第三十七話 奥之院前哨戦
地鎮祭の一件から、また数日後。
和灯には、妙に静かな夜が降りていた。
蒼麻は盃を持ったまま、しばらく黙っていた。
蓮二が小鉢を置く。
「考えごとか」
「奥之院のこと」
その言葉に、麻那の箸が止まった。
真響も盃を置く。
空気が、少しだけ変わる。
「行くんだね」
麻那が言った。
蒼麻は頷いた。
「九尾狐に言われた。牡丹に会えって」
「九尾狐の言葉に従うの?」
麻那の声は責めてはいない。
ただ、怖がっていた。
蒼麻は苦笑する。
「従うっていうか、気になるんだよ。神代牡丹。九尾狐を封じた初代。奥之院に軟禁されてる人」
真響が静かに言う。
「始まりの傷だ」
「九尾狐も同じことを言ってた」
「なら、余計に危うい」
麻那は深く息を吸った。
「私も行く」
蒼麻は、即答しなかった。
麻那はまっすぐ兄を見る。
「止めないで」
「止めるとは言ってない」
「顔が止めようとしてた」
「妹、鋭いな」
「兄を見てきたので」
蓮二が黙って温かい汁物を出した。
「行く前に食え」
蒼麻は椀を見た。
「母親か」
「小料理屋の店主です」
いつもの返し。
けれど、今夜は少しだけ重かった。
真響が言った。
「奥之院は、神代の腹の底だ。入れば、見たくないものを見る」
蒼麻は椀を手に取る。
「最近そればっかりだな」
「そういう場所へ近づいている」
麻那が静かに言った。
「お兄ちゃん。奥之院には、牡丹様だけじゃない。九尾狐の欠片を持つ術者たち。封印を守る者。封印を利用したい者。封印を終わらせたい者。いろんな人がいる」
「神代らしいな」
「うん」
麻那は少しだけ目を伏せた。
「それと、奥之院には、父さんが最後まで距離を取り続けた理由があると思う」
蒼麻は黙った。
麻臣。
九尾狐の欠片を持って生まれた息子を、二十年以上隠し続けた父。
神代一族からも、怪異からも、九尾狐からも。
その父が、近づけなかった場所。
そこへ、自分が行く。
怖くないわけがなかった。
「……行くよ」
蒼麻は言った。
「怖いけど、行く」
麻那は頷いた。
真響も、何も言わなかった。
その沈黙が、許可のようだった。
その夜。
蒼麻は夢を見た。
最初に聞こえたのは、鈴の音だった。
ちりん。
ちりん。
けれど、神社の鈴ではない。
もっと古く、もっと冷たい。
まるで骨でできた鈴を鳴らしているような音。
蒼麻は、長い廊下に立っていた。
木の床。
白い障子。
薄暗い行灯。
奥へ奥へと、廊下が続いている。
どこか知っている気がした。
まだ行ったことがない。
それなのに、知っている。
「奥之院……?」
声に出した瞬間、廊下の奥から風が吹いた。
冷たい風。
その風に、狐の匂いが混じっている。
黒ではない。
白でもない。
朱でも、黄でもない。
もっと古い。
九つの尾の気配。
蒼麻は足を止めた。
「また夢か」
背後から声がした。
「夢ではないわ」
蒼麻は振り返る。
そこに、女が立っていた。
美しい女だった。
だが、美しいという言葉だけでは足りない。
時が止まったような肌。
古い巫女装束。
長い黒髪。
瞳は濁っているのに、奥だけが異様に澄んでいる。
神代牡丹。
そう分かった。
会ったことはない。
だが、分かった。
蒼麻の胸の奥で、九尾狐の欠片が小さく震えた。
牡丹は、じっと蒼麻を見た。
「……九尾?」
蒼麻は息を詰める。
次の瞬間、牡丹は首を傾げた。
「違う」
静かな声。
「あなたは、まだ人なのね」
蒼麻は言葉を失った。
牡丹はゆっくり近づいてくる。
足音がしない。
「連れてきてはいけない」
「誰を」
「九尾」
「俺の中にあるやつか」
牡丹は笑った。
笑っているのに、泣いているようだった。
「中にあるのではないわ。あなたが抱いている。あなたが抱いているから、まだ人でいられる」
「何を言ってる」
「手放してはいけない」
牡丹の声が、急に低くなる。
「手放せば、あれは戻る。戻れば、また縫う。未来を縫う。人の願いを縫う。世界を、望む形に縫う」
九尾狐の声を思い出す。
――世界が少しだけ、私の望む形に校正される。
蒼麻は拳を握った。
「牡丹さんは、九尾狐を封じたんだろ」
牡丹は笑った。
「封じた?」
その笑いは、ひどく虚ろだった。
「違うわ」
廊下の障子が、一斉に開いた。
その向こうに、無数の尾が見えた。
九つの尾。
そして、それに絡みつくように、神代一族の名が並んでいる。
牡丹。
紫苑。
蘭。
麗樹。
麻臣。
麻那。
蒼麻。
まだ知らない名。
無数の神代。
そのすべてに、小さな狐火のような欠片が灯っている。
牡丹は言った。
「封じたのではない」
「分けたの」
蒼麻の喉が乾いた。
「神代一族の術者たちが、九尾狐の欠片を持ってるってことか」
牡丹は答えない。
代わりに、ゆっくりと頷いた。
「滅ぼすために、取り込んだ。取り込んだから、滅ぼせなくなった」
その言葉が、廊下に沈む。
「愚かでしょう」
蒼麻は何も言えなかった。
牡丹は蒼麻の顔を覗き込む。
「あなたは、大きい」
「欠片が?」
「ええ。大きすぎる。普通なら、人でいられない」
「父さんが封じた」
牡丹の目が、少しだけ揺れた。
「麻臣」
その名を聞いた瞬間、牡丹の表情が変わった。
曇った瞳の奥に、ほんの一瞬だけ正気が戻る。
「あの子は、優しかった」
蒼麻の胸が痛んだ。
「あの子?」
「神代の中では、優しすぎた」
牡丹は遠くを見る。
「優しい者ほど、神代では傷つく。守りたいものができると、もっと傷つく」
「父を知ってるのか」
「見ていたわ」
「会ったのか」
「夢の中で。封印の中で。あの子は、何度も来た」
蒼麻は息を呑む。
「父さんが?」
牡丹は頷く。
「息子を、神代に渡したくないと言っていた」
蒼麻の中で、何かが静かに軋んだ。
怒り。
悲しみ。
愛情。
全部が絡まって、ほどけない。
牡丹は言う。
「でも、神代は来る」
廊下の奥が暗くなる。
「奥之院は、あなたを見る。欠片を見る。九尾を見る。麻臣の封鎮を見る。黒狐を見る」
「黒狐?」
「連れてきてはいけない」
牡丹の声が急に鋭くなった。
「黒狐を連れてきてはいけない」
蒼麻は目を細める。
「真響のことか」
牡丹の肩が震えた。
「黒は覚えている。黒が来れば、九尾も揺れる。欠片も揺れる。五柱も揺れる」
「でも、真響は来る」
「来てはいけない」
「俺一人で行ったら、もっと危ないだろ」
牡丹は蒼麻を見た。
その顔は、恐怖に近かった。
「あなたは、人でいたいのね」
「そうだよ」
「なら、誰かに名前を呼んでもらいなさい」
「麻那が来る」
牡丹の表情が、少しだけ和らいだ。
「麻那」
「知ってるのか」
「名は、聞こえる。奥之院では、名がよく響く」
牡丹は、そっと蒼麻の胸元に手を伸ばした。
触れない。
触れる寸前で止まる。
「妹を、連れてきなさい」
「真響は?」
牡丹は目を伏せた。
「黒狐は、鳥居の外に」
「それ、真響が納得すると思うか?」
「しないでしょうね」
「分かってるじゃないか」
牡丹は、ほんの少し笑った。
それは、初めて人間らしい笑みだった。
「黒は、昔から頑固だから」
その時、廊下の奥から別の声がした。
――牡丹。
九尾狐の声。
牡丹の顔が凍った。
蒼麻の胸の欠片が、強く熱を持つ。
――余計なことを言うな。
牡丹が震える。
「来てはいけない」
「誰が」
「蘭」
その名が、唐突に出た。
蒼麻は眉を寄せる。
「神代蘭?」
牡丹は、蒼麻の腕を掴んだ。
今度は、触れた。
その手は氷のように冷たい。
「蘭は、もう奥之院にはいない」
「知ってる。失踪してるって」
「違う」
牡丹の声が震えた。
「逃げたのではない。聞いたの」
「何を」
「九尾の声を」
蒼麻は息を呑む。
牡丹の後ろに、九つの尾が揺れる。
「蘭は、九尾と話した。話しすぎた。優しい子だった。賢い子だった。だから、染まった」
「染まった?」
「九尾の思想に」
牡丹は泣いているようだった。
「麗樹は知らない」
「妹の?」
「知らない。誰も知らない。奥之院も知らない。蘭は、もう神代のためには動いていない」
廊下が大きく揺れた。
九尾狐の気配が濃くなる。
――牡丹。
その声は甘い。
優しい。
だからこそ、恐ろしい。
――黙りなさい。
牡丹の身体が、糸で引かれるように後ろへ下がる。
蒼麻は手を伸ばした。
「待て!」
牡丹は叫んだ。
「奥之院へ来るなら、名前を忘れないで」
廊下が崩れる。
「九尾を連れてきてはいけない」
障子が破れ、無数の尾が広がる。
「でも、あなたの中の九尾を置いてくることもできない」
牡丹の声が遠ざかる。
「だから――」
最後の言葉は、ほとんど祈りだった。
「人として来なさい」
蒼麻は目を覚ました。
息が荒い。
額に汗が滲んでいる。
場所は自分の部屋ではない。
和灯の二階だった。
蓮二が、遅くなった三人を泊めてくれたのだ。
隣の部屋から、物音がした。
麻那が駆け込んでくる。
「お兄ちゃん!」
その顔を見て、蒼麻は分かった。
麻那も見たのだ。
同じ夢を。
「見たか」
麻那は頷く。
顔色が悪い。
「牡丹様が出た」
「俺も」
「蘭様のことも?」
「聞いた」
麻那は唇を噛んだ。
「神代蘭が、九尾狐と対話して染まった」
「麗樹は知らないって」
「うん」
麻那の手が震えている。
「これ、奥之院にも報告されていない可能性が高い」
「つまり?」
「奥之院の中に、もう九尾の思想が入り込んでいるかもしれない」
蒼麻は黙った。
重い。
また一段、話が重くなった。
そこへ、窓の外から蝋梅の香りがした。
真響がいた。
いつものように、窓の外に。
だが、今日は表情が硬い。
「見たのだな」
蒼麻は頷いた。
「牡丹が、黒狐を連れてくるなって言った」
真響は目を伏せた。
「そう言うだろうな」
「納得するのか?」
「しない」
即答だった。
蒼麻は少し笑った。
「だよな」
真響は窓枠に手を置く。
「だが、鳥居の外で待つことはできる」
蒼麻は驚いた。
「本気か」
「奥之院の奥まで入れば、私の記憶が揺れる。お前の欠片も揺れる。牡丹も揺れる」
「じゃあ」
「だが、完全には離れぬ」
真響は蒼麻を見た。
「名を呼べば、聞こえる場所にいる」
麻那が静かに言った。
「私が兄の名前を呼びます」
真響は麻那を見る。
「頼む」
その一言に、麻那の目が少しだけ揺れた。
真響が、麻那に頼んだ。
それは小さなことだが、大きな変化だった。
蒼麻は二人を見て、息を吐いた。
「じゃあ、決まりだな」
「何が」
麻那が聞く。
「奥之院には行く。麻那も一緒に。真響は鳥居の外。俺が変になったら、名前を呼ぶ」
真響が低く言う。
「それだけでは足りぬかもしれない」
「じゃあ、蓮二の握り飯も持ってく」
麻那が一瞬きょとんとした。
真響は呆れた顔をした。
「この状況でそれか」
「人として行けって言われたからな」
蒼麻は少し笑った。
「腹が減る人間として行く」
麻那が、泣きそうな顔で笑った。
「お兄ちゃんらしい」
真響も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「悪くない」
朝が近い。
窓の外が、少しずつ青くなっている。
奥之院。
神代牡丹。
神代蘭。
九尾狐。
すべてが、そこへ向かって集まり始めている。
蒼麻は、自分の名前を胸の中で確かめた。
神代蒼麻。
麻臣の息子。
麻那の兄。
酒好き。
九尾狐の欠片を抱えた人間。
まだ、人間。
それを忘れずに、奥之院へ行く。
そう決めた。




