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第二十七話 酒税印の鬼

影踏み監査の翌日。


蒼麻は和灯で、神代(まゆみ)から聞いた言葉を反芻していた。


――鬼灯(ほおずき)様が直接仕掛けたとは限りません。

――ですが、鬼灯様なら止められたはずです。


「止められたのに止めなかった、か」


蒼麻が呟くと、蓮二が燗酒を置いた。


「嫌な大人のやり方だな」


「神代って大体そう」


「麻那ちゃんも?」


「麻那は、まだ怒ってくれるからまし」


真響が隣で静かに盃を傾ける。


「怒り方を忘れた者ほど、厄介な策を弄する」


「神代の評価、毎回辛口だな」


「事実だ」


そこへ、店の戸が開いた。


入ってきたのは、篠崎圭吾(しのざき けいご)だった。


「レンジィィ、今日はライスフィールドサケある?」


「田酒な」


蓮二が即答する。


「惜しい」


「惜しくない」


圭吾はいつもの調子で笑おうとした。

だが、顔色が悪い。


蒼麻は眉を上げる。


「圭吾さん、もしかしてまた変な案件ですか」


「いやぁ……変というか、酒が絡んでくるというか」


真響の目がすっと細くなる。


「酒を雑に扱ったな」


「俺じゃない! 今回は俺じゃない!」


圭吾は慌てて手を振った。


「神代酒造流通の案件。希少酒の流通整理とブランド保護の仕事で、うちも少し関わってるんだけどさ」


蒼麻は嫌な予感がした。


「酒蔵の名前を使った商売ですか」


「かなり、やばい」


圭吾は鞄から一本の酒瓶を取り出した。


見たことのある有名銘柄。

だが、ラベルの端に赤黒い印が浮かんでいる。


酒税証紙のようにも見える。

だが、よく見ると、鬼の顔だった。


角。

牙。

朱肉のような目。


蓮二の顔が険しくなる。


「何だ、この怖いマーク」


圭吾が小声で言う。


「この印が浮いた酒を飲んだ人が、異様に怒りっぽくなる。しかも、蔵元じゃなくて転売業者や中間業者に金が流れるほど、印が濃くなる」


蒼麻は瓶を見た。


酒そのものは悪くない。


だが、瓶の周りにまとわりつく気配が悪い。


金。

転売。

希少価値。

偽装ラベル。

蔵元への圧力。

数字だけで酒を動かす匂い。


「……酒税印(しゅぜいいん)の鬼」


真響が低く言った。


「税ではない。(むさぼり)りの(しるし)だ」


ちょうどその時、蒼麻のスマートフォンが震えた。


麻那ではない。


表示された名前は、神代(まゆみ)


『神代(まゆみ)です。神代酒造流通の倉庫で異常が出ています』


「今、圭吾さんから聞きました」


『早いですね』


「最近、怪異の方から和灯に来るんですよ」


『和灯を監視対象にした方がよさそうですね』


「やめてください」


(まゆみ)の声は冷静だった。


『今回の案件、鬼灯様の系統ではありません。別の神代が動いている可能性があります』


「別の?」


『神代酒造流通を支配したい派閥です。酒の流れを押さえれば、土地の気脈と御神酒の流れにも触れられる』


蒼麻の声が低くなる。


「酒を利用してるのか」


『はい。あなたを試す意味もあると思われます』


蒼麻は瓶の鬼印(おういん)を見た。


「趣味が悪い」


『同感です』


檀は少し間を置いた。


『私も現場へ向かいます。必要なら援護します』


「弓で?」


『はい。遠くから撃つ方が得意なので』


「頼もしいですね」


『近くで喋る方は苦手です』


「それも頼もしいです」


電話を切る。


蒼麻は立ち上がった。


真響も当然のように盃を置く。


蓮二が言った。


「行くんだな」


「酒が絡んでるので」


「だろうな」


蓮二は小さな包みを差し出した。


「辛子明太子おにぎり」


「母親か」


「小料理屋の店主です」


真響がそれを受け取る。


「良い判断だ」


蒼麻が見る。


「俺のだぞ」


「半分は私のだ」


「いつから?」


「今から」


圭吾がぽつりと言う。


「仲良いよね」


真響が即座に言う。


「違う」


蒼麻は苦笑した。


「否定早いな」


神代酒造流通の倉庫は、湾岸エリアにあった。


巨大な物流施設。

温度管理された酒類保管庫。

トラックの搬入口。

無数の段ボールと木箱。


表向きは、全国の酒蔵から集められた日本酒を保管し、飲食店や小売店へ出荷する施設。


だが、蒼麻には見えた。


酒瓶一本一本に、細い流れがある。


米の土地。

水の土地。

蔵の空気。

蔵人の手。


それぞれ違う気配が、瓶の中に残っている。


だからこそ、混ぜてはいけないものがある。


雑に扱えば、酒だけでなく土地の縁まで濁る。


倉庫の奥で、檀が待っていた。


神代檀。


監査部責任者。

背筋の伸びた女性。

落ち着いた目。


手には、細身の弓。


弦には、札を結んだ矢が番えられている。


「来ましたね」


「弓、本当に持ってきたんですね」


「飾りではありません」


檀は淡々と答えた。


「鬼印は奥の第七保管庫に集中しています。希少酒、限定流通品、海外向け高額銘柄が多い」


蒼麻は顔をしかめた。


「値段が高い酒ばかり?」


「はい」


圭吾が小声で言う。


「転売市場で跳ねるやつばっかりだね」


真響が言う。


「酒の名を金の札にしたな」


「うまいこと言うな」


「褒めるな。腹立たしい」


第七保管庫に入ると、空気が熱かった。


冷蔵管理されているはずなのに、妙な熱気がある。


棚に並ぶ酒瓶のラベルに、赤黒い鬼印が浮かんでいた。


一つ。

二つ。

十。

百。


鬼印が、じわじわと瓶の首元へ広がっている。


その中心に、一体の怪異がいた。でかい。


朱肉のような肌に酒瓶を纏ってできた鬼。

札束のような舌。

胸と両肩には酒税印めいた赤い紋様。


鬼は酒瓶を抱え、低く笑っていた。


――値がつく。

――名がつく。

――希少となる。

――飲ませるな。

――飾れ。

――吊り上げろ。

――蔵の名を貼れ。

――中身は問うな。


蒼麻の顔から表情が消えた。


「……ふざけやがって」


麻那や真響は、蒼麻の怒りを何度も見ている。


だが、檀と圭吾は初めてだった。


圭吾が小さく呟く。


「蒼麻くん、静かに怒るタイプなんだな」


檀が矢を構える。


「静かな怒りの方が怖いですよ」


真響は、どこか満足げに言った。


「これは正しい怒りだ」


酒税印の鬼が蒼麻を見る。


――酒は売るもの。

――名は価値。

――価値は値。

――高く売れれば、酒は偉くなるのだ。


蒼麻は一歩前に出た。


「酒を偉くするのは値段じゃない」


鬼が笑う。


――では何だ。


「蔵だ」


蒼麻の声が倉庫に響く。


「米、水、麹、酵母、蔵人、土地、時間。フィロソフィ。それを飲む人間がどう受け取るか」


鬼が舌を鳴らす。


――面倒だ。

――数字でよい。


「数字だけで酒を回すな」


鬼印が一斉に赤く光る。


棚の酒瓶が震える。


いくつかのラベルが剥がれ、別の銘柄名へ変わろうとする。


偽装。


貼り替え。


蔵の名だけを奪う行為。


蒼麻が赤ペンを取り出す。


だが、その前に檀の矢が放たれた。


札を結んだ矢が剥がれかけたラベルにかすめると、ピシュッと音がしてぴたりと止まる。


檀は二本目を放つ。


三本目。


矢は酒瓶には当たらない。

鬼印だけをかすめていく。


「すごいな」


圭吾が呟く。


檀は淡々と答える。


「酒瓶は割れ物ですから」


「そこ?」


「重要です」


真響が黒い狐火を灯す。


「蒼麻、鬼の本体は印ではない」


「どこだ」


「流れだ」


蒼麻は棚を見る。


鬼印の濃い瓶から、細い線が伸びている。


転売業者。

不正な卸。

偽装ラベル業者。

そして、神代酒造流通の内部端末。


その先に、ひとつの印。


花の意匠。


檀が眉をひそめる。


「これは……神代菖蒲(あやめ)の系統」


「菖蒲?」


麻那から聞いたことはない。


檀が答える。


「水と流通分野に強い方です。神代酒造流通の一部と深く繋がっています」


「つまり、今回の仕掛けは鬼灯じゃなくて菖蒲?」


「断定はできません」


檀の声は冷静だが、硬い。


「ただ、この印は菖蒲様系統の流通術式に似ています」


真響が低く言った。


「神代は、花の名で泥を隠すのが好きだな」


蒼麻は鬼を見た。


「誰が仕掛けたかは後で聞くことにする」


赤ペンを走らせる。


床に線を引く。


酒瓶と蔵の名を結ぶ線。

蔵の名と土地を結ぶ線。

土地と飲む人を結ぶ線。


価格へ向かう線ではない。


本来の流れへ戻す線。


「酒の名は、値札じゃない」


赤い線が光る。


蒼麻の声にはいつもとは違う気迫が伴っていた。


「蔵の名を貼り替えるな。

土地の気を横取りするな。

飲むための酒を、飾るだけの餌にするな」


酒税印の鬼が悲鳴を上げる。


だが、鬼はまだ笑っていた。


――飲む者も欲しがる。

――希少を欲しがる。

――高値を喜ぶ。

――人も同じ。


蒼麻は黙った。


それは事実だった。


希少酒をありがたがる気持ち。

手に入らないものを欲しがる欲。

高値がつくほど価値があると感じる心。


それは怪異だけのせいではない。


人間側にもある。


「そうだな」


蒼麻は言った。


鬼が揺れる。


「人も悪い。欲しがる側も、煽る側も、乗る側も悪い」


圭吾が少し顔を伏せた。


広告屋として刺さっているらしい。


蒼麻は続ける。


「でも、だからって酒を壊していい理由にはならない」


真響が静かに頷く。


檀が矢を番える。


「蒼麻さん、鬼の核が出ます」


鬼の胸の酒税印が割れた。


中に、小さな朱い鬼面。


檀の矢が放たれる。


矢は鬼面の額を正確に射抜いた。


同時に、蒼麻の赤い線が鬼の足元を囲む。


「税は税へ。印は印へ。名は名へ。酒は酒へ」


声に、わずかに祝詞の響きが混じる。


「貪りの印は、酒から離れろ」


鬼が崩れる。


赤黒い印が、次々と瓶から剥がれ落ちる。


床に落ちた印は、小さな鬼の面になり、黒い煙を上げて消えた。


保管庫の熱が引いていき、冷たい空気が戻っていく。


酒瓶は、静かに棚に並んでいた。


それぞれの名前を取り戻したように。


作業を終えた後、檀は端末を確認していた。


「不正流通の経路が浮きました。偽装ラベル業者、転売網、横流しの内部協力者。かなり広いですね」


圭吾が青ざめる。


「これは広告資料どころじゃないな」


「あなたにも証言していただきます」


「はい……」


蒼麻は棚の酒を見る。


「蔵元には?」


檀は頷いた。


「連絡します。神代酒造流通として、謝罪と補償が必要です」


「お願いします。しっかりやってください」


「もちろん」


蒼麻は檀を見る。


「この案件、誰かが俺に当てたんですよね」


「その可能性が高いです」


「酒絡みで俺がどう怒るかをみたってことですか」


檀は少しだけ目を細めた。


「それもあるでしょう。加えて、あなたが酒を“土地の気脈のコネクター”としてどう扱うかを見たかったのかもしれません」


真響が言う。


「悪趣味だ」


「同感です」


檀は弓を収めた。


「ただ、今回の仕掛け人は読み違えました」


「何を」


檀は蒼麻を見る。


「あなたは酒を神聖視しているわけではない。商品として扱うことも否定していない。ただ、酒の名と蔵の縁を雑に扱うことを許さない」


蒼麻は少し困った顔をした。


「そんな立派な話ですかね」


真響が即答する。


「立派ではない」


「そこ否定するのか」


「お前らしいというだけだ」


蒼麻は少し笑った。


「それならまぁいいか」


檀はそのやり取りを、少しだけ興味深そうに見ていた。


「真響さん」


「何だ」


「あなたが蒼麻さんの傍にいる理由が、少し分かった気がします」


真響の目が鋭くなる。


「分かった気になるな」


檀はすぐに頭を下げた。


「失礼しました」


蒼麻は小声で言う。


「檀さん、引き際うまいな」


「監査部ですので」


「便利な部署だな」


その夜、和灯には圭吾も来ていた。


彼はぐったりしながら、蓮二の出した酒を見て言った。


「今日は……ちゃんと名前で呼ぶ」


蓮二が眉を上げる。


「お」


圭吾は瓶を見た。


「田酒」


「おお」


「獺祭」


「よし」


「風の森」


「ようやく人間に戻ったな」


圭吾はしみじみ言った。


「銘柄はちゃんと呼ばなきゃ駄目だね……」


真響が頷く。


「遅い」


蒼麻は笑った。


麻那はまだ来ていない。

檀は現場処理で残っている。


和灯には、いつものように灯りがある。


蓮二が、蒼麻の前に一杯置いた。


「今日はこれだな」


「何?」


「岡山の蔵元から直接仕入れたやつ。ちゃんと正規ルートだぞ」


「そこ強調するな」


「今日くらいはしておかないと」


蒼麻は盃を持った。


香りを確かめる。


静かで、いい酒だった。


「……あぁ、うまいなぁ。最高かよ」


真響が横で言う。


「よかったな」


「うん」


その一言に、いろいろな意味が混じった。


酒が壊されなかったこと。


蔵の名が戻ったこと。


自分が怒れたこと。


そして、酒をまだうまいと思えていること。


圭吾が小声で言う。


「蒼麻くん、今日めちゃくちゃ怖かったよ」


「そうですか」


「酒のことになると、人変わるね」


蓮二が即答する。


「前からですよ」


真響も頷く。


「前からだな」


「そこ二人で揃うな」


蒼麻は苦笑しながら盃を傾けた。


外では、神代の誰かがまたこちらを見ているのかもしれない。


鬼灯か。


菖蒲か。


あるいは、まだ知らない神代か。


少なくとも、今夜はこの一杯の名前は守られたのかもしれない。


「美しい心を(よろこぶ)ぶ、嘉美心ね」


蒼麻は、その名をもう一度目で確かめてから、静かに飲んだ。

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