第二十九話 竜胆の残り香
水守酒造から戻った翌日。
和灯には、月影様へ供えた分け酒の小瓶が置かれていた。
蓮二はそれをしばらく眺めてから、静かに言った。
「これは、簡単には開けにくいな」
「だろ」
蒼麻も同じことを思っていた。
売り物ではない。
祝い酒でもない。
ただ、蔵と黒狐月影様の間に戻り始めた約束の、ほんの分け前。
気軽に飲むには、少し重い。
真響はいつもの席で、盃を見ていた。
「ならば、今夜は開けるな」
「珍しく酒を急かさないな」
「待つべき酒もある」
蓮二が少し笑う。
「いい言葉だな」
真響は涼しい顔で言った。
「当然だ」
その時、和灯の戸が開いた。
入ってきたのは、神代檀だった。
背筋の伸びた立ち姿。
落ち着いた目。
ただし、今日はいつもより表情が硬い。
「蒼麻さん」
「また案件ですか」
「はい」
「最近、挨拶が案件になってきましたね」
檀は否定しなかった。
「今回は、神代竜胆に関わる可能性があります」
その名で、店の空気が変わった。
真響がゆっくりと檀を見る。
「竜胆」
蓮二も、空気の変化だけは感じたらしい。
「また危なそうな名前だな」
蒼麻は眉を寄せた。
「竜胆って、たしか遮光陽の退魔組織の黒幕とか言われてる人でしたっけ」
檀は頷いた。
「長年、大石陽一郎の偽名で活動していた人物です。単独行動が多く、一族内でも把握しきれていません」
「味方なんですか、敵なんですか」
「分かりません」
即答だった。
「神代、そういう人多くないですか」
「多いです」
真響が静かに言う。
「その男の気配が残った場所で、何が起きた」
檀は蒼麻へ一枚の写真を差し出した。
古いビルの地下。
祭壇のようなもの。
破れた御札。
そして、壁一面に黒い血管のような紋様が広がっている。
「退魔済みの現場です」
「済み?」
「はい。怪異は祓われたはずでした」
檀の声が硬くなる。
「しかし、祓った術者の方へ穢れが戻りました」
蒼麻は写真を見る。
黒い血管の紋様。
どこか、竜胆の左首にあるという腐敗網の痕に似ている。
「反転したのか」
真響が言った。
檀は頷く。
「神降しの秘儀を反転させる呪法。その残り香です」
蒼麻は思わず額を押さえた。
「また難しいやつが来たな」
「放置すれば、祓うほど術者が壊れます」
「最悪ですね」
「はい」
真響は立ち上がった。
「行くぞ」
蒼麻は真響を見る。
「早いな」
「反転の呪は、遅れるほど根を張る」
檀も頷いた。
「現場はすでに封鎖しています。ですが、長くは保ちません」
蓮二が黙って、握り飯を握り始めた。
蒼麻はそれを見て、少しだけ笑う。
「もう何も言わないんだな」
「言っても行くんだろ」
「行く」
「じゃあ持っていけ」
真響が当然のように包みを受け取る。
「これは半分私のものだ」
「まだ渡してないぞ」
「今わたしが決めた」
檀が、少しだけ不思議そうに二人を見た。
「本当に、和灯は作戦本部なのですね」
蓮二が真顔で言う。
「小料理屋です」
現場は、神田の外れにある古い雑居ビルだった。
表向きは廃業した占いサロン。
だが地下には、怪異を利用した呪具の売買と、半端な退魔術を使う集団の痕跡が残っていた。
神代の者が一度入り、すでに怪異は祓われた。
そう聞いていた。
しかし地下へ降りると、蒼麻はすぐに分かった。
「……祓えてないな」
真響が頷く。
「祓ったものが、逆流している」
地下室の壁には、黒い血管のような線が広がっていた。
床には焼け焦げた御札。
中央には割れた鏡。
その鏡の破片に、人の顔がいくつも映っている。
祓った術者たちの顔だ。
彼らの顔は苦痛に歪み、黒い靄を吐いていた。
檀が説明する。
「術者三名が現在昏睡状態です。身体に穢れが戻り、祓ったはずの怪異の症状が本人に出ています」
「祓えば祓うほど、自分に返る」
蒼麻は呟いた。
「嫌な術だな」
部屋の奥で、かすかな声がした。
――清めろ。
――祓え。
――捨てろ。
――返れ。
黒い線が床を這い、蒼麻の足元へ伸びてくる。
真響の狐火がそれを焼き止めた。
「触るな」
「分かってる」
「分かっていない声だ」
「今回は分かってる」
檀は弓を構える。
「核を探します」
「見えるんですか」
「射線があれば」
檀の矢が放たれる。
札を結んだ矢が、壁の黒い血管の一点を射抜いた。
そこから、黒い液体のようなものが滲み出る。
しかし、その液体は矢を伝って逆流しようとした。
檀はすぐに弦を切るように指を弾く。
矢に結ばれた札が燃え、逆流を遮断した。
蒼麻は思わず言う。
「今の、かなり危なかったですね」
「はい」
「平然と答えるのやめてもらえますか」
「慌てると射線が乱れるので」
真響が低く言う。
「良い弓手だ」
檀は軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
蒼麻は床の赤黒い紋様を見る。
「これは、竜胆さん本人の術なんですか」
檀は少しだけ沈黙した。
「分かりません。ただ、竜胆様の反転術に似ています」
「また似ている案件か」
「神代は、痕跡を偽装します」
真響が言う。
「だが、これは完全な偽装ではない」
蒼麻は真響を見る。
「どういうことだ」
「術の癖がある。真似た者なら、竜胆をかなり近くで見ている」
檀の表情が険しくなる。
「竜胆様の関係者、もしくは、竜胆様を追っている者」
「本人が仕掛けた可能性は?」
蒼麻が聞くと、檀は少しだけ目を伏せた。
「あります。ですが、竜胆様なら、もっときれいに隠します」
「神代一族に“きれいに隠す”概念が多すぎる」
「否定できません」
その時、割れた鏡が一斉に鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
そして、鏡の中から黒い人影が出てきた。
人型。
だが、顔はない。
首筋に黒い腐敗網のような紋がある。
左首から肩にかけて、血管のように広がっている。
竜胆の影。
あるいは、竜胆を模した怪異。
それはゆっくり口を開いた。
――祓うな。
声は低い。
――祓えば、戻る。
――捨てれば、返る。
――清めれば、汚れる。
蒼麻は眉を寄せた。
「何が言いたい」
影は笑ったように揺れた。
――穢れは、誰かが持つ。
――祓うとは、持つ者を変えること。
檀が矢を番える。
「詭弁です」
影が檀を見る。
――では、祓った後の穢れはどこへ行く。
檀の手が、ほんのわずかに止まった。
真響が言う。
「揺れるな」
檀は息を整える。
「はい」
蒼麻は影を見る。
「お前、本物じゃないな」
影が止まる。
「竜胆さん本人なら、そんな言い方しない気がする」
――何を知る。
「何も知らない」
蒼麻は素直に言った。
「でも、これは問いかけというより、試してる言い方だ」
影の輪郭が歪む。
「祓いは穢れを消すのか。誰かへ移すだけなのか。そういう問いを、誰かにぶつけたいんだろ」
真響が少しだけ蒼麻を見る。
檀も同じだった。
蒼麻は続ける。
「で、俺に試させてる」
影が笑う。
――戻す者。
――なら、穢れも戻せ。
黒い線が一斉に蒼麻へ伸びる。
真響の狐火が走る。
檀の矢が三本同時に放たれる。
黒い線は止まる。
だが完全には消えない。
蒼麻の胸の奥が熱くなる。
九尾狐の欠片の疼きではない。
神降しでもない。
これは、問いに反応している。
戻す。
返す。
だが、穢れをどこへ戻す?
怪異へか。
術者へか。
場所へか。
生まれた原因へか。
「……簡単に戻せるものじゃないな」
真響が言う。
「そうだ。穢れには、行き場がいる」
「行き場」
「沈める場所。焼く場所。流す場所。抱える場所」
蒼麻は真響を見る。
黒狐は、抱える。
だから苦しむ。
白狐は、洗う。
だから危うい。
では、竜胆の反転は?
「穢れを持ち主へ返すんじゃなくて、引き受けた者へ押し戻してるのか」
檀が頷く。
「反転術は、通常の祓いの流れを逆さにします。祓った者が出口になる」
「出口にされた術者が壊れる」
「はい」
蒼麻は鏡を見た。
割れた鏡。
祓ったはずの怪異を映し、術者へ返している。
「鏡が問題か」
真響が頷く。
「鏡が出口だ」
檀が矢を構える。
「射抜きますか」
「割ったらどうなる」
「逆流している穢れが散る可能性があります」
「じゃぁ却下」
蒼麻はため息をつく。
「最近、割るとか祓うとか、却下ばっかりだな」
真響が薄く言う。
「お前らしい」
「褒めてる?」
「少し」
蒼麻は赤ペンを出した。
だが、今回は床に線を引かない。
鏡の破片を一つ拾う。
そこに、黒い顔が映る。
昏睡状態の術者の一人。
苦しげに息をしている。
蒼麻は鏡の縁に、赤く小さな線を引いた。
入口と出口を分ける線。
「祓ったものを、祓った者へ返すな」
鏡が震える。
「戻すべきは、術者じゃない」
影が問う。
――なら、どこへ。
蒼麻は答える。
「原因へ」
部屋の空気が変わった。
黒い血管が一斉に蒼麻へ向く。
「この場所で、誰かが半端な術で怪異を売り物にしてた。欲を煽って、恐怖を売って、祓えるふりをして、穢れを溜めた」
蒼麻は床へ線を引く。
今度は、地下室全体を囲うように。
「場所が抱えるべきものを、術者に押しつけるな」
赤い線が広がる。
「穢れは、ここへ戻れ。
ただし、溜めるためではない。
見える形へ戻れ」
黒い線が、術者たちの鏡像から剥がれていく。
床へ。
壁へ。
中央の割れた鏡へ。
しかし、そこに溜まるだけでは危ない。
真響が黒い狐火を灯した。
「抱えすぎるなよ」
「分かってる」
「本当か」
「たぶん大丈夫」
檀が弓を構えた。
「蒼麻さん、見える形になれば撃ちます」
「お願いします」
黒い血管が、一箇所へ集まる。
割れた鏡の中央。
そこに、小さな黒い血管を纏った種のようなものが現れた。
腐敗網の核。
檀の矢が放たれる。
札の矢は、核を貫いた。
同時に真響の狐火が、核を包む。
蒼麻は最後の線を引いた。蒼麻の瞳に黄金の波紋が走ったが、気づいたものはいない。
「穢れは穢れとして、名を持て。
名を持ったなら、もう人の影へ隠れるな」
蒼麻の声に祝詞の響きが混じり、黒い種が割れた。
中から、濁った煙が上がり、それは人の顔をいくつも作り、叫び声を上げた。
しかしそれは、術者へ戻らなかった。
床の赤い線に沿って、古い排水口へ流れていく。
真響が言う。
「流すな。沈めろ」
「排水口じゃ駄目か」
「水路へ出る」
「じゃあ」
蒼麻は、赤い線を排水口の前で止めた。
そこに、小さく円を描く。
「ここで眠れ」
真響の狐火が、円の中へ沈む。
黒い煙は、その中に吸い込まれていった。
消えたのではない。
眠った。
地下室の空気が、ようやく軽くなる。
鏡に映っていた術者たちの顔が消えた。
檀が端末を確認する。
「昏睡していた術者の脈が安定しました」
「よかった」
蒼麻は息を吐いた。
その瞬間、壁の黒い血管が最後に一文字を作った。
竜
すぐに崩れる。
檀が険しい顔をする。
「竜胆様への誘導かもしれません」
真響が言う。
「あるいは、竜胆本人からの警告かもしれぬ」
蒼麻は床の円を見る。
「どっちにしても、会わないと分からないんだろうな」
「そうだろうな」
「また神代か」
「神代だ」
蒼麻は疲れた顔で言った。
「花の名前が増えるたびに厄介になるな」
檀が少しだけ真面目に答える。
「竜胆は、花というより毒の名でもあります」
「そういう補足はいらないです」
真響は薄く笑った。
「必要な補足ではないか」
その夜、和灯に戻ると、蓮二が何も聞かずに温かい汁物を出した。
「顔が死んでる」
「祓いの反転で精神が削れました」
「日本語なのに何を言ってるか分からない」
「俺も分かりたくない」
真響は席に座り、静かに盃を取る。
「今日の酒は重すぎぬものがよい」
蓮二は頷く。
「軽めの吟醸にするか」
蒼麻はカウンターに突っ伏した。
「竜胆さんって人は何なんだ」
真響が答える。
「神代の中でも、闇に近い場所を歩いている者だろう」
「鬼灯とは違う?」
「鬼灯は闇を担う。竜胆は、闇に入りすぎた」
蒼麻は顔を上げる。
「それ、戻れるんですか」
真響はすぐには答えなかった。
「戻りたいと思っているならな」
「思ってなかったら?」
「沈む」
蓮二が酒を置く。
「じゃあ、戻りたいと思ってる方に賭けたいね」
蒼麻は蓮二を見る。
「軽く言うなよ」
「重く言うと酒がまずくなるんだろ」
蒼麻は少し笑った。
「俺の台詞をマネするな」
真響も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その夜の酒は、確かに軽かった。
けれど、喉を通った後に少しだけ苦みが余韻となって長く残った。
竜胆の残り香。
それは、まだどこかに続いている。




