそう言った」
また父の名。
蒼麻は少しだけ顔をしかめた。
紫苑は、それを見てわずかに目を伏せた。
「今のは余計だったな」
「いえ」
蒼麻は首を振る。
「たぶん、慣れるしかないんでしょうね」
「慣れなくてよい」
紫苑は静かに言った。
「麻臣は、お前の父だ。奥之院の記録ではない」
その言葉は、意外だった。
蒼麻は少しだけ紫苑を見る目を変えた。
麻那も、隣で息を飲んでいる。
紫苑は続ける。
「今日、お前をここへ通す理由は三つある」
「三つ」
「一つ。神代牡丹がお前を呼んだ」
蒼麻の胸が小さく震える。
「二つ。九尾狐の欠片が、お前の中で目覚め始めている」
麻那の手に、少し力が入った。
「三つ」
紫苑の声が、一段低くなる。
「神代蘭の名が、奥之院の封印記録に現れた」
麻那が目を見開く。
「蘭様の名が?」
紫苑は頷いた。
「失踪後、蘭の名は奥之院の記録から沈んでいた。だが昨夜、牡丹の封印帳に浮かび上がった」
「何と?」
麻那が問う。
紫苑は、少しの沈黙の後に答えた。
「九尾を聞く者」
蒼麻は、夢の中の牡丹の声を思い出した。
――蘭は、九尾と話した。
――話しすぎた。
――染まった。
部屋の空気が重くなる。
桜が黙って立っている。
呼吸は見えないが警戒しているのが分かる。
「麗樹さんは」
麻那が聞いた。
紫苑の目がわずかに揺れる。
「まだ伝えていない」
「なぜです」
「確証がない」
麻那の表情が硬くなる。
「それだけですか」
紫苑は答えなかった。
その沈黙で、麻那は察した。
実妹である麗樹に伝えるには、重すぎる。
だが、それはまた隠すことだ。
蒼麻は静かに言った。
「神代は、隠すのが癖なんですか」
紫苑は目を閉じた。
「そうだ」
認めた。
「そして、それで多くを守った」
少し間。
「同時に、多くを壊した」
蒼麻は言葉を失った。
責めるつもりだった。
けれど、先に認められると、怒りの置き場がなくなる。
やはり神代は厄介だ。
紫苑は神鏡の前へ進んだ。
「牡丹に会わせる前に、確認する」
「何を」
「名だ」
蒼麻は眉を寄せる。
紫苑は振り返る。
「奥之院では、名が揺れる。父の声、九尾の声、牡丹の声、蘭の声。すべてが、お前を呼ぶ可能性がある」
「朝顔くんにも言われました」
「ならば分かるだろう。戻るための名が必要だ」
麻那が一歩前に出る。
「私が呼びます」
紫苑は麻那を見る。
「それは分かっている」
そして蒼麻へ視線を戻した。
「だが、お前自身も、自分の名を言えるようにしなさい」
蒼麻は少しだけ黙った。
神代蒼麻。
何度も名乗ってきた名。
だが、ここで言うのは重さが違う。
神代の名簿の中で。
九尾狐の欠片の前で。
父の封印の奥で。
自分の名を言う。
蒼麻は息を吸った。
「神代蒼麻」
声が、黒い床に落ちる。
奥之院の空気が震えた。
「麻臣の息子」
麻那が少しだけ目を伏せる。
「麻那の兄」
麻那の手が、蒼麻の袖を強く握った。
「酒好きで」
桜の目元が少し笑った気がした。
「まだ、人間です」
その瞬間、神鏡が曇った。
白い曇りではない。
黒い、狐火のような曇り。
鏡の奥で、九つの尾が揺れた。
麻那が蒼麻の名を呼ぶ。
「蒼麻」
その声で、鏡の曇りが少し薄れる。
紫苑が低く言った。
「よい。通せる」
蒼麻は息を吐いた。
まだ始まってもいないのに、すでに疲れている。
「この先に、牡丹さんが?」
紫苑は頷く。
「そうだ」
「どんな状態なんですか」
紫苑はすぐには答えなかった。
「人として会える時もある」
「今は?」
「分からない」
その答えが、一番怖かった。
さらに奥へ進む。
今度は、紫苑も同行した。
桜は少し後ろ。
麻那は蒼麻の隣。
廊下は細くなっていく。
空気が冷える。
壁には、白い札が幾重にも貼られていた。
封印。
浄化。
沈静。
拘束。
保護。
どれも似ている。
どこまでが守りで、どこからが檻なのか。
蒼麻には分からなかった。
「ここに、ずっと?」
蒼麻が問う。
紫苑は答える。
「牡丹は、奥之院の外では生きられない」
「生かしているんですか」
「そうだ」
「閉じ込めているんですか」
「そうだ」
蒼麻は紫苑を見る。
紫苑は逃げなかった。
「どちらも事実だ」
麻那が小さく言った。
「……お兄ちゃん」
蒼麻は何も言えなかった。
生かすために閉じ込める。
守るために奪う。
封じることで残す。
神代の思想が、ここには濃く沈んでいる。
麻臣は、ここから自分を遠ざけた。
その理由が、少しだけ分かり始めた。
突き当たりに、白い襖があった。
襖の前には、榊ではなく、古い榊の枝が供えられている。
葉は枯れていない。
だが、どこか色が薄い。
紫苑が膝をつき、深く頭を下げた。
桜も続く。
麻那も、緊張した面持ちで座る。
蒼麻も見よう見まねで膝をついた。
紫苑が静かに告げる。
「神代牡丹様」
その名が、奥の部屋へ染み込む。
「神代蒼麻を、お連れしました」
沈黙。
長い。
長すぎる沈黙。
やがて、襖の向こうから声がした。
かすれている。
若いようで、老いている。
澄んでいるのに、壊れている。
「……麻臣?」
蒼麻の心臓が、強く鳴った。
麻那がすぐに蒼麻の袖を握る。
紫苑が目を伏せる。
「麻臣ではありません」
襖の向こうの声が、小さく笑った。
「知っているわ」
一瞬、正気の気配がした。
「でも、よく似ている」
蒼麻は、息を吸った。
「神代蒼麻です」
襖の向こうで、何かが動く。
「蒼麻」
名を呼ばれた。
その瞬間、胸の欠片が強く震えた。
麻那が低く言う。
「お兄ちゃん」
蒼麻は頷く。
「大丈夫」
襖が、ゆっくり開いた。
白い帳の奥。
そこに、神代牡丹がいた。
夢で見た姿と同じ。
けれど、夢よりもずっと痛々しい。
美しいまま、壊れている。
天陽と冥陰の気配が、彼女の身体の中でゆらゆらと混ざっている。
その背後に、見えるはずのない九つの尾の影があった。
牡丹は蒼麻を見た。
そして、静かに微笑んだ。
「来てしまったのね」
その声は、責めてはいなかった。
ただ、深く悲しんでいた。
蒼麻は頭を下げた。
「会いに来ました」
「九尾を連れて」
「置いてこられなかったので」
牡丹は、ほんの少し笑った。
「正直な子」
その目が、ふと麻那へ向く。
「麻那」
麻那が息を呑む。
「はい」
「兄の名を、離さないで」
麻那は強く頷いた。
「はい」
牡丹は、最後に襖の外の方を見た。
奥之院のさらに外。
鳥居の外。
そこにいるはずの黒狐を、見ているようだった。
「黒は、待っているのね」
蒼麻は頷く。
「はい」
「なら、まだ戻れる」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
部屋の神鏡が、ひとりでに曇った。
九尾の気配が、ふっと濃くなる。
牡丹の表情が変わった。
恐怖ではない。
怒りでもない。
古い傷が、また開いた顔だった。
そして、鏡の奥から声がした。
――久しぶりだな、牡丹。
部屋の空気が凍った。
麻那が蒼麻の名を呼ぶ。
「蒼麻」
紫苑が祝詞を唱え始める。
桜の手が、見えない槍の柄に触れる。
牡丹は、震える唇で呟いた。
「九尾……」
蒼麻の胸の欠片が、熱を持つ。
奥之院の奥。
ついに。
九尾狐の声が、封印の中に響いた。




