第三十二話 菖蒲の流通網
神代酒造流通の件が続いた時点で、蒼麻は薄々思っていた。
そろそろ、酒そのものではなく、酒を流す側に行き着くのではないか、と。
その予感は、和灯に届いた一通の招待状で当たった。
差出人は、神代菖蒲。
封筒からは、墨と香木のような香りがした。
蒼麻は封筒を見て、蓮二の出した炙り味噌をつつきながら言った。
「神代菖蒲って、どんな人なんだ」
その瞬間、麻那の箸が止まった。
真響も盃を置いた。
圭吾はなぜか姿勢を正した。
蓮二だけが、普通に小鉢を並べている。
「……何、その反応」
麻那は少し考えてから言った。
「一言で言うと、神代酒造流通と水脈物流を押さえている人」
「流通の偉い人?」
「うん。かなり偉い人。神代の酒と水の流れに関しては、かなり強い発言権を持ってるよ」
真響が淡々と補足する。
「首輪を美しい紐と言い換える女だ」
「嫌ってるな」
「嫌いではない。好ましくないだけだ」
「それ、だいぶ嫌い寄りだよな」
圭吾が小声で言った。
「菖蒲さんは、広告業界でも有名だよ。会議に出てくると、全員が背筋伸ばすタイプ」
「怖いんですか?」
「怖いというか……綺麗で、穏やかで、逃げ道を全部塞いでから微笑む人」
蒼麻は箸を止めた。
「それ怖い人ですよね」
麻那が否定しなかった。
「桃さんや鬼灯さんも、菖蒲さんの前だと少し大人しくなる」
「え、あの桃さんが?」
「うん。いたずらっ子が母親に叱られるみたいになる」
蒼麻は少しだけ興味を持った。
「それは見たい」
その時、麻那の端末が震えた。
画面を見た麻那の顔が変わる。
「噂をすれば」
蒼麻が嫌そうに言う。
「来た?」
「来たというか、呼ばれた」
麻那は画面を見せた。
神代酒造流通本部より出頭要請。
案件:流通網異常および酒税印の鬼に関する説明。
出席者:神代麻那、神代蒼麻、黒狐真響。
蒼麻は真顔で言った。
「俺、社員じゃないんだけど。それで俺と麻那はともかく、真響も名指し?」
「向こうは、私を見たいのだろう」
麻那は静かに言った。
「神代では、よくあることかな」
「よくあってたまるか。行かなかったらどうなるんだ?」
真響と麻那は同時に口を開く。
『向こうが来る』
「息ぴったりだな」
真響は立ち上がった。
「行くぞ」
「即決だな」
「菖蒲の口から聞いた方が早い」
「好まないんじゃなかったのか」
「好ましくない相手ほど、直接見た方がよいものだ」
蓮二は黙って包みを出した。
「鮭おかかお握り」
蒼麻は受け取る。
「母親か」
「菖蒲さんに会うなら、腹に入れとけ」
「蓮二まで知ってるのか?」
「客商売してると、怖い人の噂は聞こえてくるよ」
圭吾が真顔で頷いた。
「菖蒲さんの前で変な英語読みしたら、たぶん三秒で人間やめたくなる」
「それは自業自得じゃないですか」
指定された場所は、銀座の奥にある会員制の試飲室だった。
表向きは、高級日本酒と食文化の研究サロン。
だが、神代系列の流通関係者、蔵元、海外バイヤー、政財界の関係者が密かに集まる場でもある。
店の名は、水鏡庵。
表通りから少し外れたビルの上階にあり、エレベーターを降りると、そこだけ別世界のようだった。
白木のカウンター。
水盤。
壁一面に並ぶ酒器。
奥には、温度管理された小さな酒蔵のような貯蔵室。
上品だ。
だが、上品すぎる。
蒼麻は小声で言った。
「和灯に帰りたい」
麻那が横から言う。
「まだ何も始まってないよ」
「始まる前から帰りたい場所ってあるだろ」
真響は辺りを見て、低く言った。
「酒は悪くない。人間の匂いが多すぎるだけだ」
「それ、だいぶ嫌な評価だな」
その時、奥の襖が静かに開いた。
現れたのは、一人の女性だった。
艶のある黒髪に、ほんのり紫を帯びた光。
年齢は五十代半ばと聞いていたが、肌はなめらかで、年齢の気配をほとんど感じさせない。
和装ではなく、淡い藤色のドレス。
だが、見た目はどう見ても四十代前半にしか見えない。
若作りではない。姿勢がよく、目元に華がある。
派手ではないのに、場の中心が自然に彼女へ移る。
神代菖蒲。
彼女は柔らかく微笑んだ。
「よく来てくれたわね」
蒼麻は一瞬、誰か桃あたりの姉かと思った。同じような雰囲気を感じるからだ。
蒼麻が黙っていると、菖蒲が笑った。
「何か言いたそうね」
「……もしかしたら神代桃さんの姉ですか?」
麻那が小さく咳き込んだ。
真響が目を細める。
菖蒲は、しばらく蒼麻を見てから、楽しそうに笑った。
「桃に聞かせたいわね。きっと嫌な顔をするわ」
「違うんですね」
「違うわ。ただ、昔はよく叱ったから、本人は姉より母親みたいだと思っているかもしれないわね」
「桃さんが?」
「桃も、鬼灯も」
その言葉に、麻那が少しだけ顔を伏せた。
笑いをこらえている。
蒼麻は思わず言った。
「鬼灯さんも?」
神代鬼灯の事は直接は知らないが先日の事件の後、どのような人間かはなんとなくだが聞いている。
「ええ。あの子たち、悪さをすると大体顔に出るもの」
真響が小さく呟いた。
「恐ろしい女だな」
菖蒲は真響へ視線を向けた。
「黒狐真響。あなたにそう言われるのは、少し光栄ね」
「褒めていない」
「でしょうね」
菖蒲は涼しく受け流した。
その受け流し方だけで、蒼麻は分かった。
この人は強い。
怒鳴らない。
威圧しない。
ただ、場を自分の流れへ変える。
物理的にというより、場を支配するのがうまい。
「神代菖蒲です」
彼女は改めて名乗った。
「神代酒造流通、水脈物流、海外商流を少しばかり見ています」
「少しばかり?」
蒼麻が思わず聞き返す。
麻那が小声で言う。
「ぜんぜん少しじゃない」
菖蒲は微笑むだけだった。
席に案内されると、すぐに酒が出された。
小さなテイスティンググラス。
無駄のない温度管理。
香りの立ち方も、完璧に近い。
蒼麻は少しだけ悔しくなった。
「……うまい」
菖蒲は嬉しそうに目を細めた。
「でしょう?」
「これはかなりうまいです」
「素直でよろしい」
真響も盃を傾けた。
「酒はとてもよい」
「人は?」
菖蒲が聞く。
真響は即答した。
「保留だ」
菖蒲はまた笑った。
「厳しいのね」
「お前が柔らかすぎる」
「流通に携わる者は、柔らかくなければ折れるのよ」
「首輪を絹で作る者の言い分だな」
場の空気が一瞬、張った。
麻那が緊張する。
蒼麻もグラスを置いた。
菖蒲は、真響を静かに見た。
「野放しにして死なせる方が、私は残酷だと思っているわ」
真響の目が冷える。
「生きるために首を絞められた者は、何と呼べばよい」
「では、放置を自由と呼ぶのかしら?」
「支配者の言葉だ」
「ええ」
菖蒲は否定しなかった。
「私は、流れを支配しているもの」
蒼麻は、その言葉に引っかかった。
「酒も支配するんですか?」
菖蒲は蒼麻を見る。
「酒だけではないわ。水、米、瓶、ラベル、輸出入、倉庫、販路、価格、信用、評判」
指折り数えるように言う。
「良い酒を良い状態で届けるには、綺麗事だけでは足りないわ」
一理あるのはわかる。
「だから蔵を縛るんですか?」
「縛るのではなく、守る」
「同じに聞こえることがあります」
蒼麻が言うと、菖蒲は楽しそうに微笑んだ。
「あなたは麻臣さんに似ている」
蒼麻は顔をしかめた。
「みんなそれ言いますね」
「あなたの顔をみるとなぜか言いたくなるのよ」
「父さんと知り合いだったんですか」
「ええ。何度も喧嘩したわ」
「想像できます」
「私は流通を整えれば酒は守れると言った。麻臣さんは、それでは人を見なくなると言った」
菖蒲はグラスの中の揺れる酒を見た。
「どちらも正しかったと思う。だから、最後まで平行線だった」
その声には、わずかに懐かしさがあった。
敵意ではない。
だが、親しみとも違う。
実力を認めていた相手への、複雑な記憶。
「今回の酒税印の鬼」
蒼麻は切り込んだ。
「菖蒲さんの系統の印が出ました」
菖蒲は頷いた。
「知っているわ」
「あなたのの仕掛けなんですか」
麻那が少し息を呑む。
真響は黙って菖蒲を見ている。
菖蒲は、蒼麻の質問を嫌がらなかった。
むしろ、少し嬉しそうだった。
「私を疑っている顔ね」
「少しそうです」
「正しい判断よ」
「では?」
「今回は違う」
菖蒲は静かに言った。
「ただし、私の網を使った者がいる」
「止められなかったんですか」
「止められたかもしれない」
蒼麻の目が細くなる。
「わざと止めなかったと?」
「そこまでは言わないわ」
「神代の人、そういう言い方多いですね」
「便利だもの」
麻那が苦い顔をした。
「菖蒲様」
「分かっているわ。麻那」
菖蒲は、少しだけ母親のような目で麻那を見た。
「あなたが怒るのも当然ね。兄を試されるのは嫌でしょう」
麻那の表情が硬くなる。
「はい」
「でも、蒼麻さんはもう試されなければならない立場にいる。それは避けられない」
「だからといって、勝手に巻き込む理由にはなりません」
「その通り」
菖蒲はあっさり頷いた。
「だから、私はこうして呼んだの」
蒼麻は眉を寄せた。
「何のために」
「私の流通網に、穴が開いている」
菖蒲の声から、初めて華やかさが薄れた。
「私に似せた術式を使い、酒と水の流れを横取りしている者がいる」
「誰が」
「分からない」
「菖蒲さんでも?」
「ええ」
その答えで、場が少し重くなった。
麻那も表情を変えた。
「菖蒲様の網に穴を?」
「そう。だから面白くないの」
菖蒲は微笑んだ。
だが、その目は冷たかった。
「私の網を使って、蔵を傷つけ、蒼麻さんを試し、黒狐を揺らす。ずいぶん礼儀知らずでしょう?」
真響が言った。
「礼儀の問題か」
「最初は礼儀の問題よ。次に損害。そして最後に、敵意」
蒼麻は少しだけ背筋が冷えるのを感じた。
この人は、怒っている。
ただし、怒鳴らない。
火のように燃えるのではなく、水面下で流れを変えるタイプの怒り方だ。
「私を疑うのは構わないわ」
菖蒲は蒼麻に言った。
「でも、私を敵と決めるにはまだ早い」
「味方ですか」
「それもまだ早いわね」
「もはや神代語じゃないですか」
「覚えてきたわね」
菖蒲は楽しそうに笑った。
その時、部屋の奥の水盤が揺れた。
誰も触れていない。
水面に、赤黒い印が浮かぶ。
酒税印の鬼と同じ、鬼面の痕。
そして、その奥に細い水路のような線が幾重にも走っている。
流通網。
酒と水と金と情報、そして契約の流れ。
その一部が、黒く濁っていた。
菖蒲が立ち上がる。
「来たわね」
蒼麻も立つ。
「何が」
「私の網を使った者が、こちらを覗いている」
すでにいつでも焼き払うための真響の狐火が静かに揺れていた。
「追えますか」
「私の網よ。追えない方が恥だわ」
菖蒲は微笑んだ。
水盤の水が、細い線となって宙に浮かぶ。それはまるで巨大な地図のように広がった。
酒蔵。
倉庫。
港。
海外商社。
神代酒造流通の支社。
水脈物流の管理拠点。
その一角に、黒い点が灯った。
麻那が端末を確認する。
「横浜の保税倉庫……」
「海外向け希少酒の一時保管場所ね」
菖蒲の声が冷える。
「蒼麻さん」
「はい」
「来られる?」
蒼麻は少し笑った。
「一応聞くんですね」
「私は、首輪をかけると疑われているから」
「自覚はあるんですね」
「あるわ」
真響が蒼麻を見る。
「行くなと言っても行くのだろう」
「行く」
麻那も立ち上がった。
「私も行きます」
菖蒲は麻那を見る。
「助かるわ」
「菖蒲様のためではありません」
「分かっているわ」
二人の視線がぶつかった。
神代の女性同士の静かな圧が、場を満たす。
蒼麻は小声で真響に言った。
「怖い」
真響は淡々と返す。
「人間の女は怖いな」
「お前も一緒だぞ」
「私は人間ではないからな」
「便利な逃げ方だな」
菖蒲はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
「行きましょう。私の網に手を入れた礼儀知らずを、少し叱らないと」
蒼麻は思った。
叱る、という言葉がこれほど怖く聞こえる人も珍しい。
桃や鬼灯が菖蒲を苦手にしているという話が、少しだけ分かった気がした。
まだ、彼女が神代一族の中でどれほどの実力者なのかは知らない。
だが、ひとつだけ分かる。
この人は、怒らせない方がいいのだろうと。




