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第三十五話 願い過負荷

名寄せ帳の件から、数日後。


蒼麻は和灯で、妙に重い気配の封筒を見つめていた。


差出人は、木山神社。


封筒そのものは普通だった。

だが、手に持つと妙に重い。


紙一枚のはずなのに、石でも入っているような重さがある。


「……これ、郵便事故じゃなくて怪異だよな」


蓮二が封筒を見て言った。


「手紙が重いって、だいぶ嫌だな」


真響(まゆら)は封筒へ視線を落とした。


「黄の気配がある」


蒼麻は顔を上げる。


黄狐(おうこ)?」


深宵(みよい)


真響の声が、少しだけ低くなる。


「願いを、土へ還す狐だ」


封を切ると、短い手紙が入っていた。


木山神社にて、絵馬および願掛け札が異常に重くなっています。

参拝者の中には、願いを書いた後、身体が沈むような倦怠感を訴える者もいます。


境内の土が、願いを吸いすぎているようです。

お力添えを願えませんでしょうか。


蒼麻は手紙を置いた。


「願いを吸いすぎる、か」


真響が言う。


「願いは軽いものではない」


「知ってる」


「だが、人間はよく忘れる」


その時、麻那が店に入ってきた。


「お兄ちゃん、木山神社から連絡来てる?」


蒼麻は手紙を掲げる。


「来てる。麻那も?」


「神代商工会経由で来た。木山神社は、黄狐の古い(えにし)がある場所」


真響が目を細める。


「神代も知っていたか」


「一部だけです。奥之院の記録では、黄狐・深宵は願いと土を司る存在とされています」


「司る、などと軽く言うな」


麻那はすぐに頭を下げた。


「ごめんなさい」


蒼麻は二人を見る。


「深宵って、どんな狐なんだ」


真響は少し黙った。


「静かだ」


「それだけ?」


「見下ろす」


「性格悪い?」


「悪くはない。だが、優しくもない」


麻那が補足する。


「叶わない願い、重すぎる願い、持ち主を潰す願いを、土へ戻す存在だと聞いています」


蓮二が小さく言った。


「願いを叶える狐じゃないんだな」


真響は頷いた。


「願いは叶えばよいわけではない」


蒼麻は封筒の重さをもう一度確かめた。


「また難しいやつだな」


「今さらだ」


木山神社は、岡山の山あいにあった。


古い石段。


苔の生えた狛犬。


境内には、低く湿った土の匂いが漂っている。


清浄な空気と静寂。むしろ静かすぎるくらいだ。


蒼麻は石段を上りながら言った。


「足が重い気がする」


麻那も頷く。


「境内全体に圧がかかってる」


真響は境内の奥を見ている。


「願いが沈んでいる」


社務所の前では、宮司が待っていた。


疲れた顔の中年男性。


「神代様。遠いところを。」


麻那も丁寧に頭を下げる。


「状況を見せていただけますか」


宮司は絵馬掛けへ案内した。


そこには、無数の絵馬が下がっていた。


合格祈願。

病気平癒。

商売繁盛。

縁結び。

家族の健康。

復縁。

借金返済。

誰かを見返したい。

あの人が不幸になりますように。


蒼麻は最後の方で顔をしかめた。


「混ざってるな」


「願いとは、綺麗なものばかりではない」


真響が言う。


絵馬のいくつかは、異常に黒く変色していた。


木の板なのに、土を吸ったように重く垂れている。


宮司が一枚を持ち上げようとして、顔をしかめる。


「これで、二キロ以上あります」


「絵馬で?」


「はい」


蒼麻が触れると、手首にずしりと重みが乗った。


そこに書かれていた願いは、


母の病気が治りますように。


綺麗な願いだ。


だが、重い。


祈りが重いのではない。


叶わなければ自分が壊れてしまうほど、願いに命を預けている。


蒼麻は小さく息を吐いた。


「これは、きついな」


別の絵馬を見る。


どうか、あの人が私だけを見ますように。


その文字は、湿った土のように黒く滲んでいる。


願いというより、執着に近い。


また別の願い。


受からなかったら、もう終わりです。


蒼麻は、何も言えなかった。


麻那が静かに言う。


「願いが、逃げ場を失っている」


宮司はうつむいた。


「最近、願いを書いた方が境内で座り込んだり、立ち上がれなくなったりするのです。まるで、自分の願いの重さで沈むように」


その時、境内の土が揺れた。


絵馬掛けの下の地面から、土の手が伸びる。


それは、落ちかけた絵馬を支えるように持ち上げた。


だが、支えきれない。


土の手は震え、崩れた。


真響が低く言った。


「土が抱えすぎている」


蒼麻は境内を見渡した。


深宵(みよい)は?」


真響は社の奥を見た。


「いる。だが、まだ姿を見せられぬようだ」


異変は、参拝者の一人が倒れたことで大きくなった。


若い女性だった。


絵馬を書いた直後、石段の横で膝をつき、そのまま動けなくなった。


蒼麻たちが駆け寄ると、若い女性が俯いて泣いていた。


「お願いしただけなのに」


「何をお願いしたの?」


麻那が優しく聞く。


女性は小さく震えながら言った。


「彼が戻ってきますようにって。私を選んでくれますようにって。それだけなのに、急に身体が重くなって」


彼女の足元の土が、少しずつ沈んでいる。


願いが、彼女自身を地面へ引きずり込もうとしている。


真響が言う。


「執着が土へ落ちようとしている。だが、本人が離さぬ」


蒼麻は女性の前にしゃがむ。


「その願い、持ってるのつらいですか」


女性は泣きながら頷いた。


「つらい。でも、手放したら本当に終わる気がして」


蒼麻は息を吐いた。


分かる気がした。


怒りも、悲しみも、願いも。


手放せば楽になるかもしれない。


でも、手放したら自分が空になる気がする。


境内に溜まった絵馬の念は、ただの祈りではない。叶わなかった願い、叶いすぎた願い、誰かを押しのけてでも成就を望む執着。それらが折り重なり、神域の内側でひとつの重い膜になっていた。


「……深宵は、出てこられないんだな」


蒼麻が呟くと、真響は薄く目を細めた。


「願いを鎮める狐が、願いに絡め取られている。皮肉にしては出来が悪い」


麻那は境内を見渡し、弓を下ろさずに言った。


「なら、お兄ちゃん。黄狐が動けるようになるだけの隙間を作る。私が外から歪みを射抜く。真響さんは、願いの流れを逸らせますか」


「命じるな、妹」


そう言いながらも、真響の足元に黒い狐火が灯る。


蒼麻は一枚の絵馬に手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。触れてはいけない。だが、見過ごすこともできない。


願いは、人の心そのものだ。気軽に断てば、願った者の奥まで傷つけるかもしれない。


「……ほどくんじゃない。絡まったところだけ、緩める」


蒼麻の指先に、かすかな金色の紋が浮かんだ。


その瞬間、境内の空気がわずかに軽くなる。


麻那の矢が、目に見えない歪みを射抜いた。


真響の狐火が、濁った願いの流れを横へ逃がした。


そして、ようやく。


鈴の音に似た気配が、社の奥から滲み出した。


「遅い」


真響が言う。


落ち着いた碧い瞳をした女が、ゆっくりと姿を現した。

黄土色とも金色ともつかない毛先にカールのかかった長い髪。

表情は穏やかだが、どこか人を見下ろすような気配がある。


「……遅れたのではない。お前たちが、ようやく扉を開けたのだ」


深宵は蒼麻を見た。


「この場には人の手が必要だった。願いを祓うのではなく、願いの重さを知る者の手がな」


蒼麻は苦笑した。


「岡山まで来た甲斐は、あったってことでいいのかな」


深宵はわずかに口角を上げた。


「少なくとも、酒代と交通費ほどの働きはした」


真響が静かに言った。


「深宵」


黄狐は、ゆっくりこちらへ歩いてきた。


「黒。まだ抱えているのね」


「余計なお世話だ」


「ええ。余計な世話はわたしの仕事ではないわ」


蒼麻は思わず真響を見た。


「仲、いいのか悪いのか分からないな」


真響は即答した。


「悪い」


深宵は薄く笑った。


「黒はいつもそう言う」


そして、蒼麻へ視線を向けた。


「あなたが、(ほど)く者」


「神代蒼麻です」


「知っているわ。九尾の欠片の匂いがするもの」


麻那が身構える。


深宵は麻那を見る。


「警戒しなくていいわ。今日は食べに来たのではないから」


「食べるんですか」


蒼麻が言うと、深宵は静かに微笑んだ。


「願いを」


冗談には聞こえなかった。


深宵は、倒れた女性へ視線を戻す。


「その願いは、もうあなたを支えていない。あなたを沈めている」


女性は泣きながら首を振る。


「でも、忘れたくないの」


「忘れなくていい」


深宵はしゃがみ、土に手を触れた。


「願いは叶えるか捨てるかだけではない。土に預けることもできる」


「預ける……?」


「今のあなたでは持てないものを、土が一度預かる。腐るものは腐り、芽吹くものは芽吹く」


深宵の指先から、黄の光が広がる。


女性の足元の土が柔らかくなる。


沈むのではなく、受け止めるように。


蒼麻はそれを見ていた。


黒は抱える。

白は洗う。

朱は燃やす。

黄は還す。


女性は、震えながら絵馬を握りしめていた。


蒼麻は言った。


「手放すんじゃなくて、預けるのもいいんじゃないですか」


女性が顔を上げる。


「いつかまたそれが必要なら、別の形で戻ってくるかもしれない」


深宵が蒼麻を見る。


「軽い言い方ね」


「専門外なので」


「でも、とても良い」


女性は泣きながら、絵馬を土の上へ置いた。


深宵が指先で土をなぞる。


絵馬はゆっくり地面へ沈んだ。


消えたのではない。


埋められた。


女性の身体から重さが抜ける。


彼女はその場に座り込んだまま、声を上げて泣いた。


今度は、沈むためではなく、戻るための涙だった。


だが、問題は一人では終わらなかった。


絵馬掛け全体が、ぎしりと音を立てた。


重くなった願いが、一斉に地面へ落ちようとしている。


宮司が悲鳴を上げる。


「危ない!」


麻那が弓を構える。


矢が絵馬掛けの柱を射抜き、札の結界で一時的に支える。


真響の狐火が、黒く滲んだ願いを焼き止める。


だが、深宵は動かない。


蒼麻が言う。


「深宵、何とかできないのか」


「できるわ」


「なら」


「全部土へ還せばいい」


その声は静かだった。


「願いを持ち主から切り離し、境内ごと沈める。この木山神社は消えるけれど、皆は軽くなる」


蒼麻は息を呑んだ。創建1,200年の由緒ある神社を気軽に土に沈められてはたまらない。


「それは駄目だ」


「なぜ?」


「神社が消えてしまう」


「願いは楽になるよ」


「でもそれをやれば、ここへ来た人たちの場所がなくなる」


深宵は蒼麻を見た。


「場所を残すために、人を重くするの?」


蒼麻は答えられなかった。


黄狐は優しい。


ただし、その優しさは土の優しさだ。


すべてを還す。


良いものも、悪いものも、重いものも。


還せば苦しみは終わる。


けれど、終わらせていいものばかりではない。


真響が低く言う。


「深宵。全部還すな」


「黒はいつも抱えすぎる」


「黄はいつも早く埋めすぎる」


二人の空気が静かに張る。


蒼麻は絵馬掛けを見る。


そこにある願いは、すべてが美しいわけではない。


でも、すべてが捨てていいものでもない。


「分けるしかない」


蒼麻は言った。


深宵が目を細める。


「どう分けるの」


「持ち主がまだ持てる願いと、今は預けた方がいい願い。誰かを呪う願いと、自分を支える願い」


「あなたが勝手に決めるの?」


「俺だけじゃ無理だ」


蒼麻は宮司を見る。


「宮司さん。この神社、願いを預かる場所を作れませんか」


「預かる場所?」


「叶えるためだけじゃなくて、手放せない願いを一度預ける場所」


宮司は、はっとした。


「願い納め……」


麻那が頷く。


「絵馬とは別に、願いを土へ納める儀式を作る。持ち主が自分で選べる形にすれば、勝手に沈められるよりずっといい」


真響が蒼麻を見る。


「悪くない」


深宵も、少しだけ笑った。


「人間は面倒な手順を好むわね」


「勝手に全部埋められるよりはいいんじゃないかな」


蒼麻は赤ペンを取り出した。


絵馬掛けの柱に、小さく線を引く。


願いを切る線ではない。


願いの重さを分ける線。


「願いは願いへ。執着は執着へ。呪いは呪いへ」


赤い線が光る。


「持てる願いは、持ち主へ。

持てない願いは、土へ。

人を沈める願いは、形を変えろ」


深宵が土へ手を置く。


黄の光が境内へ広がる。


麻那の矢が絵馬掛けを支え、真響の狐火が呪いだけを焼き止めていく。


重すぎる絵馬が、一枚ずつ地面へ降りる。


沈むもの。


軽くなるもの。


灰になるもの。


それぞれが、違う形で分かれていく。


やがて、絵馬掛けの軋みが止まった。


境内の土の重さも、少しだけ和らいだ。


宮司は、深く頭を下げた。


「願い納めの場所を、必ず作ります」


深宵は静かに言った。


「忘れないことね。願いは、叶わなければ腐ることもある」


蒼麻は呟く。


「腐る前に、土へ返す」


「ええ」


深宵は蒼麻を見る。


「あなたは戻す者。でも、戻せないものもある」


「最近、そればっかり学んでる」


「良いことよ」


「良いんですかね」


「全部戻せると思う者ほど、傲慢になる」


九尾狐の夢で聞いた言葉に似ていた。


世界を背負うと言う者ほど、世界を壊す。


蒼麻は少し黙った。


深宵は、真響へ視線を向ける。


「黒。あなたも、少しは土へ預けなさい」


「断る」


「頑固ね」


「お前に埋められるのは御免だ」


深宵は楽しそうに笑った。


「では、いつか自分で来なさい」


真響は答えなかった。


その沈黙が、少しだけ痛かった。


帰り道。


蒼麻たちは石段を下りていた。


夕暮れの山道に、土の匂いが残っている。


麻那が言った。


「願い納め。制度として整えれば、神代商工会でも支援できます」


「神代、たまには役に立つな」


「たまにはって」


真響が横から言う。


「今回はよい使い方だ」


麻那は少し微笑んだ。


「ありがとうございます」


蒼麻は振り返った。


境内の奥に、深宵が立っていた。


黄の狐。


土へ還すもの。


彼女は、遠くから蒼麻を見下ろすように微笑んでいた。


敵ではない。


だが、簡単な味方でもない。


五柱は、どれもそうだ。


黒は抱える。


白は洗う。


朱は燃やす。


黄は還す。


そして、まだ蒼がいる。


蒼麻は小さく息を吐いた。


「あと一柱か」


真響が言う。


「蒼は厄介だぞ」


「みんな厄介じゃないか」


「蒼は流す」


麻那が聞く。


「流す?」


真響は夕暮れの空を見る。


「停滞を嫌う。循環を促す。止まったものを動かす」


蒼麻はなんだか嫌な予感がした。


「それ、また大変そうだな」


「大変だ」


真響は即答した。


「五柱に楽なものなどない」


蒼麻は苦笑した。


「知ってた」


山の風が吹く。


蝋梅の香りに、土の匂いが混じる。


願いは叶うだけではない。


抱えきれないなら、預けることもできる。


手放すのではなく、埋める。


終わらせるのではなく、いつか芽吹くかもしれない形に変える。


蒼麻は、その重さを胸の奥でゆっくり受け止めた。

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