第二十八話 酒蔵の狐火便り
酒税印の鬼の件から、数日後。
和灯に、一通の手紙が届いた。
差出人は、水守酒造。
蒼麻は封筒を見た瞬間、少しだけ表情を緩めた。
「水守さんか」
蓮二が言う。
「月守の蔵か」
「そう」
真響も、盃を置いた。
「黒狐がいた蔵だな」
「お前、そういうのは覚えていられるのね」
「酒の縁は覚える」
蒼麻は封を切った。
中には、水守社長からの手紙が入っていた。
神代蒼麻様
先日は大変お世話になりました。
あれから蔵では、年に一度だけ月影様へ供えるためだけに「月守」を少量仕込む準備を進めております。
ところが、ここ数日、夜になると蔵の古井戸の周りに黒い狐火が灯ります。
不思議なことに、狐火が灯った翌朝、仕込み水の香りが澄むのです。
これは月影様の御許しなのでしょうか。
それとも、何かの警告なのでしょうか。
一度、ご確認いただけませんでしょうか。
蒼麻は手紙を畳んだ。
「後日談だな」
真響は静かに言った。
「行く」
「早いな」
「月守の話であろう」
「絶対酒目当てだろ?」
「確認だ」
「確認の中に酒が混じってるだろ」
「否定はしない」
蓮二が少し笑った。
「たまには、こういう案件もいいんじゃないか。怖い親戚やら、影の残業やら、酒の鬼やら続いてたし」
「本当にな」
蒼麻は息を吐いた。
「狐火くらいで済むなら、だいぶ平和だ」
真響が横目で見る。
「油断するな」
「分かってる」
「分かっていない声だ」
「最近、もうそれ言いたいだけだろ」
真響は答えなかった。
水守酒造に着いたのは、夕方だった。
長野の山あいにある蔵は、前に訪れた時よりも少しだけ明るく見えた。
仕込み蔵の白壁。
古い杉玉。
冷たい水の匂い。
水守社長と塩尻杜氏が、蔵の前で待っていた。
「神代さん、真響さん。よく来てくださいました」
蒼麻は軽く頭を下げる。
「狐火が出るとの事でしたね」
水守社長は頷いた。
「はい。夜になると、古井戸の周りにぽつぽつと。誰も火をつけていないのに、黒く揺れる火が灯るんです」
「黒い火?」
「ええ。怖いというより、静かで……どこか、見守られているような」
真響は蔵の奥を見た。
「案内しろ」
「はい」
古井戸は、蔵の裏手にあった。
月守の仕込みに使われていた井戸。
かつて封じられ、忘れられ、月影様との縁が閉じかけていた場所。
今は、井戸の周囲がきれいに掃き清められていた。
小さな祠も修繕されている。
供えられているのは、酒と塩と米。
蒼麻は少しほっとした。
「ちゃんと祀ってるんですね」
水守社長は真面目に頷いた。
「はい。販売用ではなく、まず月影様へ供えるために戻す。そう決めましたから」
真響は祠の前に立った。
しばらく黙っている。
やがて、静かに言った。
「悪くない」
水守社長の顔が少し明るくなる。
蒼麻は小声で言う。
「かなり褒めてます」
真響が睨む。
「余計な解説をするな」
塩尻杜氏がほっとしたように笑った。
「では、狐火はお怒りではないのでしょうか」
真響は井戸を見た。
「怒りではない」
「では」
「知らせだ」
蒼麻が眉を上げる。
「何の?」
真響は井戸の縁に指を置いた。
「水が起きている」
その言葉と同時に、井戸の奥から冷たい風が上がった。
水の匂い。
前に感じたものとは違う。
古い記憶を引きずる重さは薄くなり、代わりに、静かな張りのある気配。
まるで、長く眠っていた水が、目を覚まして深呼吸しているようだった。
「月守を仕込める状態に近づいている」
真響が言った。
水守社長が息を呑む。
「本当ですか」
「ただし、まだ早い」
「早い?」
「水だけが起きても、蔵の気が追いつかぬ。人の方が急げば、また酒が過去を引く」
蒼麻は、弥一郎が月守を封じた理由を思い出した。
美しすぎる酒。
亡き者の声を聞かせる酒。
過去へ人を引き戻す酒。
「焦るな、ということか」
「そうだ」
真響は祠を見た。
「狐火は、急かしているのではない。境目を示している」
その時、夕暮れの空が一段暗くなった。
井戸の周りに、小さな火が灯った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
黒い狐火。
燃えているのに、熱はない。
火なのに、水面のように揺れる。
水守社長と塩尻杜氏が息を呑む。
蒼麻も、しばらく見入った。
狐火の中に、小さな影が映った。
黒い狐。
月影様。
完全な姿ではない。
けれど、そこにいる。
真響は静かに目を伏せた。
蒼麻はその横顔を見た。
「真響」
「何だ」
「月影様と、お前は違うんだよな」
「違う」
少し間を置いて、真響は続けた。
「だが、黒狐として響き合うことはある」
「響き合う」
「黒は、抱える。忘れられたものを腐らせずに眠らせる。沈める」
蒼麻は祠を見る。
「深宵とも違う?」
真響は少しだけ目を細めた。
「黄狐の名を、なぜここで出す」
「何となく。眠らせるって聞くと、深宵っぽい気がして」
「黄は、土に還す。黒は、夜に沈める」
「なるほど。似てるけど違うのか」
「曲がった理解をするなよ」
「けっこう頑張ってるぞ」
真響は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
狐火が揺れた。
まるで笑ったように。
その夜、水守酒造では小さな試しの儀が行われた。
仕込みではない。
井戸の水を一椀だけ汲み、月影様の祠へ供える。
その横に、前回仕込まれた水守の月を一杯。
水守社長が手を合わせる。
塩尻杜氏も深く頭を下げた。
蒼麻はその後ろで、静かに見ていた。
真響は祠の正面に立つ。
「月守を売るな」
水守社長が頷く。
「はい」
「名だけを使うな」
「はい」
「美しい酒に溺れるな」
塩尻杜氏が、強く頷いた。
「肝に銘じます」
真響は少しだけ目を伏せた。
「ならば、待て」
その言葉で、狐火が一斉に揺れた。
井戸の水面が、静かに光る。
蒼麻の胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
神降しの熱ではない。
九尾狐の欠片の疼きでもない。
酒が、正しく祀られる気配。
それは、不思議と気持ちがよかった。
「……いいな」
蒼麻が呟く。
真響が横目で見る。
「何が」
「売るためじゃなくて、供えるために酒を戻すっていうのは」
「珍しく神職らしいことを言う」
「やめろ。むず痒い」
「事実だ」
蒼麻は苦笑した。
水守社長が、遠慮がちに言った。
「神代さん。もしよろしければ、少しだけ試飲を」
蒼麻は真響を見る。
真響は言った。
「飲む」
「即答だな」
「確認だ」
「便利な言葉だ」
試飲室に移り、水守の月が注がれた。
今回の狐火の後に汲んだ水で仕込んだものではない。
だが、蔵の空気が変わったせいか、前より少し澄んで感じられた。
蒼麻は盃を持つ。
香りを確かめる。
静かな月のような香り。
ひと口飲む。
「ああ」
思わず声が出た。
「前より、落ち着いてる」
塩尻杜氏が嬉しそうに目を細める。
「分かりますか」
「分かる気がします」
「気がします、でいいんです」
水守社長が微笑む。
「そのくらいが、酒にはちょうどいい」
真響も盃を傾けた。
しばらく黙って味わう。
「よい」
水守社長と塩尻杜氏が、同時にほっと息を吐いた。
蒼麻は笑った。
「最高評価出ましたね」
「余計なことを言うな」
真響は盃を置いた。
「月影は、まだ見ている。急げば、すぐに閉じる」
水守社長は真剣に頷く。
「年に一度。祠へ供えるためだけに、少量。そこは変えません」
「なら、狐火は便りであり続ける」
「便り……」
蒼麻はその言葉を繰り返した。
酒蔵の狐火便り。
怒りでもなく、呪いでもなく。
忘れられた約束が、少しずつほどけていく合図。
それは、今の水守酒造にとって、きっと悪いものではない。
帰り際。
水守社長が、一本の小瓶を差し出した。
「これは販売していないものです。月影様へ供えた酒の、ほんの分け酒です」
蒼麻は受け取るのをためらった。
「いいんですか」
「神代さんと真響さんには、受け取っていただきたいのです」
真響が瓶を見る。
「供えを分けるなら、粗末にできないな」
「もちろんです」
蒼麻は小瓶を受け取った。
冷たいガラスの感触。
その中に、月のような酒の気配が静かに揺れている。
「和灯で飲むか」
蒼麻が言う。
真響は頷く。
「蓮二の肴なら、受けてもよい」
「信頼されてるな、蓮二」
「店はな」
「俺は?」
真響は少しだけ考えた。
「……供え酒を雑に扱わぬ程度には信頼している」
「基準が独特だな」
「褒めている」
「それ、褒めてるのか?」
狐火が、井戸の周りでひとつだけ揺れた。
黒く、静かに。
蒼麻は振り返る。
「また来ます」
誰にともなく言った。
真響も、ほんの少しだけ目を伏せた。
狐火は、夜の中に消えた。
そして蔵には、水と米と、待つ時間の匂いだけが残った。




