第三十話 朱の蔵火
竜胆の残り香の件から、三日後。
和灯のカウンターで、蒼麻は妙に静かに酒を飲んでいた。
蓮二が焼き味噌を出しながら、ちらりと見る。
「今日は大人しいな」
「次にどの花の名前が出てくるか考えてる」
「神代一族、花札みたいになってきたな」
「笑えない花札だよ」
真響は隣で盃を傾けていた。
「次は、朱だ」
蒼麻は真響を見る。
「何で分かる」
「匂いが来ている」
「酒?」
「火だ」
その瞬間、店の外で風が鳴った。
冬でもないのに、妙に乾いた熱を帯びた風。
蝋梅の香りの奥に、焦げた米のような匂いが混じる。
蓮二の表情が変わった。
「焦げ臭いな」
蒼麻が立ち上がる前に、スマートフォンが震えた。
表示は、神代檀。
『蒼麻さん。酒蔵案件です』
「今、焦げ臭い風が来たところです」
『では早い方がいいですね』
「また神代の誰かが仕掛けた系ですか」
『断定はできません。ただし、五柱の朱に関わる可能性があります』
真響の目が鋭くなる。
「朱狐か」
檀は電話越しにも一瞬沈黙した。
『はい。朱狐・紅沙の先触れと思われる火が、蔵に出ています』
蒼麻は眉を寄せた。
「火事ですか」
『火は出ています。ですが、燃えていません』
「どういうことです」
『火入れの工程だけが必ず狂い、酒が熱を持ちすぎています。蔵人たちの怒りや焦りも増幅している。火災などではありませんが、このままでは蔵が壊れます』
蒼麻は鞄を取った。
「場所は」
『埼玉の小さな蔵です。名は、紅谷酒造』
真響が静かに立ち上がる。
「行くぞ」
「止めても行くんだろ」
「止める気もない」
蓮二はいつものように包みを出した。
「握り飯。今日は味噌多めにしておいた」
「母親か」
「小料理屋の店主です」
真響が包みを受け取る。
「火の案件なら腹に入れておけ。空腹は怒りを煽るからな」
蒼麻が真響を見る。
「妙に生活感ある助言だな」
「怒っている者に空腹を重ねるな。面倒になる」
蓮二が頷く。
「それは正論」
「二人で納得するな」
紅谷酒造は、古い町並みの奥にあった。
小さな蔵だ。
大手ではない。
希少酒で高値がつくような派手さもない。
だが、蔵に近づくほど、蒼麻は胸の奥がざわついた。
焦げた米。
熱を持った木桶。
煮詰まった感情。
火災報知器は鳴っていない。
煙も出ていない。
なのに、蔵全体が内側から熱を持っているような奇妙な感覚。
入口では、神代檀が待っていた。
弓を背負い、表情はいつもより険しい。
「お待ちしていました」
「中は」
「蔵人同士が激しく言い争っています。火入れの温度管理が、何度確認してもずれるそうです」
「機械の故障?」
「検査済みです。異常なし」
真響が蔵の白壁を見た。
「熱が、怒りを食っている」
蒼麻は顔をしかめる。
「怒り?」
「朱は、燃やす。温める。照らす。だが、荒れれば焼く」
その時、蔵の中から怒鳴り声が響いた。
「だから温度を上げすぎるなって言っただろ!」
「俺のせいにするな! 指示したのはそっちだ!」
「このままじゃ全部駄目になるんだぞ!」
「だったら最初から無理な仕込みをしなきゃいいだろ!」
蒼麻は息を吐いた。
「空気が悪すぎる」
檀が頷く。
「普段は穏やかな蔵だそうです」
「今は?」
「全員が焦っています」
真響は低く言った。
「焦りは火種になる」
蔵の中は、暑かった。
実際の温度以上に、肌が焼けるような不思議な熱感がある。
火入れ室では、酒を低温加熱する設備が赤く光っていた。
機械の表示は正常。
だが、蒼麻には見えていた。
酒の表面に、薄い朱の狐火が浮いている。
火は美しい。
朱色。
紅色。
金色を少し含んだ火。
それは酒を壊そうとしているようには見えなかった。
むしろ、必死に何かを伝えようとしている。
だが、周囲の怒りと焦りを吸って、どんどん火力を増している。
蔵元の若い社長が、蒼麻たちに頭を下げた。
「神代さんですね。すみません、蔵がこんな状態で」
「何があったんですか」
「新しい火入れの試験をしていました。品質を安定させるために、神代酒造流通の助言で新しい設備を入れたんです」
蒼麻は眉を寄せた。
「また神代酒造流通か」
檀が小声で言う。
「菖蒲様系統の関与があるかもしれません」
真響は火を見つめる。
「いや、今回はそれだけではない」
「違う?」
「火そのものが、何かに怒っている」
その言葉と同時に、朱の狐火が一斉に揺れた。
火の中に、狐の影が映る。
黒狐とは違う。
白狐とも違う。
熱く、鮮やかで、今にも飛び出しそうな朱の狐。
蒼麻の胸の奥が反応する。
五柱。
黒、白、朱、蒼、黄。
真響が低く言った。
「見るな」
「もう見えてる」
「なら、呑まれるな」
朱の狐影が、蒼麻を見た。
――熱が足りない。
声は若く、苛烈だった。
――守ると言いながら、冷やしている。
――整えると言いながら、火を殺している。
――酒は生きているのに。
蒼麻は眉を寄せた。
「火を殺してる?」
社長が青ざめる。
「まさか、設備のことですか」
蔵人の一人が怒鳴る。
「だから言ったんだ! 昔のやり方を全部捨てるような真似は――」
別の蔵人が返す。
「でも安定しなきゃ定期的な出荷ができないだろ!」
「数字ばかり見て酒を見てないんだよ!」
「感覚だけで蔵が守れるか!」
怒りが、また火に吸われる。
朱の狐火が大きくなる。
酒が、熱を持ちすぎる。
蒼麻は手を伸ばそうとして、止まった。
火入れの工程は繊細だ。一気に温め、狙った温度に達した段階で急冷していく。
ここで乱暴に止めれば、酒そのものを壊す。
真響が言う。
「火を消すな」
「分かってる」
「今回は、消せば負けだ」
檀が弓を構える。
「では、火の輪郭を固定します」
矢が放たれる。
札を結んだ矢が、火入れ室の四隅に刺さる。
結界が張られる。
朱の狐火は暴れたが、広がりは止まった。
蒼麻は社長を見る。
「この加温急冷設備、誰が勧めたんですか」
「神代酒造流通の担当です。品質管理のためには必要だと」
「現場は納得してた?」
社長は黙った。
それが答えだった。
杜氏らしき年配の男が、低く言う。
「必要なのは分かる。だが、酒を見る前に数字を見ろと言われた」
若い蔵人が言う。
「でも、出荷事故を出せば蔵が終わるんです。安定しない酒は売れない」
「どちらも間違ってないな」
蒼麻は呟いた。
真響が横目で見る。
「だから厄介だ」
朱の狐影が再び叫ぶ。
――怒れ。
――燃やせ。
――冷たい管理に従うな。
――火を奪われるな。
――情熱を捧げろ。
蒼麻は朱の狐影を見る。
「それは、酒を守る怒りか」
狐影が止まる。
「それとも、怒りたいだけか」
火が揺れる。
真響が少しだけ蒼麻を見る。
檀も矢を構えたまま、反応を待つ。
蒼麻は続けた。
「怒るのは悪くない。五行思想でも火がなければ酒も動かない。けど、怒りで酒を焼いたらダメになるだろ」
朱の狐影が唸る。
――なら、どうする。
「火を殺さず、火を暴れさせない」
――できるのか。
「知らない」
真響が小さく言う。
「また専門外か」
「酒は専門寄りだ」
「なら、やれ」
蒼麻は少し笑った。
「適当な信頼だな」
「信頼とは言っていない」
「はいはい」
蒼麻は赤ペンを取り出した。
だが、火には線を引かない。
設備にも、酒瓶にも引かない。
彼は、火入れ温度の記録表を見た。
そこには、数字が並んでいる。
温度。
時間。
ロット番号。
そして余白に、杜氏の小さなメモがあった。
香り、まだ硬い。
火を入れるには少し早い。もう少し引っ張れる。
その横に、若い蔵人のメモ。
出荷日程上、逆算して今日が限界です。
蒼麻は息を吐いた。
「ここだな」
「何が」
社長が聞く。
「酒の都合と、人間の都合がぶつかってる」
真響が低く言う。
「火はそこに出た」
蒼麻は赤ペンで、二つのメモの間に線を引いた。
消す線ではない。
つなぐ線。
「火は怒りへ。怒りは言葉へ。言葉は場へ戻れ」
朱の火が揺れる。
「感覚を捨てるな。数字を敵にするな。酒を見ろ。人も見ろ」
記録表の赤い線が光る。
社長が、はっと息を呑んだ。
杜氏が、若い蔵人を見る。
若い蔵人も、目を逸らせなくなる。
蒼麻は言った。
「もう一度、酒を見てください。数字じゃなくて。言い争いでもなくて」
杜氏がゆっくりタンクへ近づく。
若い蔵人も並ぶ。
二人で香りを確かめる。
長い沈黙。
杜氏が言った。
「……まだ早い」
若い蔵人は、拳を握った。理解できる。
「でも、出荷日に間に合わなくなりますよ!」
「なら出荷をずらす」
社長が言った。
蔵人たちが一斉に社長を見る。
社長は顔色が悪いまま、それでも言った。
「このまま火を入れて思った通りの酒にならない方が怖い。取引先には私が頭を下げる」
杜氏が目を伏せた。
若い蔵人も、ようやく息を吐いた。
「すみません。俺、間に合わないどうしようって焦ってました」
杜氏は首を振る。
「お前は真面目だからな。全体を見てくれていたからだな。俺も怒りすぎた、すまん」
朱の狐火が、少しだけ小さくなる。
しかし、完全には消えない。
火は、まだそこにある。
真響が言う。
「消す必要はない」
蒼麻は頷いた。
「火入れが終わるまで、ここにいてもらうか」
「朱に見張られる蔵か」
「贅沢だな」
「危険でもある」
朱の狐影が、蒼麻を見た。
――酒を焼かぬなら、見ていてやる。
蒼麻は少し笑った。
「なんか偉そうな狐だな」
真響が淡々と言う。
「朱はだいたい偉そうだ」
その瞬間、朱の狐火が真響の方へ跳ねた。
真響は黒い狐火で受け止める。
「本当のことだろう」
朱の火がぱちぱちと爆ぜる。
まるで怒っているようで、少し笑っているようでもあった。
蒼麻はその光景を見て、思わず言った。
「仲悪いけど、仲間なんだな」
真響の目が少しだけ鋭くなる。
「近い関係だと言ったのだ」
「はいはい」
朱の狐火は、タンクの上で小さく揺れた。
怒りではなく、見張る火として。
紅谷酒造の夜は、少しだけ穏やかになった。
蔵人たちは、改めて仕込みと火入れの予定を見直した。
神代酒造流通への出荷日程も変更することになった。
檀はその場で担当部署へ連絡を入れていた。
「菖蒲系統の圧力があったか、確認します」
「また菖蒲ですか」
「ただし今回は、菖蒲様本人というより、現場担当が数字を優先しすぎた可能性もあります」
「どっちにしても厄介ですね」
「はい」
檀は淡々と頷いた。
「ただ、今回の本当の火種は蔵の中にありました。外圧だけなら、朱の先触れはここまで反応しなかったはずです」
真響も同意した。
「朱は、内側の火に寄る」
蒼麻は火入れ室を見る。
朱の狐火が、まだ小さく灯っている。
「紅沙って、こういう感じなのか」
真響の表情が少しだけ変わった。
「名を知っているのか」
「朱狐・紅沙。前に聞いた」
「軽々しく呼ぶな」
「ごめん」
真響はしばらく黙った。
「紅沙は、怒る。よく燃える。だが、冷たいものを憎んでいるわけではない」
「じゃあ何を?」
「火を忘れることだ」
蒼麻は、火入れ室の温度計を見た。
数字。
必要なものだ。
でも、数字だけでは酒は見えない。
「怒りも、必要なんだな」
「必要だ。だが、酒を焼く怒りはいらぬ」
「難しいな」
「だから人間はよく焦がす」
「人間への評価よ」
帰り際、紅谷酒造の社長が蒼麻たちを見送った。
「ありがとうございました。出荷は遅れますが、酒の品質は高めたまま守れそうです」
蒼麻は頷いた。
「守るって、たぶん遅らせることも入るんですね」
社長は少しだけ笑った。
「そうですね。今まで、早く出して回収することばかり考えていました」
杜氏と若い蔵人も頭を下げた。
その背後で、朱の狐火がひとつだけ灯る。
火は、酒を焼かなかった。
ただ、蔵の梁の上で静かに揺れていた。
蒼麻はそれを見て言った。
「また火が強くなったら、話し合ってください」
若い蔵人が苦笑する。
「火に叱られる前に、ですね」
真響が言った。
「火に叱られると面倒だぞ」
「経験者?」
蒼麻が聞くと、真響は目を逸らした。
「……朱は昔から声が大きい」
蒼麻は笑った。
「やっぱり仲間じゃないか」
「近いと言った」
「はいはい」
檀が、そのやり取りを静かに見ていた。
「五柱が近づいていますね」
蒼麻は顔をしかめる。
「嫌な言い方ですね」
「事実です」
真響も否定しなかった。
黒狐。
白狐。
朱狐。
次第に、五柱の気配が蒼麻の周囲へ集まり始めている。
それが偶然でないことは、もう分かっていた。
和灯に戻ると、蓮二が冷やしすぎない酒を用意していた。
「火の案件って聞いたから、今日は常温」
蒼麻は少し笑った。
「完璧だな」
「小料理屋だからな」
真響が頷く。
「よい判断だ」
蓮二は少し誇らしげだった。
蒼麻は盃を持つ。
今日の酒は、穏やかな温度だった。
冷たすぎず、熱すぎず。
ちょうどいい。
「怒りも、これくらいで扱えたらいいんだけどな」
蒼麻が呟くと、真響が言った。
「お前は、怒りを薄めすぎる」
「そうか?」
「そうだ」
蓮二も頷く。
「たまにね」
「店主まで」
真響は盃を置く。
「怒りは火だ。消しすぎれば冷える。燃やしすぎれば焦げる」
蒼麻は苦笑した。
「今日のまとめみたいだな」
「覚えておけ」
「はいはい」
「軽い」
「覚えておくよ」
真響は蒼麻を見た。
少しだけ、柔らかい目だった。
「ならよい」
外では夜風が吹いていた。
蝋梅の香りの奥に、ほんのかすかに朱い火の匂いが混じっている。
黒は抱える。
白は洗う。
朱は燃やす。
どれも、救いであり、危うさでもある。
蒼麻は酒を飲んだ。
常温の酒は、静かに喉を通った。
熱すぎず、冷たすぎず。
今夜の彼には、それがちょうどよかった。




