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第三十九話 奥之院への道

奥之院へ向かう朝、和灯にはいつもより早く灯りが点いていた。


蓮二が握り飯を包んでいる。


蒼麻はそれを見て、少しだけ笑った。


「本当に持っていくことになるとは」


「人として行くんだろ」


蓮二は包みを差し出した。


「腹が減るのは人間の証拠だ」


真響が静かに頷いた。


「よい理屈だ」


「お前まで納得するのか」


麻那は仕事用ではない、動きやすい服装だった。

ただし、弓は持っている。


「麻那、それ持っていくのか」


「奥之院だよ」


「答えになってるようで怖いな」


「十分答えだよ」


真響は、いつもより少しだけ気配を抑えていた。


黒い着物と蝋梅の香り。

けれど、その奥にある黒狐の気配が、薄く畳まれている。


蒼麻はそれに気づいた。


「真響」


「何だ」


「無理してる?」


「していない」


「嘘が下手だな」


真響は目を細めた。


「お前に言われるとはな」


麻那が小さく息を吐く。


「奥之院の鳥居までは一緒に来られます。でも、真響さんは中へ入らない方がいい」


「分かっている」


真響の声は静かだった。


静かすぎた。


蒼麻は何も言わなかった。


奥之院は、地図には載っていない。


神代の者でも、許された者しか道を知らない。


車で向かった先は、山間の小さな集落だった。


そこから先は、徒歩。


舗装された道は途中で途切れ、古い石段が山の奥へ続いていた。


鳥居がある。


一つ目。


古い朱色は剥げ、木肌が見えている。


麻那が立ち止まり、軽く一礼した。


「ここから先は、神代の結界内」


蒼麻も鳥居を見上げる。


胸の奥で、九尾狐の欠片が小さく震えた。


「歓迎されてないな」


真響が言う。


「見られている」


「誰に」


「神代に。奥之院に。封印に」


「多いな」


石段を上る。


二つ目の鳥居。


空気が変わる。


鳥の声が遠くなる。


三つ目の鳥居。


湿った土の匂いが消え、代わりに古い紙と香の匂いが濃くなる。


蒼麻は足を止めた。


「……名前を見られてる感じがする」


麻那が頷く。


「奥之院は、名簿と封印の場所でもあるから」


「名寄せ帳の本場みたいなもんか」


「嫌な言い方だけど、近い」


真響の目が鋭くなる。


「名を渡すなよ」


「分かってる」


「本当に分かっているか」


「たぶん」


真響は黙った。


四つ目の鳥居の前で、誰かが待っていた。


茶髪の男。黒いマスクで口元を隠している。


背は高く、姿勢は自然体。

だが、相変わらず立っているだけで周囲の空気が読みにくい。


呼吸が見えない。


蒼麻は、そう感じた。


鏡月楼(きょうげつろう)以来だな」


そして麻那にむかって男は静かに頭を下げた。


「神代桜です」


蒼麻は思わず言った。


「黒マスクで茶髪の男が山奥の鳥居前に立ってるの、普通に職質案件では?」


麻那が小さく咳き込んだ。


桜は目元だけで笑った。


「よく言われます」


「言われるんだ」


真響は桜をじっと見ている。


「今回も呼吸が見えぬ」


桜は真響へ視線を向けた。


「見せていませんので」


「嫌な男だ」


「光栄です」


「褒めていない」


蒼麻は小声で麻那に言う。


「神代の人、褒めてない言葉を受け取るの上手いな」


「慣れてるんだと思う」


桜は一歩横へ退いた。


「紫苑様より、迎えを命じられています」


「奥まで?」


「はい。ただし、黒狐真響はここまで」


空気が少し冷える。


真響は桜を見た。


「命じるのか」


「警告です」


桜の声は穏やかだった。


「あなたが奥へ入れば、牡丹様の封印と蒼麻さんの欠片が同時に揺れる可能性がある」


真響は答えない。


桜は続けた。


「あなたを拒んでいるのではありません。奥之院が、我々が、あなたを受け止めきれない」


「ずいぶん正直だな」


「嘘をつくと、あなたに燃やされそうなので」


「分かっているならよい」


蒼麻は真響を見る。


「ここで待つのか」


「そうする」


短い答えだった。


けれど、その声にはわずかな重さがあった。


麻那が言う。


「兄の名前は、私が呼びます」


真響は麻那を見る。


「頼む」


やはり、真響はそう言った。


麻那はしっかり頷く。


「はい」


蒼麻は、そのやり取りを見て、少しだけ胸が詰まった。


真響が、自分を麻那へ預けている。


それが、ひどく大きなことに思えた。


「真響」


「何だ」


「呼んだら聞こえるんだよな」


「聞こえる」


「じゃあ、呼ぶ」


「できれば呼ぶな」


「どっちだよ」


「危なくなければ呼ぶな。危なくなれば呼べ」


「分かった」


「本当に分かったか」


「たぶん」


真響はため息をついた。


「やはり不安だ」


蒼麻は少し笑った。


「俺もだよ」


蓮二の握り飯の包みを軽く持ち上げる。


「でも、人間として行く」


真響は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「なら、戻ってこい」


「うん」


「酒がまずくなる前に」


「そこ?」


「お前には重要なことであろう」


蒼麻は笑った。


麻那も少し笑った。


桜だけが静かに二人を見ていた。


四つ目の鳥居をくぐる。


その瞬間、真響の気配が背後に残った。


蝋梅の香りが、遠くなる。


蒼麻は思わず振り返りそうになった。


だが、振り返らなかった。


麻那が隣にいる。


桜が前を歩いている。


石段は、さらに奥へ続いていた。


道の両脇には、古い石碑が並んでいる。


名前が刻まれている。


神代の名。


知らない名ばかり。


だが、蒼麻の胸の奥が、ひとつひとつに反応する。


小さな狐火のような欠片。


神代一族の術者たちが持つ、九尾狐の欠片。


「……本当に、みんな持ってるんだな」


麻那が小さく頷いた。


「私も欠片を持ってる」


蒼麻は、麻那を見た。


「怖くないのか」


麻那は少しだけ考えた。


「怖いよ」


「そうか」


「でも、お兄ちゃんほど大きくはない。私は、自分の欠片を自覚できる程度」


「俺は?」


「お兄ちゃんは、欠片というより……」


麻那は言葉を探した。


桜が静かに言う。


「火種に近い」


蒼麻は眉を寄せる。


「火種?」


「九尾狐へ戻り得るもの。あるいは、別の形へ育ち得るもの」


「嫌な言い方だな」


「奥之院では、嫌な言葉ほど正確でな」


「神代語の極北だ」


桜は目元だけで笑った。


さらに進むと、道の先に小さな社があった。


その前に、少年が立っていた。


神代朝顔。


未来視の少年。


まだ幼さの残る顔立ち。

だが、瞳だけが疲れている。


「来た」


朝顔はそう言った。


麻那が軽く頭を下げる。


「朝顔くん」


「麻那姉」


蒼麻は少し驚いた。


「知り合い?」


「奥之院の連絡役として何度か」


朝顔は蒼麻を見る。


「神代蒼麻」


「うん」


「明日の朝、僕は今日見たことを半分忘れる」


「え?」


「だから今言う」


朝顔は、一歩近づいた。


「奥へ行くなら、声を信じすぎないで」


蒼麻の背筋が冷える。


「声?」


「牡丹様の声。九尾の声。蘭姉ちゃんの声。麻臣さんの声」


麻那の顔色が変わる。


「父さんの声も?」


朝顔は頷いた。


「奥之院は、名と記憶が響く場所だから。会いたい声ほど、聞こえる」


蒼麻は唇を噛んだ。


麻臣の声。


雨守の酒で聞いた父の声。


あれがまた聞こえるかもしれない。


それは、誘惑だった。


朝顔は続ける。


「でも、全部が本物じゃない」


「どう見分ければいい」


「分からない」


「分からないのか」


「うん」


朝顔は平然と言った。


「だから、麻那姉の声を聞いて」


麻那が蒼麻を見る。


蒼麻はゆっくり頷いた。


「分かった」


朝顔は少しだけ安心したように見えた。


その後、ぽつりと呟く。


「蘭姉ちゃんは、声を聞きすぎた」


その一言で、空気が止まった。


桜が静かに朝顔を見る。


「朝顔」


「あ」


少年は口を押さえた。


「今の、言っちゃ駄目だったかも」


麻那の顔が強張る。


「朝顔くん。蘭様のこと、何か見たの?」


朝顔は首を横に振った。


「見えない。でも、聞こえる時がある」


「何が」


「笑ってる声」


朝顔は目を伏せた。


「優しい声なのに、怖い」


誰も、すぐには言葉を返せなかった。


社を過ぎると、最後の鳥居が見えた。


白木の鳥居。


古く、しかし朽ちてはいない。


そこから先は、空気が違った。


重く冷たい。


それでいて、妙に甘いような。


蒼麻の胸の欠片が、強く脈打つ。


麻那がすぐに腕を掴んだ。


「お兄ちゃん」


その声で、蒼麻は息を吸い戻した。


「大丈夫」


「大丈夫じゃない時の声」


「最近みんなそれ言うな」


桜が鳥居の前で足を止めた。


「この先が、奥之院の内郭です」


蒼麻は鳥居を見る。


夢で見た廊下の気配がする。


牡丹の声が、まだ耳に残っている。


――人として来なさい。


蒼麻は、蓮二の握り飯の包みを確かめた。


少しだけ笑う。


「よし」


麻那が聞く。


「何が?」


「腹が減ったら食べる」


「今?」


「今じゃない」


桜が目元だけで笑う。


「麻臣さんも、似たようなことを言ったと聞いた」


蒼麻は桜を見る。


「父が?」


「奥之院へ入る前に、握り飯を持ってきたことがあると聞いています」


蒼麻は黙った。


本当に、嫌になる。


そういうところまで似ていると言われると、怒りにくい。


麻那が小さく笑った。


「お父さんらしい」


蒼麻はため息をついた。


「厄介な父親だな」


「うん」


最後の鳥居をくぐる。


世界の音が、一段遠くなった。


背後の真響の気配は、もうほとんど感じない。


だが、完全に消えてはいない。


遠く、鳥居の外。


蝋梅の香りが、ほんのかすかに残っている。


蒼麻は胸の中で名前を確かめた。


神代蒼麻。


麻那が隣で言う。


「行こう」


蒼麻は頷いた。


「うん」


奥之院の扉が、静かに開いた。

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