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第三十三話 流れを盗む者

水鏡庵(すいきょうあん)を出たのは夕方だった。


空はまだ明るい。


だが菖蒲の表情を見る限り、事態はあまり明るくないらしい。


移動中の車内。


運転席には神代系列の秘書。


後部座席に蒼麻、麻那、真響、そして菖蒲。


妙に静かだった。


蒼麻が耐えられず口を開く。


「菖蒲さん」


「何かしら」


「さっきから気になってたんですけど」


「ええ」


「怒ってます?」


麻那が思わず目を閉じた。


真響は窓の外を見ている。


菖蒲は微笑んだ。


「ええ」


即答だった。


蒼麻は少し引いた。


「隠さないんですね」


「隠す必要がないもの」


「ちなみに、どれくらい?」


菖蒲は少し考えた。


「桃が勝手に海外ファンドと喧嘩した時くらい」


麻那が小さく呟いた。


「結構怒ってる」


「そんなに?」


「かなり」


真響がぼそりと言う。


「逃げた方がいいかもしれぬな」


「お前が言うな」


目的地は横浜港近くの大型保税倉庫だった。


表向きは輸出入酒類の一時保管施設。


実際には国内の希少酒、海外向け限定流通酒、奉納酒、特殊な御神酒


それらが一時的に集まる場所でもある。


巨大な倉庫群にコンテナ。クレーン。

そして海風。


しかし蒼麻は到着した瞬間に違和感を覚えた。


「……静かすぎる」


菖蒲が頷く。


「本来なら夜でも人がいる時間よ」


麻那も眉をひそめた。


「人の気配が薄い」


真響は港の方を見ている。


「人ではないものは多いがな」


その言葉に蒼麻の背筋が冷えた。


倉庫内部へ入ると酒瓶が並び、木箱が積まれている。


だが異様だった。


どの酒も“氣”が薄い。


まるで中身だけ抜かれたような。


蒼麻が一本持ち上げる。


「なんだか土地の気配が消えてるようだ」


菖蒲の目が鋭くなる。


「やはり」


麻那が振り返る。


「何が起きてるの」


菖蒲は低く言った。


「酒そのものじゃない」


「え?」


「流れが盗まれている」


蒼麻には最初意味が分からなかった。


だが真響は理解したらしい。


「なるほど」


黒狐は倉庫全体を見回した。


「酒の記憶か」


菖蒲が頷く。


「そう」


そして珍しく真顔になる。


「最悪に近い」


蒼麻は聞いた。


「酒の記憶?」


「おそらく、あなたがいつも感じているものよ」


菖蒲が答える。


「土地の空気、蔵人の癖、水の流れ、酒が持つ物語。そしてその蓄積」


蒼麻は理解した。


「酒の魂、本質みたいなものですか」


「近いわね」


「それを盗みとっている?」


「ええ」


その時。


倉庫の奥で音がした。


カラン。


カラン。


酒瓶ではない。ガラスの音が鳴る。まるで風鈴のように。


真響が言う。


「来る」


麻那は弓を構えた。


菖蒲が指を鳴らすと彼女の周囲に、水脈のような薄い線が広がった。


美しい。


蒼麻は思った。


やっぱりこの人強い。


しかも桃や鬼灯と違う。


戦闘慣れした強さではない。


世界を管理する側の強さだ。


奥から現れたのは。


人影。


だが顔がない。代わりに胸の部分には


酒税印


蔵印


流通印


企業印


神社印


あらゆる印が貼り付いている。


それが歩くたびにポロポロとそれらの印を落としていく。


そして落ちた印から酒の気配、記憶が吸い取られていく。


蒼麻は息を呑んだ。


「何だこれ」


菖蒲が低く言う。


流印鬼(りゅういんき)


「流印鬼?」


「昔の怪異よ」


その声は珍しく重かった。


流印鬼。


本来は存在しないはずだった。

なぜなら神代酒造流通が百年以上前に封じたから。


酒を運ぶ道。

人を結ぶ道。

金を運ぶ道。


それらの流れだけを食う怪異。


酒そのものは残る。


だが。


土地との縁を食う。

蔵との縁を食う。

人との縁を食う。

最後には。

ただの抜け殻のような酒だけが残る。


蒼麻は顔をしかめた。


「それ、かなり嫌だな」


真響が答えた。


「お前が嫌う類だ」


「だろうな」


流印鬼が笑った。


声はない。


だが笑っているのが分かる。


そして倉庫中の酒へ手を伸ばした。


その瞬間、真響の黒い狐火が走った。


「触るな」


黒い炎が流印鬼の手元で爆ぜる。


しかし、流印鬼は消えない。


むしろ倉庫中の流通印が光り始めた。


蒼麻は気づいた。


「こいつ」


「流通の流れが多いほど強くなるのか」


菖蒲が頷く。


「そう」


そして初めて神代菖蒲が本気の顔を見せた。


「だから私は嫌いなのよ」


その瞬間。


倉庫全体に巨大な水脈図が浮かんだ。


まるで都市の地下水路。


いや。


日本中の酒の流れそのもの。


麻那が思わず呟く。


「……これは本気かも」


蒼麻が聞く。


「そんなに?」


麻那は小さく頷く。


「菖蒲様が本気で流れを開くところ、私も初めて見る」


蒼麻はまだ知らない。


この人が神代一族でも屈指の実力者だということを。


ただ、今は。

倉庫を埋め尽くす流れの光を見て。


初めて思った。


もしかして。この人。


思っていたよりずっとヤバい人なんじゃないか。


流印鬼は笑う。


菖蒲も笑う。


真響は面倒そうにため息を吐く。


そして。


麻那だけが小さく呟いた。


「……犯人さん」


「本当に運が悪かったね」


次の瞬間。


神代菖蒲の"流通網"が、


水の鎖のように流印鬼を包囲した。


流印鬼を包囲するように。


無数の光の線が倉庫を埋め尽くした。


神代菖蒲の流通網。


それは術式というよりも、巨大な生態系だった。


酒蔵。港。倉庫。酒販店。海外市場。神社。料亭。居酒屋。


数え切れないほどの流れが網目のように広がっている。


蒼麻は思わず息を呑んだ。


「……すげぇ」


菖蒲は振り返らない。


「褒めても何も出ないわよ」


「いや、本当に」


蒼麻は初めて理解した。


この人は酒を流しているのではない。


日本中の酒の縁そのものを管理している。


農家と蔵元が米の価格を協議している。

蔵元と酒販店がお酒の出来や価格について話し合う。

配送業者が帽子に手をかけながら、笑顔で酒を届ける光景。

酒販店の店員がショーケース前でそのお酒の良さを説明する。

飲食店の店主が自慢げにお勧めのお酒を提供する。


そんな光景が一瞬浮かんで消えた。


流印鬼が笑う。


胸に貼り付いた無数の印が光る。


酒税印。


蔵印。


奉納印。


輸出印。


認証印。


次々と剥がれ、倉庫中へ飛び散った。


その瞬間。積み上げられた木箱から酒の気配が吸い上げられていく。


土地の記憶。

蔵人の想い。

酒の物語。


それらが黒い靄となって流印鬼へ集まる。


蒼麻は顔をしかめた。


「まずい」


「まずいわね」


菖蒲も珍しく同意した。


しかし。


その前に動いたのは真響だった。


黒狐の足元から。静かに黒い炎が広がる。


燃え盛る黒い狐火。


ただ燃やす炎ではない。浄化と忘却の狭間にある火。


世界から零れた穢れや執着を眠らせる火。


真響が片手を上げる。


「返せ」


低い声だった。


次の瞬間倉庫全体が震えた。


黒い狐火が取り囲むように流印鬼へ襲いかかる。


流印鬼は慌てて後退したが胸の印が次々に燃やされていく。


蒼麻は少し驚く。


真響は普段、派手に戦わない。だから忘れそうになる。


この黒狐は五柱(ごはしら)の一柱なのだ。


流印鬼が印を飛ばす。


無数の紙片。

呪印。

契約印。

流通印。


それらが真響へ殺到する。


しかし、黒い狐火が壁のように静かに燃えた。


触れた印から順番に灰になる。


契約も。記録も。執着も。全部燃やしてしまう。


「なんて厄介なの」


それを見て菖蒲が小さく呟いた。


蒼麻が聞く。


「流印鬼ですか?」


「違うわ」


菖蒲は真響を見ていた。


「黒狐」


真響は聞こえていないふりをした。


流印鬼は苛立ったように震える。


その瞬間。


倉庫中の酒瓶がまたしても風鈴のように鳴った。


カラン。

カラン。

カラン。


酒の記憶と魂が黒い霧のようなものに抜かれ始める。


蒼麻は走った。


一本の酒瓶を掴む。


まだ残っている。


蔵の匂い。

水の匂い。

人の匂い。


完全には消えていない。


「菖蒲さん!」


「分かっている!」


菖蒲が指を鳴らした。


その瞬間。


倉庫全体の流通網が反転する。


まるで巨大な河川が逆流するように。


酒蔵へ。

土地へ。

水源へ。


流印鬼が盗んだ記憶が引き戻され始めた。


流印鬼が悲鳴を上げる。


初めて声が出た。


人の声でもない。


怪異の声でもない。


流れそのものの叫び。


蒼麻は気づいた。


「こいつ」


「酒が欲しいんじゃない」


真響が頷く。


「流れが欲しい」


菖蒲も理解していた。


「そう」


「だから私の網に潜った」


流印鬼は酒そのものではなく、酒によって生まれる縁を食う。


誰かが酒を飲む。

誰かが出会う。

誰かが語る。

誰かが思い出す。


その流れ。その縁。その物語。それが好物。


蒼麻は思わず言った。


「なんて最低なんだ」


真響も珍しく同意した。


「最低だな」


流印鬼が逃げようとする。


だが、その先に麻那の矢が放たれる。


札を結んだ矢が、梁に突き刺さり、逃げ道を塞いだ。


「逃がさない」


麻那が静かに言う。


菖蒲の流通網。


真響の狐火。


麻那の弓。


流印鬼は三方向から拘束されていく。


蒼麻はそこで気づいた。


「これ、俺いらないんじゃない?」


真響が即答する。


「いる」


麻那も即答する。


「いる」


菖蒲も言う。


「必要よ」


蒼麻は嫌な予感がした。


流印鬼の中心、胸の奥。そこに。


小さな黒い核が見えた。


蒼麻は顔をしかめる。


「またか」


真響が頷く。


「まただな」


その核は。


盗まれた流れ。


奪われた縁。


失われた酒の記憶。


全部が凝縮している。


蒼麻は赤ペンを取り出した。


「戻すのか」


真響が聞く。


蒼麻は少し考えた。


そして首を振った。


「違う」


「?」


「これは戻せない」


菖蒲が目を細める。


「理由はなにかしら?」


蒼麻は核を見る。


そこには。


本来の持ち主が分からなくなった縁が多すぎた。


「誰のものか分からない」


「だから?」


「だから返せない」


真響が小さく笑った。


「学んだな」


蒼麻は赤線を引く。


核を囲むように。


円を描く。


「流れは流れへ、縁は縁へ、酒は酒へ、人は人へ」


赤い線が光り、蒼麻は続けた。


「でも、もう持ち主が分からなくなったものまで、無理に戻す必要はない」


流印鬼が震える。


「それはお前が抱えろ」


赤線が閉じる。


核が封じられる。


流印鬼が絶叫した。


麻那の矢が最後の逃走経路を塞ぐ。


菖蒲の流通網が固定する。


真響の狐火が覆う。


そして流印鬼は小さな印の形になった。


酒税印ほどの大きさ。


蒼麻がそれを拾う。


黒い印。だがもう動かない。


静寂。


倉庫の空気が変わった。


酒瓶たちから。


土地の匂いが戻る。

蔵の気配。

水の気配。

人の気配。

生き返ったようだった。


しばらくして、菖蒲が言った。


「終わったわね」


蒼麻は座り込んだ。


「疲れた」


真響も珍しく壁にもたれる。


麻那は矢を片付ける。


そして、菖蒲が小さく笑った。


「なるほど」


「麻臣さんが命をかけて隠したくなるわけね」


蒼麻は顔を上げる。


「何ですかそれ」


菖蒲は答えなかった。


ただ初めて少しだけ、寂しそうな顔をした。


「あなたのお父さんは、本当に大した人だったわ」


その言葉だけを残して。


神代菖蒲は静かに窓の外の夜景を見つめていた。


その頃。


遠く離れた場所で。


神代桃はくしゃみをした。


「……なにか嫌な予感がする」


鬼灯が酒を飲みながら言う。


「菖蒲様だろう」


桃は真顔になった。


「帰るか」


鬼灯も頷いた。


「帰ろう」


まだ何もしていないのに。


二人は本能的に危険を察知していた。


神代菖蒲。


それは神代一族の中でも、


桃と鬼灯が母親のように恐れる女だった。

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