第二十六話 影踏み監査
神代商工会調査機構の監査部は、都心の高層ビルの一角にあった。
白い壁。
磨かれた床。
整いすぎた照明。
表向きは、企業監査とリスク管理を担う部署。
裏では、神代系列企業に発生する怪異や呪的汚染の初期調査も行う。
蒼麻はエレベーターを降りた瞬間、顔をしかめた。
「……空気が残業してる」
麻那が隣で頷く。
「分かる?」
「分かりたくない」
廊下の奥から、紙をめくる音が聞こえた。
夜ではない。
まだ昼過ぎだ。
だが、そのフロアだけ妙に暗い。
窓の外は明るいのに、床には濃い影が張りついている。
真響は少し後ろを歩きながら、低く言った。
「すごいな人間は、よく影まで働かせるな」
「普通は働かないんだよ」
「なら、これは普通ではないのだろう」
「それはそう」
案内された会議室には、監査部の責任者が待っていた。
四十代前半の女性。
神代分家筋の者らしく、物腰は丁寧だが目が鋭い。
「神代監査部、神代檀です」
麻那が軽く頭を下げる。
「神代麻那です。こちらが兄の蒼麻」
檀は蒼麻を見た。
見て、少しだけ目を細める。
「お噂は」
蒼麻は即座に言った。
「良くない噂ならだいたい誇張ですよ」
「それでは良い方の噂は?」
「それはたぶん流れてませんね」
檀は少しだけ笑った。
「面白い方ですね」
真響が横から静かに言う。
「値踏みするな」
会議室の空気が一瞬で冷える。
檀は真響を見た。
「黒狐真響様」
「様はいらぬ」
「では、真響さん」
「馴れ馴れしいぞ」
蒼麻が小声で言う。
「難易度高いな」
麻那も小さくため息をついた。
檀は動じなかった。
「失礼しました。ですが、今はご協力いただけると助かります」
真響は答えない。
ただ、会議室の外へ目を向けた。
「影が多い」
檀の表情が変わる。
「見えますか」
蒼麻は窓際へ歩いた。
ブラインドの隙間から、隣のフロアが見える。
デスクが並ぶ。
人はいない。
だが、影だけが椅子に座っていた。
黒い人影が、パソコンに向かい、書類をめくり、印を押している。
カタカタ。
カタカタ。
キーボードの音だけが続く。
「……本人は?」
蒼麻が聞く。
檀が答える。
「理由をつけて帰らせました。勤務記録上も退勤済みです」
「なのに影が働いてる」
「はい。しかも、その影が作成した資料が翌朝、正式な監査報告としてシステムに登録されています」
麻那が端末を確認する。
「内容は?」
「虚偽報告、不自然な責任転嫁、不要な押印、過剰なリスク分類。どれも小さな歪みですが、積み上がると企業判断を誤らせる」
蒼麻は影を見る。
「残業してるというより、本人が逃げた仕事を影が片づけてるのか」
「ええ」
檀は頷いた。
「ただし、片づけ方が歪んでいます」
真響が言う。
「影が、持ち主は見たくないものを背負っている」
蒼麻は小さく息を吐いた。
「また責任問題か」
麻那が静かに言った。
「社印喰いの次にこれ。偶然とは思えない」
「だから誰かが仕掛けたっていうんだな」
「たぶん」
檀は、表情を変えずに言った。
「私ども監査部も、そう見ています」
蒼麻は檀を見る。
「あなたは、仕掛けた側じゃないんですか」
麻那がわずかに目を見開いた。
檀は驚かず、むしろ微笑んだ。
「疑うのは当然です」
「答えは?」
「違います。ですが、監査部内部に協力者がいる可能性を考慮しています」
「素直ですね」
「監査の基本です。自分たちも疑う」
真響が少しだけ目を細めた。
「人間にしては、ましだな」
檀は丁寧に頭を下げた。
「光栄です」
「褒めてはいない」
「存じています」
その受け答えをみて蒼麻は思わず笑いそうになった。
この人、強そうだな。いろんな意味で。
問題のフロアに入ると、空気はさらに重かった。
無人のオフィス。
だが、影だけが働いている。
一つの影が書類を作る。
別の影が確認印を押す。
さらに別の影が、他部署へメールを送る。
影に顔はない。
しかし、動きだけは異様に人間らしい。
疲れている。
焦っている。
責任を避けている。
蒼麻は一体の影の背後に立った。
パソコン画面には、監査報告書。
リスク要因:現場担当者判断ミス
蒼麻は眉を寄せる。
「これ、本当か?」
檀が資料を確認する。
「違います。実際には上層部の指示によるものです」
「なのに現場担当者の責任にしてる」
「はい」
影の手が止まる。
ゆっくりと振り返る。
顔のない影が、蒼麻を見た。
――仕方ない。
声がした。
――そう書けば、終わる。
別の影が言う。
――誰かが悪いことにしなければ、報告は閉じない。
さらに別の影。
――上の名前は書けない。
――自分の名前も書きたくない。
――だから、下へ。
蒼麻は奥歯を噛んだ。
「嫌な現実感だな」
麻那が静かに言う。
「企業監査では、よくある歪み」
「こんなのよくあっちゃ駄目だろ」
「駄目だよ。でも、ある」
影たちは、また作業に戻ろうとする。
真響の狐火が、床を走った。
影たちの動きが止まる。
「蒼麻」
「何だ」
「これは祓うだけでは済まぬ」
「分かってる」
蒼麻は床を見た。
影は、社員本人から切り離されたものではない。
本人たちが見たくない責任、言いたくない報告、押したくない印、向き合いたくない矛盾。
それらが影に押しつけられている。
影は、本人の代わりに働きながら、本人の歪みを増幅している。
「このフロアの本人達を呼べますか」
檀が頷く。
「すでに別室で待機させています」
「じゃぁ、全員ここへ」
麻那が蒼麻を見る。
「お兄ちゃん、かなり荒れるよ」
「だろうな」
「それでも?」
「影だけ働かせてる方が悪い」
真響が小さく頷いた。
「正論だ」
呼ばれた社員たちは、疲れた顔をしていた。
管理職。
監査担当。
経理。
法務。
現場責任者。
全員が、自分の影を見て青ざめた。
「何だ、これ……」
「私の影なのか?」
「まだ仕事してる……」
一人の管理職が呟いた。
「そこまでしなくても」
蒼麻はその男を見た。
「誰がそうさせたんですか」
男は言葉に詰まる。
影が、代わりに答えた。
――あなた。
男の顔が歪む。
「違う。私は、会社のために」
影がキーボードを叩く。
画面に文字が浮かぶ。
会社のために、部下へ責任を移す。
男が叫ぶ。
「違う!」
別の影が書類を差し出す。
確認済み。
ただし、実際には未確認。
また別の影が印を押す。
承認。
ただし、責任は取らない。
社員たちの顔が、次々に青ざめていく。
真響が静かに言う。
「影は嘘をつかぬ。だが、残酷だな」
蒼麻は頷く。
「本人が見たくないものをそのまま出すからな」
その時、フロアの奥で、ひと際濃い影が立ち上がった。
そして他の影よりも大きい。
スーツを着た人間の形。
だが、背中から無数のタイムカードのような紙片が生えている。
それは低く言った。
――働け。
社員たちが震える。
――帰っても働け。
――眠っても働け。
――責任を持て。
――ただし、責任者になるな。
――名前を出すな。
――印だけ残せ。
檀が低く呟く。
「監査影……」
麻那が目を細める。
「これを育てた人がいる」
蒼麻も同じことを感じていた。
自然発生ではない。
影を集め、監査という場に縛り、蒼麻に見せるために調整されている。
「趣味が悪すぎだろ。これは誰が視てますか?」
檀が端末を操作する。
「外部からの観測術式があります。発信元は……」
檀の手が止まる。
麻那が覗き込む。
「神代本家系の秘匿回線」
「誰です?」
「まだ特定できない。でも、紫苑様の直轄ではない」
真響が言う。
「蒼麻を試している」
「だろうな」
監査影が蒼麻を見る。
――お前なら戻せるのだろう。
蒼麻の胸の奥が熱くなる。
「そういう言い方、最近よく聞くな」
――戻せ。
――責任を。
――名を。
――影を。
「命令するな」
蒼麻は赤ペンを取り出した。
だが、すぐには線を引かない。
まず、社員たちを見る。
「これは、あなたたちの影です」
誰も何も言わない。
「影が勝手にやった、では終わりません。見たくない責任を、影に押しつけた結果です」
管理職の男が震える声で言う。
「それで我々にどうしろっていうんですか」
「自分で言ってください」
「何を」
「この報告のどこが嘘か」
男は黙る。
影が笑う。
――言えない。
蒼麻は静かに言った。
「言えないなら、影は戻らない」
長い沈黙。
最初に口を開いたのは、若い監査担当だった。
「この確認印は、押すべきではありませんでした」
影が一つ、揺れる。
「上司に急かされて、見たことにしました。でも、実際には資料を読んでいません」
蒼麻は頷いて隣の男に視線を向ける。
「では次」
経理担当が言う。
「この数字は、報告しやすいように丸めました。意図的に」
法務担当が続く。
「契約リスクを知っていました。でも、止めると統合計画が遅れるので、曖昧にしました」
現場責任者が、拳を握る。
「現場だけの判断ミスではありません。上からの指示です」
最後に、管理職の男が俯いた。
長い沈黙の後。
「……私が、責任を下へ流しました」
その瞬間、影たちの動きが止まった。
監査影が大きく揺れる。
――言うな。
――言えば終わらない。
――書類が閉じない。
蒼麻は言った。
「終わらせるために嘘を書くな」
赤ペンを走らせる。
床に。
社員たちと影の間に。
切り離す線ではない。
影を本人へ戻す線。
「影は影へ。名は名へ。責任は責任へ」
赤い線が光る。
「働いた影は、持ち主へ帰れ。
逃げた言葉は、口へ戻れ。
押した印は、押した者へ戻れ」
影たちが、ゆっくり社員の足元へ戻っていく。
一人、また一人。
影が戻った社員たちは、よろめいた。
疲労。
罪悪感。
恐れ。
それらが本人へ返ったのだ。
だが、同時に、目の焦点が戻っていた。
監査影だけが残る。
背中のタイムカードが、ばらばらと落ちる。
――まだ働ける。
――まだ隠せる。
――まだ責任を流せる。
蒼麻は監査影を見る。
「お前を作ったやつに伝えろ」
麻那がはっと顔を上げる。
真響も蒼麻を見る。
「試したいなら、直接来い」
監査影が揺れる。
蒼麻は続けた。
「人の影を使うな。趣味が悪い」
真響が小さく笑った。
「言ったな」
「言ってやっただろ」
蒼麻は最後の線を引いた。
監査影の足元へ。
「監査は、暴くためのものだ。隠すために働くな」
赤い光が走る。
監査影は、黒い紙片になって崩れた。
その紙片の一枚だけが、蒼麻の足元へ落ちる。
そこには、朱で小さな印が押されていた。
神代の紋。
だが、本家紋ではない。
麻那が拾い上げる。
「……これは」
檀の表情が変わる。
「神代鬼灯様の系統で使われる印に似ています」
「鬼灯?」
蒼麻が聞く。
麻那は厳しい顔で答えた。
「神代一族の闇を担う人」
「また面倒な花の名前が出たな」
真響が静かに言う。
「闇を扱う者か」
麻那は頷く。
「ただ、本人とは限らない。関係者か、偽装かもしれない」
蒼麻は紙片を見る。
「つまり、挑発は続く」
「うん」
檀が深く頭を下げた。
「助かりました。こちらは内部監査をやり直します」
蒼麻は言った。
「社員本人たちが、ちゃんと書き直してください」
「もちろんです」
真響が淡々と言う。
「二度と影に働かせるな」
檀は真面目に頷いた。
「肝に銘じます」
その夜、和灯。
蒼麻は疲れた顔でカウンターに突っ伏していた。
「影だけ残業とか、洒落にならない」
蓮二が牡蛎と豆腐の椀ものを置く。上には柚子が添えられていて清々しい香りを運んでくる。
「本人が残業するより怖いな」
「どっちも怖い」
麻那は隣で資料を見ている。
真響は盃を持ったまま、静かに座っている。
「鬼灯さんの系統が絡んでるなら、次は少し厄介」
麻那が言った。
蒼麻は顔だけ上げる。
「今まで厄介じゃなかった案件があったっけ?」
「比較的軽いものはあった」
「空請求の帳簿憑きが懐かしい」
蓮二が苦笑する。
「最初は帳簿だったんだよな」
「今は影が残業して、神代の闇が印を落としていく」
「出世魚みたいに怪異が育ってるな」
「嫌すぎる成長だな」
真響が静かに言った。
「蒼麻」
「何だ」
「今日の言葉は悪くなかった」
「どれ?」
「試したいなら直接来い、だ」
麻那が少しだけ笑う。
「私もよかったと思う」
蒼麻は盃を持ち上げた。
「本当に直接来たら困るんだけどな」
真響が薄く笑う。
「来るだろうな」
「やっぱりそうだよな」
麻那も頷く。
「来ると思う」
蓮二が酒を注ぎながら言った。
「じゃあ、来る前に食っとけ」
蒼麻は椀を見た。
「和灯、だんだん作戦本部になってきたな」
蓮二は肩をすくめる。
「うちはあくまで小料理屋だ」
真響が盃を置く。
「皆の帰る場所だろう」
その一言に、少しだけ場が静まった。
蒼麻は真響を見る。
真響は何でもない顔で酒を飲んでいる。
麻那は、少しだけ柔らかく笑った。
蓮二は、照れ隠しのように厨房へ戻る。
蒼麻は椀を手に取った。
疲れと責任と、神代の面倒な視線。
全部がまだ残っている。
それでも、今夜は影ではなく、自分の手で箸を持っている。
それは、少しだけまだましだった。




