第三十六話 「願いの残り火」
木山神社の件から三日後。
蒼麻は和灯のカウンターで酒瓶を並べていた。
昼営業が終わり、店内には静かな時間が流れている。
そんな中、真響が珍しく不機嫌そうな顔で窓の外を見ていた。
「どうした」
「黄狐がいる」
蒼麻は手を止めた。
「深宵が?」
「そうだ」
「岡山にいるんじゃないのか」
「こっちに来てる」
真響は面白くなさそうに酒を口へ運ぶ。
「三日も関東をうろついている」
蒼麻が首を傾げた時だった。
店の引き戸が開く。
「その言い方は心外だな」
真響には聞き慣れた声だった。
黄昏色の髪を揺らしながら深宵が入ってくる。
今日は都市部にも馴染むカジュアルな恰好だった。
真響は即座に顔をしかめた。
「ついてきたのか」
「別について来たわけではない」
深宵は平然とカウンターへ腰掛けた。
蒼麻は苦笑する。
「何かあったのか」
深宵は少しだけ表情を曇らせた。
「願い過負荷は終わっていない」
その一言で空気が変わった。
「どういう意味だ」
「木山で眠らせた願いの一部が既に流出していた」
深宵は懐から古びた札を取り出す。
商売繁盛。
そう書かれた札だった。
だが文字の奥で何かが脈打っている。
「願いは消えない」
深宵は静かに言った。
「叶わなかった願いも、叶いすぎた願いも、どこかへ流れる」
「それが今、関東で燃えている」
真響が札を見て鼻で笑った。
「欲望の残り火か」
「そうだ」
深宵は窓の外を見る。
「川崎大師周辺で妙な繁盛が続いている。一人が得れば、一人が沈む。願いが均衡を崩し始めた」
蒼麻は札を見つめた。
その奥に、何人もの声が聞こえた気がした。
儲かりますように。
勝てますように。
選ばれますように。
消えませんように。
生き残れますように。
その声は祈りというより悲鳴だった。
深宵は静かに立ち上がる。
「これは私の管轄だからな」
そう言いながら、
なぜか蒼麻を見る。
「だが、お前にも来てほしい」
「なぜ」
黄狐は少しだけ目を細めた。
「お前は願いを切らない」
「だからだ」
真響が小さく舌打ちした。
「面倒事が増えたな」
「お前も来るだろう」
「当然だ」
二匹の狐が睨み合う。
蒼麻は頭を掻いた。
そして思う。
どうして毎回、自分だけ事情を最後に知らされるのだろうと。
翌日珍しく、麻那が難しい顔をしていた。
和灯のカウンター。
蒼麻は盃を傾けながら聞いた。
「難しい顔をしてどうしたんだ」
麻那は資料を差し出した。
再開発計画書。
神代都市開発。
神代流通機構。
神代水脈物流。
見覚えのある名前が並んでいる。
蒼麻は即座に言った。
「帰えろうかな」
「まだ何も話してない」
「神代都市開発って書いてある」
「それだけで?」
「それだけで」
真響が頷いた。
「正しい判断だ。昨日、黄が話してたやつだな」
案件は単純だった。
地鎮祭が終わらない。
正確には。
何度やっても終わったことにならない。
川崎の新しい再開発地区。
かつて商店街だった土地。
今は更地となっている巨大な商業施設建設予定地。
しかし地鎮祭を行うたびに異変が起きる。
供物が土に沈む。
祭壇が傾く。
榊が枯れる。
神職が体調を崩す。
夜になると地面から足音が聞こえる。
そして。
工事関係者が口を揃えて言う。
「まだ終わってない」
何が。
とは誰も言えない。
蒼麻は現地に着いてすぐ分かった。
「これは終わってないな」
土地が重い。
願い過負荷とは違う。
もっと古い。
もっと深い。
真響も周囲を見渡す。
「沈殿している」
麻那が資料を確認する。
「昔は商店街」
「その前は?」
蒼麻が聞く。
担当者が答えた。
「戦後は市場です」
「さらに前は?」
担当者は少し困った顔をした。
「村です」
蒼麻は嫌な予感がした。
「さらに前は?」
担当者は答えられなかった。
その時。
背後から声がした。
「墓地よ」
黄狐 深宵だった。
いつの間に来たのか分からない。
真響が嫌そうな顔をする。
「いたのか」
「いたわ。わたしが呼んだもの。いない方がおかしい」
深宵は地面を見ている。
「墓地」
蒼麻が繰り返す。
深宵は頷いた。
「もっと前は集落、もっと前は祭祀場、もっと前は埋葬地」
彼女はしゃがみ込む。
「土は忘れない」
静かな声だった。
「人は忘れるけれど」
土へ触れる。
すると、景色が揺れた。
蒼麻には見えた。
昔の市場。
昔の商店街。
祭り。
笑い声。
喧嘩。
商売。
別れ。
葬式。
火事。
無数の記憶。土地に沈んでいる。
「なるほど」
蒼麻は呟く。
「再開発されるから怒ってるのか」
深宵は首を振った。
「違う」
「じゃあ何だ」
「忘れられるから」
その言葉に。
蒼麻は黙った。
深宵は続ける。
「壊されることは構わない」
「土は形を変える。建物も、人も、街も。それが循環」
深宵の目が少し冷えた。
「けれど、無かったことにされるのは嫌い」
その瞬間、地面が揺れた。
工事予定地の中央。
土が盛り上がる。
恨みではない。怒りでもない。
もっと単純な忘れないでほしいという。
それだけ。
蒼麻は息を吐いた。
「面倒くさいな」
真響が頷く。
「人間らしい」
深宵は小さく笑った。
「そうね」
そして。
「だから私は黄狐なの」
蒼麻は聞いた。
「どうする」
深宵は即答した。
「埋める」
蒼麻が頭を抱えた。
「またそれか」
「黄だから」
「知ってる」
しかし。
今回は違った。
深宵は続けた。
「でも今回は全部埋めない」
蒼麻と真響が同時に顔を上げる。
「珍しいな」
「あなたたちの影響かもしれない」
深宵は少しだけ笑った。
「願い過負荷の時に学んだもの」
「全部還すだけが正解ではない」
真響は少し驚いた。
黄狐が。ほんの少し変わっている。
再開発資料を見ていた麻那が言った。
「記念碑を作る?」
深宵は首を振る。
「違う」
「石では足りない」
「じゃあ何だ」
深宵は工事予定地を見渡した。
そして。
「土を残す」
皆が首を傾げた。
深宵は言う。
「建物の一角にこの土地の土を残す。祈る場所を残す。記録ではなく、循環の場所を」
蒼麻は少し笑った。
「それ、いいな」
真響も珍しく否定しなかった。
「悪くない」
そして。
神代菖蒲の元へ連絡が入る。
秘書が恐る恐る報告した。
「再開発地区ですが」
「黄狐が介入しました」
菖蒲は資料から目を離さない。
「そう」
「計画変更を求めています」
「内容は?」
秘書が読み上げる。
「土地の一部保存」
「祈りの広場設置」
「土の継承区画」
菖蒲はしばらく黙った。
そして。
ふっと笑った。
「深宵らしいわね」
秘書が聞く。
「却下しますか」
菖蒲は紅茶を置いた。
「いいえ」
「採用しましょう」
「えっ」
「街は更新されるべきよ」
「でも」
「更新と忘却は違う」
窓の外を見る。
「そこは麻臣さんも、きっと同じことを言うでしょうしね」
その頃。
蒼麻は深宵を見ていた。
黄狐は土を撫でている。
まるで。
昔からそこに住んでいた人々へ。
「忘れてないよ」
そう伝えるように。
夕暮れの風が吹いた。
土の匂いがした。
そして蒼麻は少し思った。
黄狐 深宵は。
思っていたよりずっと優しいのかもしれない、と。




