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第三十四話 名寄せ帳

菖蒲の流通網の一件から、二日後。


和灯で珍しく、麻那が眠そうな顔をしていた。


蒼麻は盃を持ったまま、隣を見る。


「麻那」


「なに?」


「目が死んでる」


「神代商工会の監査処理と、菖蒲様の流通網の後始末と、兄の周辺監視遮断と、奥之院への報告書が重なっただけ」


「だけ、の量じゃない」


蓮二が静かに椀物を置いた。


「麻那ちゃん、今日は酒より先に食べた方がいい」


「ありがとうございます……」


真響も、少しだけ麻那を見た。


「妹は働きすぎだ」


蒼麻は真顔で言った。


「お前に言われると、なんか重いな」


「事実だ」


麻那は椀物を一口すすり、少しだけ息を吐いた。魚介の出汁と柚子の香りが安堵の吐息を引き出した。


「おいしい……」


蓮二が笑う。


「よかった」


圭吾もカウンターの端で頷いた。


「麻那さん、休んだ方がいいですよ。オフィスワーカーは睡眠大事」


麻那はにこりと笑った。


「篠崎さんも、納期前に徹夜しないでくださいね」


圭吾は視線を逸らした。


「……善処します」


蒼麻は笑いかけて、ふと止まった。


麻那のスマートフォンが震えた。


一度。


二度。


三度。


同時に、蒼麻のスマートフォンも震える。


蓮二の店の電話も鳴った。


圭吾のスマートフォンも鳴った。


「……何だ?」


麻那が画面を見る。


その表情が、一瞬で仕事の顔に戻った。


蒼麻の画面には、神代商工会からの通知。


神代麻那 室長命令:

神代蒼麻を一時拘束。

黒狐真響を分離。

和灯周辺を封鎖。


蒼麻は、ゆっくり麻那を見た。


「麻那」


麻那は首を振った。


「出してない」


真響の気配が一気に冷えた。


「名を使われたな」


圭吾が青ざめる。


「え、偽命令?」


蓮二が店の電話を取らず、静かに受話器を見つめる。


「これ、出ない方がいいやつか」


麻那が頷く。


「出ないでください」


次の瞬間、和灯の灯りが揺れた。


カウンターの上に、見覚えのない帳面が現れる。


黒い表紙。


白い紐。


表紙には、朱でこう書かれていた。


名寄せ帳


蒼麻は額を押さえた。


「名前からして嫌だな」


帳面が勝手に開く。


中には、麻那の名前がいくつも並んでいた。


神代麻那

神代麻那

神代麻那

神代麻那


だが、その筆跡が少しずつ違う。


役職としての麻那。

妹としての麻那。

神代商工会の室長としての麻那。

蒼麻の監視者としての麻那。

九尾狐欠片保有者としての麻那。

神代麻臣の娘としての麻那。


名前が、役割ごとに分裂している。


麻那の顔から血の気が引いた。


「……私の権限が複製されてる」


真響が低く言う。


「名を寄せ、役を分け、偽の命令を流している」


蒼麻は帳面を見る。


「つまり、偽物の麻那が商会内で命令してる?」


麻那は端末を操作する。


「すでに三件、私名義の指示が出ています。蒼麻監視強化、和灯周辺の観測、黒狐分離準備」


「全部最悪だな」


「まだ止められる」


そう言いながら、麻那の声が少しだけ揺れた。


疲労がある。


それ以上に、自分の名前を使われた怒りがある。


帳面から、白い紙片が伸びる。


それは麻那の影に触れようとした。


真響の狐火が走る。


黒い炎が紙片を焼き落とした。


「妹に触るな」


蒼麻が真響を見る。


「今、自然に妹って言ったな」


「うるさい」


麻那はそれどころではない。


「この術式、奥之院系の名簿術に近い気がする。でも、商工会の人事データベースとも接続してる」


「ハイブリッドで嫌すぎる」


圭吾が震えながら言う。


「それ、現代的な呪いですね……」


蓮二が塩を持つ。


「撒くか?」


麻那が少しだけ笑った。


「まだ待ってください」


名寄せ帳のページが、ひとりでにめくられた。


そこに、黒い文字が浮かび上がる。


本物とは、最も役割を果たす者である。


蒼麻の目が冷える。


「言いそうで嫌な神代語だな」


麻那は帳面を睨んだ。


「私は役割じゃない」


しかし、帳面はさらに文字を増やす。


神代麻那は兄を守る。

神代麻那は蒼麻を監視する。

神代麻那は商工会の命令を遂行する。

神代麻那は神代の利益を優先する。


麻那の手が震えた。


それは全て、完全な嘘ではない。


だから刺さる。


麻那は兄を守る。

監視もしてきた。

商工会の命令も遂行する。

神代の人間でもある。


だが、それだけではない。


それだけにされることが、何より腹立たしい。


蒼麻は低く言った。


「麻那」


麻那が顔を上げる。


「お前、今ここにいるよな」


「いる」


「じゃあ、それ以外は偽物ってことだ」


帳面が震えた。


真響が、少しだけ目を細める。


「雑だが、悪くない」


「雑って言うな」


麻那は、少しだけ息を整えた。


「お兄ちゃん。これは私が切る」


蒼麻はすぐに頷いた。


「分かった」


「珍しく即答だね」


「麻那の名前だからな」


その言葉に、麻那の目が揺れた。


だが、すぐに表情を引き締める。


「真響さん、外へ逃げる紙片を焼いてください」


「わかった」


「蓮二さん、塩を入口と裏口に」


「了解」


「篠崎さん」


「はい!」


「絶対にスマホを触らないでください。偽命令を拡散する可能性があります」


「触りません!」


蒼麻は横から言う。


「圭吾さんが一番安全な役割だな」


「座ってるだけで役に立つなら本望です!」


麻那は懐から、小さな弓を取り出した。


折り畳まれた弓が、音もなく展開する。


細身だが、霊気が濃い。


「名寄せは、名前を集めて束ねる術。なら、束ねた中心を射抜けば崩れる」


「中心は?」


蒼麻が聞くと、麻那は帳面の一番奥を見た。


「私の本名を模した核」


「模した?」


「本物ではない。けど、本物に近づこうとしてる」


帳面のページが止まる。


そこには、一つの名前が書かれていた。


神代 麻那


その文字だけが、異様に濃い。


まるで、麻那の存在そのものを紙へ写し取ろうとしている。


その下に、黒い文字が浮かぶ。


代替可能。


麻那の瞳が、静かに冷えた。


蒼麻は、その顔を見て思った。


怒っている。


相当。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「私が射ったら、そのあと名前を呼んで」


「分かった」


「ちゃんと」


「ちゃんと呼ぶ」


「昔みたいに」


蒼麻は一瞬、息を止めた。


子どもの頃。


暗い廊下。


麻那の名前を呼び続けた夜。


蒼麻はゆっくり頷いた。


「任せろ」


麻那が矢を番える。


帳面から、無数の麻那の影が立ち上がる。


スーツ姿の麻那。

幼い麻那。

商工会の麻那。

冷たい顔の麻那。

泣きそうな麻那。


それぞれが、同じ声で言った。


――私が本物。

――私が役割。

――私が命令。

――私が神代麻那。


虹彩の奥に矢じりのような黄金の紋様が薄く浮かび上がる。

麻那は、まっすぐ弓を引いた。


「違う」


矢が放たれる。


札を結んだ矢が、濃い名前の真ん中を射抜いた。


帳面が悲鳴を上げる。


紙片が舞う。


偽の麻那たちが一斉に麻那へ伸びる。


真響の狐火がそれを焼き払う。


「寄るな」


黒い炎が、紙の影を次々と眠らせる。


蓮二が入口に塩を撒く。


紙片が外へ出られず、床に落ちる。


圭吾は両手を上げて座っている。


「触ってません!」


「それは偉いです」


蒼麻は帳面に近づいた。


赤ペンを取り出す。


けれど、今回はすぐに線を引かなかった。


まず、麻那を見る。


麻那は息を切らしている。


疲れている。


でも、立っている。


「麻那」


蒼麻が呼んだ。


麻那の肩が震える。


「神代麻那」


偽の影たちが揺らぐ。


「俺の妹で、神代商工会の室長で、弓が強くて、働きすぎで、怒ると怖くて」


麻那が少しだけ目を見開く。


蒼麻は続けた。


「でも、誰かに代わられるような役割じゃない」


赤ペンで、帳面の名前の下に線を引く。


「麻那は、麻那だ」


その線が、強く光った。


偽の名前が剥がれていく。


代替可能、という文字が焼ける。


帳面の中から、黒い核が現れた。


小さな名札のようなもの。


そこには、偽の麻那の名が書かれている。


神代麻那代理


蒼麻は真顔になった。


「代理って何だ」


麻那が低く言った。


「失礼にもほどがある」


真響が冷たく言う。


「焼くか」


麻那は首を振った。


「焼く前に、発信元を取ります」


さすが監査側。


麻那は矢に残った札を引き抜き、黒い核へ貼りつけた。


「名寄せ術式、逆探知」


核が震える。


黒い線が、空中に浮かぶ。


奥之院ではない。


商工会でもない。


神代の古い名簿蔵。


そこに、ひとつの花印が浮かんだ。


山茶花(さざんか)


麻那の表情が固まる。


「また山茶花系統……」


蒼麻は眉を寄せた。


「この前の和灯監視にも出た名前だよな」


「うん。奥之院の汚れ仕事担当に近い系統」


真響が言う。


「妹を狙ったか」


「私を通して、お兄ちゃんの周辺を管理しようとしたんだと思う」


麻那の声は冷静だった。


だが、怒っている。


「私の名前を使って」


蒼麻は帳面を見下ろした。


「じゃあ、次はそっちに文句言いに行くか」


麻那が蒼麻を見る。


「お兄ちゃんが?」


「麻那の名前を使われたんだろ」


「でも」


「俺も怒ってる」


その一言に、麻那は何も言えなくなった。


真響は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「兄妹だな」


「ああ、兄妹だ」


蒼麻は短く答えた。


麻那が、少しだけ笑った。


泣きそうな顔で。


「ありがとう」


「礼は受け取る」


「上手になったね」


「鍛えられてるからな」


真響が静かに言った。


「まだ下手だが」


「うるさい」


蓮二がカウンターの奥から声をかける。


「終わったなら、飯にするぞ」


圭吾が両手を下ろしながら言った。


「俺、何もしてないけどお腹空きました」


「何も触らなかったから偉いです」


蓮二は笑いながら、椀物を温め直した。


その夜、和灯には少しだけ疲れた空気が漂っていた。


だが、悪い空気ではなかった。


麻那はカウンターで、蒼麻の隣に座っている。


真響はそのさらに隣。


圭吾はスマホを机に伏せたまま、両手で盃を持っている。


蓮二が、麻那の前に温かい椀を置いた。


「名前を使われた日は、温かいもの食べた方がいい」


麻那は少し笑った。


「ありがとうございます」


蒼麻は、黒く焦げた名寄せ帳の残骸を見た。


完全には消していない。


麻那が証拠として回収するらしい。


「麻那」


「なに?」


「山茶花って、どんな人なんだ」


麻那は少し考えた。


「まだ私も直接会ったことは少ない。奥之院の汚れ仕事を担う女性。表には出ないけど、名前だけはよく聞く」


「怖い?」


「怖いと思う」


「神代、怖い女性多いな」


真響が横から言う。


「女に限らぬ」


圭吾が小声で言った。


「神代全体が怖いです」


麻那は少しだけ申し訳なさそうに笑った。


「否定できません」


蒼麻は酒を一口飲んだ。


「まあでも、今回分かったことがある」


「何?」


「偽物の麻那は、本物より仕事が適当だった」


麻那が一瞬きょとんとし、それから笑った。


「そこ?」


「そこ」


「お兄ちゃんらしい」


真響が静かに盃を置いた。


「本物は、面倒だが替えが利かぬ」


麻那は真響を見る。


「それ、褒め言葉になってます?」


「少しだけなっている」


麻那は微笑んだ。


「じゃあ、ありがとうございます」


真響は少しだけ視線を逸らした。


蒼麻はその様子を見て、少し笑った。


和灯の灯りは、今夜も変わらず柔らかい。


神代山茶花。


名寄せ帳。


奥之院の汚れ仕事。


次に来るものは、たぶんもっと厄介だ。


けれど今夜は、名前を取り戻した妹が隣にいる。


それだけで、今日も酒が美味しく感じるのだった。

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