第三十一話 妹の監査
その日、和灯の戸が開いた瞬間、蒼麻は嫌な予感がした。
入ってきたのは、麻那だった。
仕事用のスーツ。
落ち着いた髪。
にこやかな笑顔。
そして、手には薄いファイル。
蒼麻は盃を置いた。
「……今日は案件か?」
麻那は微笑んだ。
「監査です」
蓮二が厨房から顔を出す。
「うち、何かしました?」
「いえ。和灯ではなく、お兄ちゃんの交友関係の監査です」
蒼麻は真顔になった。
「帰っていい?」
「ここ、蓮二さんのお店だよ」
「逃げ場がない」
真響は隣で盃を傾けながら言った。
「今さらだな」
麻那は真響を見る。
「真響さんも対象です」
真響の手が止まった。
「私も?」
「はい」
「人間の監査など受けぬ」
「人間ではない自覚があるなら、なおさら確認が必要です」
蒼麻は小さく吹き出した。
「麻那、今日は強いな」
「お兄ちゃんの周り、人外と神代と変人しかいないから」
蓮二が真顔で言う。
「俺は小料理屋の店主です」
「蓮二さんは癒し枠です」
「ありがとうございます」
真響が低く言う。
「私は変人ではない」
「人ではない枠の方ですね」
「……」
蒼麻は笑いをこらえきれなかった。
「やめろ、腹痛い」
麻那はファイルを開いた。
「では確認します。まず、蓮二さん」
「はい」
「和灯は怪異が出やすい場所ですか?」
蓮二は少し考えた。
「出やすいというか、寄り道されやすい店らしいです」
「寄り道」
「迷った客が、酒飲んで帰っていく場所です」
麻那は一瞬黙り、柔らかく笑った。
「それは、良い店ですね」
蓮二は少し照れたように頭をかいた。
蒼麻が横から言う。
「ほら、監査合格」
「まだです」
「厳しい」
麻那は次に真響を見た。
「真響さん」
「何だ」
「お兄ちゃんのそばにいる理由を、改めて確認しても?」
「嫌だ」
「では、嫌だという回答として記録します」
「待て」
真響が眉を寄せる。
蒼麻は笑った。
「真響、麻那と相性悪いな」
「お前の妹が面倒なのだ」
「兄妹だからな」
「納得したくない」
麻那は真面目な顔のまま言った。
「見張りですか?」
真響は少し黙った。
「最初はな」
「今は?」
「……決めていない」
麻那はペンを止めた。
「決めていないのに、離れないんですね」
真響は答えない。
麻那はそれ以上追及しなかった。
「分かりました。保留として記録します」
蒼麻が小声で言う。
「保留扱い多いな」
「お兄ちゃんも保留案件だらけだからね」
「ぐうの音も出ない」
その時、圭吾が暖簾をくぐって入ってきた。
「レンジィィ、今日はちゃんと田酒って言うよ!」
麻那が振り返る。
圭吾は固まった。
「……神代さん?」
麻那はにこりと笑った。
「神代麻那です。兄がいつもお世話になっています」
圭吾は姿勢を正した。
「改めまして篠崎圭吾です。銘柄を変な英語にする癖がありましたが、最近は反省して直しました」
麻那は少しだけ目を細めた。
「そんな癖ありました?」
「……ありました」
「正直でよろしいです」
蒼麻は額を押さえた。
「今日、何の会なんだ」
蓮二が静かに言った。
「監査だろ」
「和灯でやらないでほしい」
麻那はファイルを閉じた。
「冗談はここまで」
その一言で、空気が少し変わった。
「本題があります」
蒼麻は盃を置く。
「やっぱり案件か」
「半分は」
「半分?」
麻那は店内を見回した。
「最近、お兄ちゃんの周りに関わった人や場所が、次々と神代一族の観測対象になっています。和灯も例外ではありません」
蓮二の表情が少し硬くなる。
真響の気配も冷たくなる。
麻那は続けた。
「だから先に確認しに来ました。神代側が勝手に和灯へ手を出す前に」
蒼麻は麻那を見る。
「守りに来たんだな」
「監査に来たの」
「言い方」
「守るって言うと、お兄ちゃんは嫌がるから」
蒼麻は返事に詰まった。
麻那は少しだけ笑う。
「でも、守りに来たのも本当」
その時だった。
和灯の灯りが、一瞬だけ暗くなった。
カウンターの上に置かれたノートが、勝手に開く。
蓮二が顔をしかめた。
「またか」
帳面の余白に、黒い文字が浮かび上がる。
神代蒼麻 周辺交友関係記録
蒼麻は真顔で言った。
「最悪の監査名だな」
麻那の目が冷える。
「これは私のものじゃない」
真響が急に立ち上がる。
「外から誰か覗いているぞ」
ノートの文字が増えていく。
対象一:黒狐真響。危険度高。隔離推奨。
対象二:和灯店主 蓮二。帰巣地点として機能。監視推奨。
対象三:篠崎圭吾。情報漏洩経路として利用可。
対象四:神代麻那。過干渉。排除困難。
圭吾が青ざめた。
「俺、利用可って書かれてるんだけど」
蓮二が静かに言った。
「うちは監視推奨らしい」
真響の狐火が、黒く揺れる。
「隔離推奨、か」
蒼麻の声が低くなる。
「誰だ」
帳面の中央に、黒い花の印が浮いた。
麻那が息を呑む。
「山茶花系統……」
「山茶花?」
「奥之院の汚れ仕事担当に近い人たちです」
蒼麻はノートを見る。
「つまり、神代が和灯を監視対象にした」
「まだ正式決定ではないはず。でも、先に誰かが記録を作ろうとしている」
ノートから、細い黒い紙片が伸びた。
紙片は、蓮二の影へ向かう。
真響の狐火がそれを焼き払った。
「店に手を出すな」
麻那も札を構える。
「お兄ちゃん、これは“名寄せ”に近い。周囲の名前と役割を記録して、神代側の管理対象に組み込む術式」
蒼麻は赤ペンを出した。
「勝手に人の居場所を台帳に載せるなよ」
ノートの文字がさらに濃くなる。
帰巣地点を管理下へ。
黒狐との接触頻度を記録。
蒼麻の判断傾向を抽出。
蒼麻はノートに手を置いた。
「真響」
「何だ」
「焼くなよ」
「なぜ」
「焼いたら、向こうに情報だけ持って逃げられる気がする」
麻那が頷く。
「正解。切り離してからでないと危ない」
「蓮二」
「何だ」
「この店、神代の管理下に入りたい?」
蓮二は即答した。
「嫌だね」
「圭吾さん」
「俺も嫌! 利用可とか絶対嫌!」
「真響」
「言うまでもない」
蒼麻は頷いた。
「じゃあ、この記録は無効だ」
赤ペンで、帳面の余白に線を引く。
名前を消す線ではない。
名前と神代の管理記録を切り分ける線。
「和灯は和灯へ。
蓮二は蓮二へ。
圭吾さんは圭吾さんへ。
真響は真響へ。
麻那は麻那へ」
赤い線が光る。
「勝手に役割を決めるな。
人を記録で囲うな。
帰る場所を、管理対象にするな」
帳面が震える。
黒い花の印が浮き上がり、逃げようとする。
麻那が弓を取った。
いつの間にか、彼女の手には小さな折り畳み式の弓が展開されている。
蒼麻が目を丸くした。
「麻那、それ普段持ち歩いてるのか」
「監査だから」
「監査の概念が強すぎる」
麻那は矢に札を結び、黒い花の印を射抜いた。
紙片が弾ける。
真響の狐火がそれを包み、外へ逃がさない。
蓮二はカウンターの下から塩を出した。
「撒くか?」
蒼麻は思わず笑った。
「店主まで戦闘に参加するな」
「店を守るなら塩くらい撒く」
真響が頷く。
「正しい」
圭吾が慌てて言った。
「俺は何をすれば!?」
蓮二が即答する。
「客なんですから黙って座っててください」
「はい!」
ノートの黒い文字が、次々と剥がれていく。
最後に残った一文。
神代蒼麻、管理困難。
蒼麻は鼻で笑った。
「それは合ってる」
麻那が真顔で言う。
「合ってるけど、書かれると腹立つね」
蒼麻は最後の線を引いた。
「管理困難で結構」
ノートが閉じる。
黒い花の印は、麻那の矢に縫い止められたまま、灰になって消えた。
和灯の灯りが戻る。
蓮二は息を吐いた。
「……うち、やっぱり霊的なもの出やすいのか?」
蒼麻は少し考えた。
「最近は俺のせいです」
「正直だな」
「すみません」
蓮二は肩をすくめた。
「まあ、店が勝手に管理されるよりはましだけど」
麻那は深く頭を下げた。
「蓮二さん、申し訳ありません。今後、和灯周辺の監視術式はこちらで遮断します」
蓮二は少し笑った。
「お願いします。あと、お腹空いてるなら食べていって」
麻那の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「……はい。お金落として行きますね」
蒼麻はその顔を見て、ようやく少し安心した。
「麻那」
「なに?」
「久しぶりに出てきたと思ったら、強いな」
麻那はにこりと笑った。
「お兄ちゃんの周りを監査するには、これくらい必要です」
真響が静かに言った。
「妹は厄介だな」
麻那は涼しく返す。
「黒狐ほどではありません」
一瞬、二人の視線がぶつかる。
蒼麻は盃を持ったまま呟いた。
「……蓮二、酒」
「はいよ」
圭吾が小声で言った。
「蒼麻くんの周り、本当に怖い女性多いね」
蒼麻は真顔で返した。
「否定できない」
その夜、和灯では少し遅めの食事が始まった。
蓮二のあおさ海苔の出汁巻き。
厚揚げの醤乗せ。
あさりの味噌汁。
麻那は久しぶりに、仕事の顔を少しだけ外して箸を持った。
真響は相変わらず静かに酒を飲み、圭吾は銘柄を英語読みしないよう必死に口をつぐんでいる。
和灯は、神代の管理下には入らなかった。
ただ、帰る場所として、灯り続けていた。




